応援コメント

切り札はフクロウなのか」への応援コメント

  • 科学も宗教も文学も、それに心動かされる時があって、それぞれがその人にとっての価値観を形成しますね。

    社会全体にとって、どんな価値がもっと人を不幸にしないだろうか、ロールズという哲学者はそんなことを考えました。

    絶対に正しいなんて基準がないなかで、何でもありにしてしまっては、それはそれで大変なことになってしまう。どこかで良し悪しを決める線引きをしなくてはいけない。人は社会を形成していらい、そう考えてきました。倫理とはそうした人の営みなのでしょう。

    誰かに思いやりをもって、相手の立場にたって、そんなことが倫理的だ、なんて言われることも多いですが、僕はある種の後ろめたさのなかに倫理が宿るのではないか、なんて考えています。

    とりとめもないコメントをすみません。
    素敵なエッセイをありがとうございました。

    作者からの返信

    読んでいただいて、丁寧なコメントまでいただいて……。

    そうですね、なんでもありにしてしまうと社会を維持できない。しかし社会なしに生きてはいけないのが人だとすれば、社会を維持していくため方法が必要ですよね。それが、どこかに線を引くこと。線引きする目的は誰かを排除するためではなく、守り、生かすためであって欲しい……と思います。

    相手の立場に立ってみても、お互い生きてきた背景が違う以上、相手の考えている善悪はわかりません。個別のやりとりの中でわかることも、誤解を含んだほんのわずかなこと。そこに暮らしている人々の思考は海のようです。どこまでも深く広がる中から可能性を見つけて手に取ってみても、それが誰のものなのかもわかりません。息が詰まるようで苦しい。

    戦うこと、争うことをやめた瞬間から人生がとても難しいものになるような気はします。しかし、戦う力を持っていない人たちが感じている難しさは、まさに、それではないかとも思うのです。

    後悔は傷つけてしまったあとからですが、ほんとに良いのかと考えて行動することは、感謝も承認もされませんが、考えないで踏み出すよりは誰かの気持ちをすくい上げられているのかもしれません。実際にどうだったのかもまた、確かめることもできません。

    慎重さというよりは、たしかに、後ろめたさ……なのかもしれませんね。

    ありがとうございます!