第7話 なんでも望みが叶うなら、それは幸せなのでしょうか?

 なんでも望みが叶うなら、それは幸せなのでしょうか?



「今度の小説は、思い描いたものが実現する仮想現実の世界が舞台なんです」

「仮想現実?」

「大規模多人数同時参加型オンラインRPGの発展形で、自分の意識だけが仮想空間に転移してゲームを実体験出来るという、いわゆるところの『MMTRO』というヤツです!」

「それもう、ほとんど『モモタロウ』じゃねぇか」


 あれ? 違いましたっけ?


「『MMORPG』だろ?」

「それです」


 仮想現実の世界では、人々はどこまでも自由なんです。

 解き放たれた精神には、肉体という制限がないのですから。


「夢の中でやりたい放題出来るのと同じ原理です」

「俺は夢の中では不自由だけどな。走れなかったり、声が出せなかったり」

「わたしは『あ、これ夢だな』って気付いたらやりたいことをなんだってやっちゃいますよ」

「たとえば?」


 たとえばと聞かれ、わたしはこの前見た夢の内容を話しました。


「メロンが食べたいと言ったら、目の前にマスクメロンが出てきたんです!」

「夢の中でも食ってるのかよ……」


 遠野さんが呆れたように息を吐いて、そして、得意気ににっと笑いました。


「もしかしたら、これはお前の夢かもしれないぞ」


 そんなことを言って、冷蔵庫からメロンを取り出しました。

 しかも、高級感溢れるマスクメロンです。


「こ、これは?」

「お前の夢の続き、かもな」


 くすくすと笑って、少しだけ意地悪くそんなセリフを口にする遠野さん。

 まさか、本当に言ったことが実現するとは……ならば。


「このまま食べるのもいいんですが、わたし、マスクメロンのパフェが食べてみたいです」


 コクリコにそんなスウィーツが誕生したらどんなに素敵でしょうか。

 けれど、コストを考えればそれは難しいでしょうね。

 ふふ。ただのわがまま、ただの無い物ねだりです。


 だというのに。


「お前、凄いな」


 驚いた表情で遠野さんが差し出してきたのは、わたしが思い描いたような立派なマスクメロンのパフェでした。


「こういうのを置こうと思ってたところなんだ」

「え? ほんと……ですか?」

「あぁ。凄い偶然――いや、やっぱりこれはお前の夢なのかな」


 凄い偶然にテンションが上がったのか、遠野さんがわたしにウィンクをしました。



 ウィンクを、しました!



 う、うぅうう、ウィンクです!

 初めてされました!

 な、なんて心臓への負荷が凄まじいのでしょう!?

 兵器です、もはや!


「他に望みはないか?」


 遠野さんがにこやかな顔でわたしに尋ねます。

 カウンターに手を突いて、わたしの顔を覗き込むように。


 ち、近い、です……


「今日なら、どんなことだって叶うかもしれないぞ」


 囁くような、吐息混じりの声が耳をくすぐります。

 堪らず首をすくめました。


「言ってみろよ。俺が叶えてやるから」


 意地悪く、わざとわたしの耳元でそんなことを囁く遠野さん。


 顔から火が出ました。

 遠野さん、これは、なんていうイタズラなんですか……

 わたしはなんだかもうパニックで、いつもなら絶対に言えないような望みをつい口にしていました。


「じゃ、じゃあ……あ、あーんを、して……ください」


 言い終わった後、すぐに謝りたい気持ちが溢れてきました。

 すみません。調子に乗りました。今のはほんの冗談なんです。だから笑わないでください。呆れないでください。……うざったいと思わないでください。


 けれど……


「いいよ」


 目の前の遠野さんは優しく微笑んで、長いスプーンを器用に操って、生クリームとマスクメロンを一口分掬って――


「はい、あーん」


 わたしに向かって差し出しました!


「あ…………あ~……ん」


 アゴが震えてどうにかなりそうでした。

 折角のメロンの味がさっぱり分かりませんでした。生クリームの甘さも分かりません。

 ただただドキドキして、わたしは懸命に咀嚼して飲み込みました。


「美味しい?」

「ゎ……かり、ません……」


 なんだか、もう泣きそうになって、遠野さんから逃げるように顔を背けてしまいました。

 こんなことが起こるだなんて。奇想天外過ぎます。

 心の容量が、もうパンクしそうです。


「まだ、あるだろ?」


 遠野さんの手がわたしの指先に触れ、全身に電気が走りました。

 思わず顔を上げると、すぐ目の前に遠野さんの顔があって、澄みきった瞳がわたしを見つめていました。


「お前の、本当の望みが……」


 そう呟いて、


 そっと、遠野さんの顔が近付いてきて……



「ダッ、ダメです!」


 顔を背けて両手でブロックしました。

 咄嗟のことで拒絶してしまいました。


 けれど、突然過ぎて、こんなこと……



「照れるなよ。ふふ、可愛いな」



 ゾクッ……と、背筋が震えました。


 両手越しに遠野さんを見ると、遠野さんは微笑んでいました。

 とても穏やかで優しい……なのになぜだか胸騒ぎがするような笑顔。


「これがお前の望みだろ?」

「ち、違……」

「いいや、お前は望んでいるはずだ。俺と、こうなることを……そうだろ?」


 遠野さんの手がわたしの手を握り、わたしは悲鳴を上げそうになりました。

 言い知れない恐怖が胸の奥から湧き上がってきます。



「好きだよ、みずき。お前を、愛しているんだ」



 待ち望んだ言葉。

 この声で、この笑顔で、この人に言われたらどんなに幸せだろうと、ずっと思い焦がれた言葉。


 なのに――


「やめてください!」


 わたしは全力でそれを拒絶しました。

 わたしが望んだのは、こんなことじゃない。

 わたしが「好き」だと言われたいのは、こんな人にじゃない。



「遠野さんの顔で、遠野さんの声で、そんなこと言わないでくださいっ!」



 そうです、今ごろ気が付きました。


 遠野さんがこんなことを言うはずがありません。

 わたしの言うことを都合よくなんでも叶えてくれるなんて、そんなわけありません。

 わたしの望みを叶えるためだけの、そんな都合のいい遠野さんなんて、本当の遠野さんであるわけがないんです。


「あなたは一体誰なんですか!?」


 透き通った――氷のように冷たい目が細められる。


「俺はオレだヨ、みズき……スきダよ、ミずき……ミずキ……ミズき」


 遠野さんの顔をした、得体の知れない『ナニカ』がわたしの腕を掴み、乱暴に引き寄せます。

 逃げ出そうとするのに、体が重く動きません。

 怖くて怖くて、わたしは必死に叫びました。



 助けて……助けてください、遠野さんっ!





「おい。おいこら、起きろ! 広瀬みずき!」


 唐突に、脳天に鈍い痛みが走りました。

 ガバッと顔を上げると、目の前に呆れ顔の遠野さんがいて……


「うなされてたぞ」


 わたしの顔を覗き込むその瞳は、ちょっと目つきが悪いけれどもとても温かくて、わたしがいつも焦がれていた本物の遠野さんの瞳だと一瞬で理解出来ました。


「とぉ……のさん……っ」


 安心したら、途端に涙が滲んできました。


「お、おい、どうした!? そんなに痛かったか?」


 涙の意味を勘違いした遠野さんが取り乱しています。

 手には、わたしの新刊。……ハードカバーじゃないですか。そりゃ痛いですよ。酷いです。


 でも……


 本物の遠野さんだから、許します。




 わぁ~い、本物の遠野さんだぁ。




「遠野さん」

「ん?」


 呼んだら返事をしてくれる。

 たったそれだけのことでいいんです。


「叩いたお詫びにマスクメロンのパフェを作ってください」

「無茶言うな。ねぇよ、メロンなんか」


 思い通りじゃなくても、都合よくいかなくても、わたしはやっぱり現実の世界がいいです。

 ちょっとイジワルで、夕飯前にお菓子は食べるなとお説教したり、時たま本で頭を叩いたりしても、それでも本物の遠野さんがいいです。


「代わりに、このクッキーを持って帰れ」


 思い通りじゃない方が、こんな風に思いがけない幸運に恵まれることだってあるんですから。


「ところで、今日締め切りじゃなかったか?」

「そうです、新作のプロットを……って!? 今何時ですか!?」


 窓の外は、もう真っ暗でした。

 慌てて席を立ちます。


 もっと早く起こしてくれればいいのに。そんな恨みがましい視線を向けると、遠野さんはいつもの笑顔で問いかけてきます。


「次はどんな話を書くんだ?」

「今流行りのMMTROです」

「それもう、ほとんど『モモタロウ』じゃねぇか!?」


 いつものキレのあるツッコミ。

 なんだか安心します。


 都合のいいあんな偽物じゃなくて、わたしはやっぱり――




「こっちの遠野さんの方が好きですよ」




 言って、お店を飛び出しました。

 お土産にもらったクッキーを食べながら今日中にプロットを仕上げて提出してみせます。


 最悪の夢見の後に訪れた最高の目覚め。

 そのパワーで不可能を可能にしてみせます。仮想現実なんかじゃなく、この現実の世界で。


「やるぞー!」


 拳を振り上げ帰路を急ぎました。




 この夜、寝る直前に自分の失言に気が付いて明け方近くまで身悶えることになるなんて、この時のわたしはまだ知りませんでした。




☆★☆★☆★




 ドアベルが鳴り、ドアが閉まると同時に床に倒れ込んだ。


 ……の方って。



「『の方』ってなんだよ!?」



 心臓がバクバクと踊り狂い、口元が勝手に緩み出す。


 あいつの発言に深い意味なんかきっとないのだろう。

 おそらく、とても怖い夢を見てそれと比較したとか、そんなお気楽な感じの発言なのだろう。


 けれど……




『こっちの遠野さんの方が好きですよ』




 破壊力、凄まじ過ぎるだろ、それ!


「あぁもう、可愛いな、チキショウ……!」


 まだ洗い物が残っている。

 店内の掃除も終わっていない。

 明日の仕込みもまったくの手付かずだ。


 というか、そもそもまだ閉店時間じゃない。


 だが、そんなことはまとめてみんなどうでもいい!


「帰って、寝る!」


 今すぐに眠れば、素晴らしい夢が見られそうな気がしていた。


 深い意味がなかろうが、こっちの勝手な勘違いだろうが、その言葉にはそれだけの破壊力があるのだ。



『こっちの遠野さんの方が好きですよ』




「こっちこそがだ!」



 店内で一人咆哮し、俺はさっさと帰路に就いた。



 結果として、この日ベッドに入ってから寝付けずに悶々とする時間の最長記録をぶっちぎりで更新することになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。





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