眠る森

阿尾鈴悟

眠る森

 ある晩、町から男が森へ入った。鬱蒼とした深い森だ。伸びた枝葉は隣の木々と絡み合い、昼でも入る光は僅かだろう。その証拠に、木々の下では、日陰でも育つ、背の低い植物だけが生い茂っている。

 年はまだ若く見える。周囲の闇と同化する黒々とした髪に、そう濃くもない鼻から顎へと口の横を通り抜ける老化の線。青年と呼ぶにはもう遅く、中年と呼ぶには少し早い。ある程度の経験を積み、いわゆる、働き盛りに差し掛かろうという年代だ。

 鞄はどこにも持っていない。それどころか、先を照らすランタンの類も見られない。服も森へ入るにしては、あまりに軽装で、持ち物は手に握られたロープの束だけだった。

 暗がりの奥へ奥へと進む彼は、ややうつむき加減で、足のすぐ先を眺めていた。時折、頭上の木々が不自然に腕をぶつけ、その時ばかりは、彼も顔を上げるのだが、走り去っていく小動物を見つけると、またすぐに地面を視線を戻してしまう。ほとんど何かに引き寄せられるように、彼は絶えず歩みを続けた。

 しばらくすると、彼は少しだけひらけた場所に出た。やはり光は落ちて来ないが、密集していた樹木たちが、ここには近づけないとでも言いたげに、そこから先は根っこしか張っていない。

 巨木。

 そこには、一本の巨木がそびえ立っていた。

 少し上を向くくらいでは、天高く伸びる先端はとても見えず、輪になって幹を囲うとしても何人の人手が必要になるかも分からない。彼が通り去ってきた木々とはまるで違う、圧倒される大きさだった。

 彼はその巨木へ近づき、元来た道を振り返る。町の灯りはいっさい届かず、本当に見ている場所が元来た道なのかも疑わしい。けれど、彼はその先の町を思ったのか、口だけの微笑を冷たく浮かべた。

 ロープを解くと、彼の身長より少し長いだろう物とその何十倍もありそうな長さの二本に分かれ、彼は後者の先端に手近な石を括った。これだけで重りとしては十分だ。腹部の横に構えた手からやや長めにロープを垂らし、彼は勢いを付けるよう重りを前後に回し始めた。ロープと重りが空を切る。次第に音が大きくなり、ロープの早さも増していく。音が一定になったところで、頭上の枝を目掛けて重りを放った。重りが弧を描きながら枝を越え、軌跡ロープを幹の近くに掛けて戻ってくる。数度、強度を確かめるようにロープを引いた後、彼はその片側に結び目を作り、その上と自らの腰を、もう一本のロープで繋いだ。枝から垂れる同じロープの膝の辺りに、もう一方のロープを結びつけ、出来た結び目に片足を掛ける。そうして、結び目を交互にずらしながら、彼は上へと登り始めた。

 ロープから枝によじ登ると、彼の目線は通り抜けてきた木々の一番上と同じになった。はっきりとは見て取れないものの、森の遠くがぼんやりと発光している。町が一つの灯りとして輝いているようだ。

 長いロープからもう一方のロープを外し、腹の前に作っていた結び目も解いてしまう。彼はそのロープの片側を枝に結び付け、残された反対側に輪っかを作った。顔が入る、大きな輪っかだった。後は首を通すだけ。

 両手で輪を持ち、その先の虚空を見つめて、唇を噛む。頭を通そうとしては、やはり止める。そういうことを、彼は何度か繰り返していた。

 未練。

 走馬燈とは良く言うが、それはきっと、死ぬ直前では無く、死を理解した直前に見るのだろう。とうとう、彼はロープを枝の上に置いてしまった。涙を滲ませ、ついには声まで上げて泣き始めた。ここまで来ても死にきれないようだった。

 その様子をずっと見ていた私は、ほうと息を吐いて、彼へ向かって襲い掛かった。いつも狙う小動物とは勝手が違う。けれど、爪を立てる直前までの動きを繰り返せば、案の定、彼は抵抗しながら後ずさり、幹と枝に開いた目的の洞へと落ちていった。私も羽を畳んで後を追う。洞の中は広いけれど、『部屋』までの通路は狭いのだ。いくら歩くことも出来るとはいえ、時間が掛かるから好きではない。

 通路を抜けた先で、彼はすでに木の椅子に座っていた。事態が飲み込めないという表情こそしているが、泣かれてしまうよりは随分とマシだろう。私はそんな彼を横目に羽を伸ばして、彼と相対している女性のすぐ頭上の枝に止まった。

「さて、彼も来たことだし、話をしようか!」

 切り出す彼女に、彼は体を振るわせる。私は気付いていないだろう彼女の頭をつついた。

「なんだい? ……ああ、そうか。ごめん。何せ、話すのなんて久しぶりだからさ。そうだね……。まずは君の聞きたいことを聞くべきか。何か質問は?」

 悩んだように周囲を見渡した彼が、おずおずと口を開く。

「……ここは何処ですか?」

「ここは君が死のうとしていた木の中だよ。樹の皮がはがれて、中が腐って出来たんだ」

「あなたは?」

「それは難しいな。でも、あえて言うなら、森の精かな?」

 思わず小さく驚嘆の声を上げた彼を見て、私は再び彼女をつついた。煩わしそうに手で払ってくる彼女に、次へ進めと訴えかける。

「君の事情は知っているよ。森の鳥が町の鳥に聞いたそうだ。君は人並みの幸せが欲しかった。出来るなら苦労もしたくなかった。なのに、気付いたら、毎日を会社という場所で残業とやらを続けている。それが嫌だったんだね」

 うなずく彼に、彼女は優しく続ける。

「だから死のうと?」

 更に彼がうなずくと、彼女は少し落胆したように目を伏せた。

「そう。君がそういう道を選ぶなら、それはそれで良いと思うよ。けど、森(わたし)の上で死ぬのは止めてくれる?」

 再び驚きの声を上げる彼。しかし、私は彼女の頭をつつかない。

「君がここで死ぬと、少なからず君を心配する人がいるはずだ。例の会社の人や家族、つがいとか。そうすると、その人たちが探しに来るかもしれない。通報していたら、警察の人かな。とにかく、君が見つかるまでの間、町の人間たちが、大勢、森へ押し寄せる。するとね、土が固まってしまう。何人もの人によって、何度も何度も踏まれることで、土の密度が上がってしまうんだ。その固い土だと、木によっては成長が止まってしまう。根っこが生長できなくなって、水もご飯も食べられずに餓死するんだ。木が実を作らなければ、その実を食べる動物も餓死し始める。またその動物を食べる動物も死んで、さらにその動物を食べる動物が死んで行く。君みたいに自分で死ぬんじゃなくて、たまたまそこに居ただけで、木々が死に、動物が死に、森が死ぬんだ。君にそれだけの覚悟はあるのかい?」

 彼女の理論はあまりに粗雑だ。悪化から更に悪化する未来を示唆する、万が一の可能性に過ぎない。けれど、私たちが住む森を守るには、万が一の可能性ですら、潰さなければならないのだ。

「じゃあ、どこで死ねば良いんですか……」

「知らないよ。でも、私が一つ言えるのは、死んで今より良くなるかなんて分からないってことだね」

 うなだれる彼を見つめ、彼女はにやりと口の端を上げた。鋭い目つきは獲物を狙うそれであり、猛禽類の私でも背筋が凍る。次の展開が読めてしまった私は、一応、彼女の頭を叩いてみるが、やはり気にも掛けていない。

「そうだね。だったら、森の一員にでもなるかい?」

 三度目の驚嘆の声は、まるで地獄の底で蜘蛛の糸を見つけたよう。

「私なら君を動物や植物に変えることが出来る。例えば、彼みたいにフクロウとか。フクロウって、不苦労だったり、福老と言われて縁起が良いそうだ。君もそんな風に過ごせるかもよ?」

「でも、それだと、結局、俺の知り合いは森に入ってしまうんじゃ……?」

「ああ。だから、関係を断って、もう一度、ここに来ればいい」

 しばらくの間、顎に指を置いて考えた彼は、彼女をまっすぐに見てうなずいた。

「よろしい! 帰りはその穴から帰ると良い。地表の近くに出るよ」

「ありがとうございます」

「良いんだ。でも、良く考えてから、決断したまえよ? 結局は先が分かるだけの死と同じだけなのだから」

 穴へ消えていく彼の背中を見つめ、私は彼女の頭をつついた。

「なんだい? 不満かい?」

 羽を大きく広げて、あたりまえだと伝える。

「だって彼は悩んでいたじゃないか。人間でいて辛いと。頑張っても報われないなんてことは、この森でもあることだけど、休みたくても休めないなんてことはない。自分次第だからね。その分、狙われたり衰弱の可能性はあるけれど」

 地獄に垂らされた蜘蛛の糸は、最後にぷつんと切れてしまう。

「まあ、経験者の君がそう言うなら、そうなのだろうね。だけど、最後はあの子の判断さ」

 自称・森の精を名乗る魔女に対して、自在に回る首を左右に振ってみせ、私は元来た通路へと体を入れる。

「止めても良いけど、その分、君を人に戻すのは後にするよ?」

 魔女の言葉を聞きながら、私は通路を先を目指して歩く。洞を出ると、夜は明けていて、森の先に光が見えた。町の明かりなどではなく、太陽による自然光だ。人間だった頃なら、きっと、美しいと思えたのかもしれない。けれど、夜行性となった今の私には、眠気を運ぶ忌まわしいものとしか映らない。私は首を回して、彼の足音の方へと飛び立った。

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眠る森 阿尾鈴悟 @hideephemera

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