第6話 それは日付が変わる間際の出来事でした

 それは日付が変わる間際の出来事でした。


 新作の締め切りに追われたわたしは編集さんの手によってホテルに缶詰となり、なんとか丸一日くらいの余裕はあるかと油断した矢先にうっかり寝落ちしてしまい、三徹の反動で二十時間眠り続け、結果つい一時間前までかかって泣きながら原稿を仕上げ、魂の抜け殻となった体を引き摺ってなんとかかんとか最寄り駅まで帰ってきました。

 時刻は23時50分。


 そして今、わたしはほぼ一週間ぶりに、行きつけの喫茶店コクリコの前に立っています。

 当然ながら店内は真っ暗でした。

 当然です。閉店時間はとうに過ぎているのですから。


 でも、今日は。

 今日だけは、一目でいいから見たかったのです。

 大好きな喫茶コクリコを。

 大好きな人のお店を。


「……ハッピーバースデイ、わたし」


 自分への誕生日プレゼント。

 あと五分で終わってしまいますが、なんとか間に合いました。

 物なんて何もいりません。こうしてここにいるだけでわたしは満たされて、それで十分なんです。


 あと五分。今日という日が終わるまでここにいさせてください。


 けれど、出来れば……一緒に過ごしたかったです。遠野さん、あなたと。

 世界で一番大切な人と。大切なこの日を。


 まぁ、わたしの誕生日を知らない遠野さんにとっては普通の平日でしかないんですけれど。


「……あれ?」


 ふと、ドアノブにかけられたプレートに目が留まりました。



『OPEN』



 店内の明かりは消えています。

 ひっくり返し忘れたのでしょうか?

 もしくは……


 脳裏に、今日書き上げたホラー小説の一場面が浮かびます。

 明かりが消えているのに鍵が開いている友人宅。不信感を抱いた主人公は室内へと足を踏み入れ、そこで変わり果てた姿の友人を発見し……


「遠野さんっ!?」


 慌ててドアを開けました。

 予想通り鍵がかかっていませんでした。


 真っ暗な店内に踏み込むと、カウンターに突っ伏している人影が……


「遠野さん!」


 駆け寄って肩を揺すりました。

 両肩を掴んで、顔を覗き込んで、声の限りに名前を呼びました。


「遠野さん! 起きてください、遠野さん!」


 これでお別れなんて絶対に嫌です!

 起きて、そしていつもの笑顔で迎えてください。

 あなたの隣で美味しい手料理を食べさせてください!

 そばにいてくれるだけで幸せなんです!

 あなたはわたしにとって特別な人なんです!

 だから……!


「ん……」


 少しこもった声が耳をくすぐり、わたしの心は一瞬で安堵に包まれました。

 よかった……遠野さん、無事でした。


 重たそうにまぶたを開けて、虚ろな瞳がわたしを見ました。

 眼鏡がズレて、少しだけひょうきんな可愛い寝ぼけ顔。

 見惚れていると、思いがけない言葉がその口から飛び出してきました。


「……みずき?」


 後頭部を鈍器で殴られたのかと錯覚しました。

 凄まじい衝撃が全身を駆け抜け、目の前に火花が飛び散りました。


 遠野さんが、名前を!?

 神様がくださったバースデイプレゼントでしょうか?

 奇跡ですか、これは?


「え……っと、あの……こ、こん、ばん、……ゎ」


 声が震えて、頭が真っ白で、とりあえず挨拶をしなければと間の抜けた声が無意識に口からこぼれ落ちていました。

 そんなふわふわした声に、遠野さんはハッとした顔をして大慌てで眼鏡をかけ直しました。

 そしてわたしの顔を見て――


「……しげる、先生」

「違います! ゲゲゲの人ではありません! 広瀬みずきの方です!」


『の方』ってなんでしょうか。

 少しテンパり過ぎておかしなことを口走ってしまいました。

 ……が、暗闇だとしても間違いますか? むぅ。


「す、すまん。ちょっと、夢を見てたんだ」

「妖怪の、ですか?」

「いや、まぁ……」


 咳払いをしてこちらに背を向ける遠野さん。

 店内が暗いことに気が付いたのか、壁のスイッチを押して店内の明かりを点けました。


 店内がぱっと明るくなりました。


「……え?」


 いつもわたしが座っているカウンターの席に、所狭しと料理が並んでいました。

 鶏もものローストや大きなエビフライ。彩り鮮やかなサラダに、わたしの大好きなコクリコの――遠野さんのサンドイッチ。


「パーティーでもされていたんですか?」

「え、あ、いや……これは、その、試作というか……そう、試作だ」


 試作というか試作。

 つまり試作なんですね。


「これが、ゆくゆくコクリコで食べられるように……ごくり」


 思わずのどが鳴りました。

 どれもこれもとても美味しそうで、こんな豪華な料理でお祝いをしてもらえれば、それはどんなに幸せだろうと……



 はっ!? 今、何時ですか!?



 慌てて携帯を取り出しました。

 ディスプレイに表示された時刻は『23:57』。ギリギリセーフです!

 あと三分、わたしの誕生日は残っています。


「あ、あの遠野さん!」


 こちらに背を向け、壁の時計に目をやっていた遠野さんを呼びます。


 ごめんなさい、遠野さん。

 今から凄いわがままを言います。

 でも、どうか怒らないでください。

 今日だけで、いいですから。


「このお料理、食べさせてくれませんか!?」

「お、おう! あ、じゃあ温め直して――」

「すみません、時間がないのでこのままで」

「いや、待て! 折角なのにこんな冷めた料理じゃ……!」

「『折角』?」

「ぐ……っ!?」


 なんだか、遠野さんが詰まりました。そんな音がのどの奥から漏れていました。

 少し難しい顔をして、時計をもう一度見て、遠野さんはわたしに言いました。


「先に食ってもらいたい物がある」


 そう言って、冷蔵庫から大きなイチゴのショートケーキを取り出してきました。


「こ、これは……!?」


 そのケーキは、まさに『誕生日に食べるべき』と思えるような見事なデコレーションケーキで、このお店コクリコには置いていないメニューで、だからどうしてそんな物がここにあるのか、わたしには理解が出来ませんでした。

 答えを求めるように遠野さんを見つめると、遠野さんはメガネを押し上げました。


「ま、前に言ってたろ? ケーキの種類を増やしてほしいって」


 それは、確かに言った記憶はありますが……

 まさかこんな特別な日に、それもこんなタイミングで出してくれるなんて……


 遠野さん。


 それって、最高のプレゼントです。

 おそらく、わたしがこれまでの人生でいただいたものの中でも、ダントツで素敵なプレゼントです。


 ちょっと、泣いちゃいそうです。



「時間がないぞ。早く食え!」

「そ、そうですね!」


 時計の針は58分を指していました。

 あと12度針が動けば今日が終わってしまいます。

 その前に一口だけでも……あれ?


「『時間がない』?」

「いいから、冷めないウチに食え!」

「は、はい!」


 遠野さんの剣幕に思わず返事をしてしまいました。

 ケーキが冷めないウチに……ということはこれは温かいのでしょうか?

 ホットケーキ? いいえ、ショートケーキです。


 頭に無数の『?』が浮かびますが、時間がありません。

 わたしはいつもの席に座り、現在切り分けられているケーキを待ちました。


 ――と。目の前にわたしの本が置かれていることに気付きました。

 この前出た最新刊でした。それが、カウンターの上に、まるで料理を見つめるように置かれていました。


「あの、これは?」

「ぉおうっふ!? いや、それは……」


 腕を伸ばして本を奪い取ろうとする遠野さん。その腕から本を死守し、胸に抱きます。

 すると、観念したように遠野さんはぽつりと呟きました。


「……お前が一番美味そうに食ってくれるから……置いておいたんだ」


 試作品を作る時に、お客さんの代わりとしてわたしの本を。

 それって、なんだか恥ずかしいですけど……


「すごく嬉しいです」

「……そ、か」


 俯いて、遠野さんがケーキを目の前に置いてくれました。


 時計の針は五十九分を指していました。

 ギリギリセーフ。


 おめでとう、わたし。



「今日は、最後の三分間で最高の一日になりました」



 この日食べたバースデイケーキは、世界で一番の、最高の美味しさでした。




☆★☆★☆★




 目が覚めた時、すぐ目の前に広瀬みずきの顔があって、俺はそれを夢の続きだと誤認した。

 ここ数日、あいつは店に顔を出さなくて、今日こそは何がなんでも会いたいと思っていたのにあいつは来なくて、準備だけは整って、どうさりげなくお祝いに持っていこうかなんて真剣に悩んでいたここ数日が無駄になるかと思った矢先、夢の中から本物の広瀬みずきが飛び出した――そう思ってしまったのだ。


 うっかり名前を呼び捨てにしてしまったことに気が付いた時、俺は人生の終了を覚悟した。

 咄嗟に誤魔化したが……誤魔化せたのか自信がない。

 そこでテンパったせいで、出しっ放しにしていた料理のことをすっかり忘れていて、部屋が明るくなってまた焦った。


 おまけに、ずっと空席のままのあいつの特等席にあいつの本を置いて寂しさを紛らわせていた現場まで目撃されて……


 来るなら来ると先に言っておけよ、ったく。

 けど、まぁ。


「美味しいです! 世界一美味しいケーキです!」


 夜中でも気にせずケーキを頬張る広瀬みずきの笑顔は、こんな夜中でもやっぱり眩しくて――



 よかった。誕生日を一緒に祝えて。



 心底そう思った。

 冷めてしまった料理は温め直す。

 日付は変わってしまったが、祝う気持ちに期限などない。


 今は今日の24時3分。そういうことでいいじゃないか。


「実は、ついさっきまで誕生日だったんですよ」

「へぇ、そうなのか」


 知ってるよ。

 今お前が膝の上に抱いている新刊。そこの作者紹介に記されていた。

 真っ先に読んだっつの、作者紹介。


「じゃ、ケーキ間に合ってよかった」

「はい。奇跡です」



 この夜起こったことは、本当に奇跡だったのかもしれないな。

 なんて、ガラにもないことを考えて、俺は冷めた料理を温め直した。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る