こぼれた

 突然の恋をした、ことにした。


 三時間前、ふいにお酒が飲みたくなってバーに行った。バラライカを飲んだ。

 そしたら男が隣に来た。

 いかにも軽薄そうな、蛇革のベルトがあまりにも馴染むケモノ臭さがある腰つきの男だった。

 隣いいかな? ええどうぞ。 甘いものは好き? なんでもいいわ。

「じゃあ、グラスホッパーを彼女に。…いや、二つで。僕も飲もうかな」

 魔法を使うかのように、女子受けのために学んだのであろうカクテルを私におごってきた。もうこの時から、セックスの匂いはぷんぷんとしていた。

 彼の思念やオーラといった、この私たちが生きている次元では正確に捉えられない、もっと、ここよりも幻想や感情が重視されるものたちが住む世界からのメッセージが届いていた。

 ここで私はアクセルを踏むのをやめていた。でも、ブレーキを踏むほどの気概もなかった。一度転がった岩は、簡単には誰も、私さえも止められない勢いに進化するのだ。


 タクシーを呼ばれた。

 家はこのへん? ええ、歩いて少しのところ。

 それだけ聞いて、個室に行くまで蛇はたいしたことも喋らずに、今日の月の魔力のせいにして、私を抱いた。たしかに、気が狂ってしまいそうな、昼よりも日陰者に容赦のない光を浴びせる、無慈悲な満月だった。

 彼はやっぱり、よく見栄えのする筋肉をしていた。触ると、柑橘系の人工的な爽やかさが肌から滲むように伝わってきた。

 ここからは、私はどんな顔をしていたか全く想像もつかない。

 つまんない顔だろうか、快楽に絡み取られた笑顔だろうか、それとも遠い目をしていたのだろうか。

 彼の顔は見たはずなのに思い出せない。ただ空虚さを埋めるために、俺は満足しているんだ、俺は優秀なんだ、俺はだれかを屈服させられるのだ、といった暗さを感じたことだけ、覚えている。

 彼が果てて、私はただ「あ、終わった」とだけ感想を抱いた。

 そのあと、息が落ち着くのを待って、蛇の眉毛をわたしは撫でた。

「好きなの?」

「何が?」

「いや、眉毛。そんなに触られることないからさ」

「別に好きってほどでもないわ。ただ、気になったの」

 描いてあるだけの私とは違い、感触のある眉毛だった。額を流れる汗も、突然の雨もぜんぶ自然に受け止められそうな、とてもよい眉毛だった。


 そして思ったのだ。恋をしたことにしてもいいかもしれないと。

 脱ぎ捨ててあるスラックスの腰に目をやると、蛇革にまだ水分のある緑色のシミができていた。こぼしたのは、どっちだったのだろう。

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