第9話 おべでどぅごじゃぃまずぅ……
「おべでどぅごじゃぃまずぅ……」
わたし、号泣です。
アクセサリーは、着ける位置によって様々な意味が付加されるといいます。
左手の薬指に指輪をはめれば婚約者、または伴侶がいる証だとか。
左手の小指に指輪をはめるのは恋人募集の合図だとか。
腕に恋人の名前を彫るのは別れた後でメッチャ後悔しちゃうフラグだとか。……いや、これは違いますね。忘れてください。
そして、今もっとも問題となっているのが――右耳の赤いピアス。
これまでピアスをしていなかった人が右耳にだけ赤いピアスをつけるというのは、恋人が出来たという合図なのです。
「おっ、おぅ……おめで、……どぉぅうう……」
嗚咽で言葉が出てきません。
今日は出版社へ打ち合わせに行く前にこの喫茶店コクリコで少し早い昼食をとり、そのおかげか驚くほどスムーズに話がまとまって新刊の企画が通って、これはもう遠野さんにお礼を言わなければ今夜は眠れないと夕方にもう一度コクリコを訪れたら……遠野さんに、恋人が出来ていました。
「おどぉぅうぉうぉぅ……」
胸が張り裂けそうで、いやもう絶対張り裂けています。
遠野さんは大切な人なので幸せになってもらいたい。それは、ずっと前から思っていたことでした。
もしそれがわたしと関係のない幸せであっても、わたしは心から遠野さんを祝福しようと、『おめでとう』を言おうと……ずっと覚悟をしてきた、はず、なのに……
悲しみが、止まりません。
あぁ、どうしてわたしは勇気を出さなかったのか。
どうして、もっと素直に「好き」だと伝えなかったのか……
今のままの関係が続けばいいと思っていました。
今のままの関係が続くと思っていました。
けれど、それは突然終わりを告げて……
「おぅ、おど、おっ……おっどぅ」
「お前は迷子の田舎娘か」
呆れ顔でハンカチを差し出してくれる遠野さん。
その優しげな目も、差し述べてくれた手も、もう誰か別の人のものなんですね……
「いいから落ち着け」
「無茶を言わないでぐだざい……」
「桃とイチゴのフルーツタルトを焼いたんだが」
「……努力してみます」
とてつもなく美味しそうなフルーツタルトが目の前に現れて、わたしの傷だらけの心がほんの一瞬涙を止めてくれました。
「で、なんで泣いてんだ?」
「ご自分の耳に聞いてください」
「難しいこと要求すんじゃねぇよ」
なんですか、もう。
浮かれてピアスとか開けちゃったくせに、知らん振りですか。もうもう!
そんな派手な赤いピアスに気付かないとでも思っているんですか、もうもうもう!
「わたし……十二歳年の離れた兄がいるんです」
「どうした急に?」
「聞いてください」
わたしは過去に一度、今のように悲しみに噎び泣いたことがあるんです。
「にぃにはとても優しかったんです」
「……『にぃに』って呼んでたのか」
「わたしが小学生の頃は、よくデートに連れて行ってくれました」
「へぇ……ちなみに、どんなことしたんだ?」
「クレープを食べたり、ケーキバイキングに行ったり」
「お前、昔っから変わってないんだな」
遠野さんが微妙な表情をしています。
わたしの食いしん坊は今はどうでもいいんです!
「そんな優しかったにぃにが、ある日突然右耳に真っ赤なピアスをつけるようになったんです」
「ピアス?」
「はい。燃え上がる愛の赤だと言っていました」
遠野さんが小首を傾げます。
シラを切っているのでしょうか。白々しいです。
「男性は、恋人が出来ると右耳に赤いピアスをつけるんですよね?」
「いや、初耳だが?」
「でも、にぃにがそう言っていました! にぃにに彼氏が出来た時に!」
「ごふっ!」
遠野さんが咽せました。
遠野さんはちょいちょい咽せます。気管が弱いのかもしれません。早めに診察を受けるべきです。
「にぃには……兄、だよな?」
「当たり前じゃないですか」
「……彼氏が、出来たのか」
「はい。素敵な恋人が」
目頭を押さえて項垂れる遠野さん。
ぼそぼそと「そっか……右耳にピアスね……」と呟いています。
何を他人ごとのように。
「遠野さんも同類じゃないですか!」
「違うわ!」
「だって、右耳に赤いピアスが!」
「誰がピアスなんか……って、なんだこりゃ?」
自分の耳たぶを触り、そこに張りついていた赤いモノを摘まみ取る遠野さん。
二人してそれを覗き込むと、なんとそれは――
「ご飯粒、だな」
「はい。しかも、ケチャップライス……ですね」
なんと言うことでしょう。
わたしの勘違いでした。
わたし、赤っ恥です!
けど、なぜケチャップライスなんかが……
はっ!?
わたし今日この席でオムライス食べました!?
まさかその時のご飯粒ですか!?
「ど、どうしてご飯粒が耳たぶに!? 遠野さん、何してたんですか!?」
「あ~、そういやその席でうたた寝してたっけな」
「わたしが座っていた席で、ですか?」
「ぅおうっと、いや! 違う! 別に深い意味はなくて、たまたまというか、偶然そこに座っただけだ!」
「その時に、わたしが食べこぼしたケチャップライスが遠野さんの耳たぶに……」
「食べこぼすなよ……」
「にぃにみたいなこと言わないでください」
「子供の頃から言われてたなら、どっかで直せよ」
なんという神のイタズラ……
偶然に偶然が重なって、奇跡のような確率でわたしの勘違いが引き起こされたようです。
今、ものすっごく恥ずかしいです!
とはいえ、念のために確認だけはしておきたいと思います。
「遠野さん。今日、何か変わったことはありませんでしたか?」
「今、物凄く変わった出来事に遭遇しているところだな」
そうじゃなくて!
もう、分かってるくせに……
ちらりと、遠野さんの顔を窺い見ます。
変わらない、少しだけ意地悪そうな笑顔。
メガネ以外の装飾品を身に着けない、飾り気のない笑顔。
あんなに焦ったというのに。
あんなに後悔したというのに。
わたしはまた、この笑顔がいつまでも変わらずここにあってほしいなと、そんなことを考えてしまうのでした。
「遠野さんは変わらないでくださいね」
「お前はもうちょっとまともな大人になろうな」
「むぅ! 酷いです」
からかわれて、くすぐったくて、わざと怒ってみせます。
子供の頃、世界で一番優しいと思っていたにぃに。
けどね、にぃに。
世界は広いよ。
にぃによりもっとずっと優しい人に、わたし、出会いました。
そしてわたしは、その人に恋をしたんです。
にぃにもあの頃、今のわたしのように満たされた気持ちだったのでしょうか。
だとしたら、許します。
わたしと遊んでくれなくなったこと。わたしにケーキをご馳走してくれなくなったことも。
今、わたし、結構幸せですので。
「で、何を泣くほど騒いでたんだ?」
わたし、ピンチです!
ど、どど、どうしましょう!?
なんと言い訳をしましょう!?
まさか、「遠野さんに恋人が出来たと思って号泣しちゃいました」なんて言えるはずもありません。
だから、なんとか言い訳をしなければいけません!
「と……遠野さんが……」
けれど、咄嗟にいい言い訳が見つかるわけもなく、わたしは往生際の悪い言い逃れを口にしました。
「にぃにみたいになっちゃうんじゃないかと」
「ならねぇよ」
物凄く力強く否定されました。
そして「いや、別に思想を否定はしないけども、俺は違うから」と言い訳するように捲し立てました。
「……ったく。なんの心配をしてんだか」
そして、呆れたように息を吐いて、いつもの優しい笑顔で言ってくれました。
「変わらねぇよ、いつまでも」
わたしが、そうであればいいなと思っていたことを、肯定するように。
素敵過ぎます、遠野さん。
これからも、ずっと変わらない二人で…………それはそれで、ちょっとどうなのかと思わなくもないのですが……むむむ。
「と、ところで」
一瞬声をひっくり返らせ、遠野さんが明後日の方向を見ながら尋ねてきます。
「兄のことを『にぃに』って呼ぶなら、こ、恋人が出来たら、なんて呼ぶんだ?」
恋人が出来たら。
そんなことは考えたことがありませんでした。
でもきっと、わたしは今と変わらずに『遠野さん』と呼ぶんだと思います。
「それはもちろん、とお――」
言いかけて、これは言っちゃいけないヤツだと気付きました。
「とーちゃん!」
「気が早ぇな!?」
咄嗟に誤魔化しました。
誤魔化せましたが、またちょっと変な娘だと思われたっぽいです。不服です。
「あっ!? 忘れてました!」
泣いて騒いですっかり忘れていましたが、今日中にプロットの修正を編集さんに送らなければいけないのでした。
企画が通ってもそれで完了ではないのです。修正地獄がここから始まるのです。
そんなことを遠野さんに語り、そしてお昼のオムライスのおかげですとお礼を述べました。
遠野さんは「んなわけないだろう」と笑って、そして。
「よく頑張ったな。おめでとう」
そう言ってくれました。
不思議です。
さっきは胸が張り裂けそうな悲哀をもたらした言葉なのに、遠野さんの口から聞こえてくるとこんなにも幸福感に満たされるなんて。
遠野さんだから、なんでしょうね。
凄いです、遠野さん。
わたしのこと、なんだってお見通しじゃないですか。
にぃによりも、ずっとずっとわたしのことを理解してくれる。
遠野さんがにぃにだったなら、わたしはもっと兄にべったりな娘になっていたでしょうね。
そんなことを考えて、ほんの少しだけイタズラをしてみたくなりました。
「ほれ、サンドイッチ包んでやったから夜食にでもしてくれ」
可愛い包みを差し出す遠野さんに向かって、かつて兄にしていたような口調で言いました。
「ありがとね、にぃに」
言ってみて、やっぱり恥ずかしいと思い知り、わたしは包みをひったくるように奪ってお店を飛び出しました。
こんなに恥ずかしいなら、やっぱり兄妹にはなれません。
そんな当たり前のことを考えて、わたしは家路を急ぎました。
☆★☆★☆★
ドアが閉まり、俺はまたしても床にヒザを突いた。
「にぃには……ズル過ぎるだろ……っ!」
その日、その後のことはもう、ほとんど覚えてなかった。
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