切り札はフクロウなのか

なるゆら

切り札はフクロウなのか

 苦しまずに生きていけるのだとしたら、幸せなことなのかもしれません。けれど誰もその真偽を知りません。生きている以上、避けることはできないからです。



「不苦労」と書いて、フクロウは幸せの象徴だと考える方がみえるそうですね。

 とても素敵な発想だと感じました。苦労のない状態で幸せを知り得るのかという指摘はあり得ると思いますが、それでも、苦労がなかったら幸せだったのかもしれないと感じてしまうことを否定できません。


 今に始まることではありませんが、苦労を避けようとすることは、怠けていることで、悪いことだとする風潮があります。「若いうちの苦労は買ってでもしなさい」とはよく言われますし、皆さんもご経験されてきたことかと思います。


 苦しんで身につけてきたものは、必ずどこかで役に立っている。わたしもそう信じることにしています。少なくとも無駄ではないと思いたいですよね。


 ただ、そういった言い回しの中にどんな気持ちがあるのでしょう。

 すべてではないにしても、もしかすると、「自分が苦しんでいるのだから、誰かが苦しんでいないのは不当だ」という思いが隠れていたりもしそうです。


 苦しみなさいという言葉は、その人の幸せを望んで出てきたものなのかを確かめることは難しいですが、わたしは経験として役に立っていることは認めながらも、苦しんだ先にあったものが幸せだとは言い切れません。


 苦しみは本人が望む望まないに関わらず、そこにあるような気がします。また、苦しむことに意義を感じ、追いかけていけば当然そこに苦しみを見つけることができるでしょう。


 苦しむことを無意味だとは思いません。だからこそ見えてくる幸せの形もありますし、誰も避けられないことだからこそ、意味がある方が救われる気もします。苦労について考えていけば、不苦労にも考えが及ぶのは自然なことだと思います。



 フクロウは知識の象徴だともされていますね。興味が向いていましたので、わたしにはこちらの方が馴染みのある表現です。


 知識は何千年もの人の営みの中で積み重ねられて、今のわたしを支えてくれているもの。たとえば、スマートフォンの使い方は知っていても、どうやって作られていて、どんな材料や技術が必要なのかをわたしは知りません。読み取ることはできませんが、たくさんの知識の中で生活をしています。


 すべてを把握できる人はいませんし、何を知っているのかは、その人の生きてきた背景によるのだと思います。多くの人が物事の根拠を知らずに生きているのだと思います。


 なにをどれだけ知っている状態がちょうどいいのかを条件なしに判断することは難しいと感じます。必要であれば知っていた方がいいと思いますし、必要がなければ知らなくてもいい。では、どんな状況であればなにが必要になるのでしょうか。


 たとえば、地球が太陽の周りを回っているのか、太陽が地球の周りを回っているのか。大きな意味をもっていて違っていれば大変なことになる事実であっても、ある人にとっては、すでにどちらでもいいことだったりします。知っていても今の生活や思想に影響を与えないのであれば、そうなのかもしれない。


 科学的な根拠をもってしてこちらが正しいと言ってみても、どちらでもよいと考えている人にとってみれば、あなたがそう言うのなら、そちらでいいよといった程度のことで、特別な意味はもちません。どちらでもよさが変わるわけではないのですから。


 また、一方を信じていている人にとって、そちら側は間違っているという主張を受け入れてもらうことには、より難しさを伴います。わたしは科学的根拠がないよりもあった方がいいと感じているのですが、根拠が理解できているわけではありません。科学的に正しいことは、科学的な正しさを信じている人にとって正しいだけ。人を幸せにするとは限らないと感じています。


 苦しみに満ちた人生の終わりに神仏が救いの手を差し伸べてくれるのか、確かめることは不可能です。けれど、信じている人が救われた気持ちになれるのだとしたら、そこに誰かの違う正しさは必要ないのかもしれません。本人が信じる正しさがあればいい。



 フクロウが切り札になり得る状況で、その札を切ることにはどういった意味をもつのでしょう。


 こちら側に危害を加える敵がいるのかもしれませんね。しかし、そこにいるのは、本当に敵で間違いなく、他には誰もいないのでしょうか。暴力に訴えるよりはましだからといった程度で、知識を武器に転用して相手を傷つけようとしてはいませんか。


 切り札とは、使った人の望む方向に、状況を変化させたり決定づけたりできる可能性をもったもののこと。そう解釈しています。アンフェアなほど一方的で強力だからこそ、切り札になる。知識の場合、多くの人が知らないことや思いつかないことが切り札になったりするのでしょうか。


 知識を切り札として持たない人たちは、他に自分が持っているものでなんとかしようとするでしょう。他に切り札を持っていない場合、現状を受け入れて適応しようとするほかにありません。


 どうしても適応できない人がいて、だから使うべきなのは切り札だと言い切ってよいのでしょうか。譲歩を求めても、相手は受け入れなかったのかもしれません。どこまでも頑なで、やむを得なかった。


 本当にやむを得ないのかを考えることは、切り札を使われる側に回らないためにも必要だと感じます。切り札が必要になるほど頑固で、大きな脅威だったのかもしれません。しかし、戦うことに決めて相手に勝てばいいというだけでは、脅威として取って代わるだけ。切り札を持たずに現状に適応していた人たちを、また路頭に迷わせることにもなるかもしれません。誰かにとっては、なんとかできていたものがどうしようもなくなることもありえる気がします。


 変化するのかしないのか。誰が決めて、どこまでが選べることなのでしょうか。苦しみが変わらないことに苦しむこともあれば、望まない変化が苦しみになっていることもあります。単純にどちらをすくい上げれば良いというわけでもなさそうですね。



 フィンランドにオウルという都市があるそうです。そこには応用科学を教えている学校があるのだとか。わたしは高等教育を受けてはいないのですが、科学には基礎の部分と応用の部分があるのですよね。


 知識自体に善し悪しはなくても、それをどう取り扱っていくのかを考えることは、きっと大切なのでしょう。どうすればもっと良く、また、良いとは何なのか、誰にとって良いのか。


 飛び立ったフクロウを、どこまでも追いかけていくことはできません。見送った後、フクロウはそこに何を見るのでしょうか。


 わたしには切り札はありませんが、この先に切り札といえるようなものを手にできたとしても、使わなくて良かったと思える人生であってほしいと思っています。


 それがもし、誰かに惨めに見えて「福老」でなかったとしても、なにが幸せなのかは自分で考えて決めていけばいい。そのとき幸せであれば嬉しいけれど、幸せでなくてはいけないという決まりも……。


 ありました。そういえば……。

 でもそれは、きっと良いことなんですよね。

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