何者にもあらず

不朽林檎

何者にもあらず

 僕はいつだって彼女の帰りを請わなかった。


 隣を歩く少女は愉しげに、からからと笑う。湿った土の匂いが鼻についた。冷たい夜風が頬を撫ぜた。まばらな木立が月影を落とす。くしゃり、くしゃりと、足下で緑の残骸が音を立てる。


「ねえ、どこまで行くの?」

「もう少しだよ」


 僕は目を前へ向けたままで、無愛想に答える。彼女はそれを判っていたかのように僕の手をとって、さらに上機嫌になって歌を口ずさみ始める。聞いたことのある歌だった。彼女が好きなアーティスト。僕も、多少は好きな人に合わせてみようかと思って、なんどか調べようとしたが、却って彼女に怒られてしまった。「そういうのは嫌い」彼女は僕の目を真直ぐに覗き込んで言った。だ憶えている。


「わたしは、別にこの辺りでいいんだけどなア」

「もうちょっと付き合ってよ。いいでしょう?」

 それも判っていたかのように、彼女は「仕方ないな」と請けあう。



 心羽こはね。それが少女の名だ。

 僕が心羽に出会ったのは中学生の時。もっとも、二年の後半を過ぎるまでは、ほとんど口もきかなかった。互いに興味がなかった。僕らはまったくの他人であり、しかし互いの存在だけは承知していた。


 僕らが話し始めるきっかけとなったのは、心羽の奔放さだった。当時、クラスでの心羽の評判は酷いものだった。

『アバズレ、ビッチ、尻軽…』

 などど、心羽にはいくつもの不名誉なあだ名がついてまわっていた。

 対して僕は、クラスでも目立つほうではなく、いつも窓際の席で本ばかり読んでいた。嫌われていたつもりはないが、好かれていた自信もない。いつ消えても構わない存在だった。


 僕は、自分の存在の希薄さを自覚していた。けれど別に嫌でもなかった。ただなんとなく、自分を大切にできなかった。いつだって、自分を無価値だと断じていた。

 一言にまとめれば、根暗、ということだ。


 そんな僕に、心羽はラブレターを寄越した。それは絵に書いたようなやり方だった。放課後、何の気なしに靴箱から靴を取り出した僕は、足元に白い封筒を落としてしまった。拾い上げてみると、そこには心羽の名前があった。丸っこい、可愛らしい文字だった。


『や、根暗くん。わたしのこと、わかるかな?同じクラスの佐倉だよ。って、さすがにわかってくれるよね。

 突然こんなものを受け取って驚いているだろうけれど、わたしだって、こんなことをするのは初めてで、かなり緊張したんだから、許してね。


 さて、君も期待している、かもしれない通り、これはラブレターです。君のことが好きです。だから付き合ってほしい。

 返事は手紙じゃなくていいよ。君にその気があるなら、週末明けの月曜日、放課後に校舎裏まで来て』


 部屋で手紙を読んだ僕は絶句した。ほとんど関わりのない心羽から告白されるなどと思ってもみなかったし、なにより、これほど心のこもっていないラブレターがあるだろうか。総じて、それは朝に鳴くフクロウみたいだった。


 僕は言われた通りに校舎裏へ向った。そこで待ち受けていた心羽は、まったく感情のよめない声で、通りいっぺんの愛の告白をした。僕は黙って聞いていたが、とうとう訊ねる。


「ねえ、どういうつもり?」

「どうって、そのままだよ。付き合ってほしい」

「じゃなくて、なんで僕なの?」


 彼女は僕の質問には答えず、代わりに空を見上げた。つられて僕もその視線を追う。雲一つない快晴だった。校舎の屋根が突き出している。


 それからしばらくして、心羽は唐突に答えた。

「君は、誰にも縛られてないでしょう。わたしは、そんなふうに在りたかった。だから、君に憧れた」

 たしかに僕は、必然的に人から縛られることと無縁だった。僕は心羽の顔を見つめた。どこか淋しげに澄んだ瞳がこちらを見返していた。

 僕は、その中に何かを見たのかもしれない。


「わかった。僕でよければ」

「ほんと?やったやった」


 こうして、僕らは恋人になった。

 そこから少しずつ、僕は心羽という少女を知っていく。

 心羽は自由だった。あまりにも、それは彼女の全てを支配していた。


 心羽は客観的に評価しても美しい少女だった。だから、中学に入学して数ヶ月もすれば、もう、三年生の恋人をつくっていた。また、心羽に言い寄る男子は学年を問わず沢山いた。

 心羽はそんな様子を眺めて、妙なことを思うようになった。

 息苦しい。

 誰も彼もが、心羽を見ていなかった。皆が見ていたのは、心羽という名のついた美少女であって、それ以外に興味はないのだ。性別を問わず多くの人間に囲まれても、心羽は孤独を感じるようになった。


 心羽の奔放は、その反動だった。心羽は縛られることを嫌った。人が自分に合わせようとすることすら嫌った。

 その自由を妨げるものに対しては容赦がなかった。倫理や道徳も、心羽にはちっぽけなものに思えるのだった。心羽は恋人を頻繁に変え、浮気も躊躇わなかった。


 それは心羽にとって、人間の優しさに対する最後の求愛だったのかもしれない。誰かを探していた。自分が納得できる誰かを。納得させてくれる誰かを。


 その誰かを見つけられないまま、一年が過ぎた。そうして、心羽に言い寄る男もいなくなり、方々から恨みを買った心羽は、無数の罵詈雑言を囁かれるようになった。不思議なことに、明らかないじめには発展しなかった。


 心羽は、そんなことは大して気にしなかった。ただ、心にぽっかりと空いた穴を埋めたくて、もはや誰でも良いから、寄り添っていたかった。この期に及んで、彼女は人への期待を棄てられなかった。

 だから、こんな突飛な告白をした。


 僕は心羽の孤独に寄り添うように努めた。しかし、心羽はそれを嫌がった。誰かに寄り添われることでさえも、心羽にとっては束縛だった。ひどい自己矛盾だ。自暴自棄で無気力な生活は、ほとんど彼女を壊してしまっていた。

 心羽が求めたのは、ただひとつ『黙って隣にいること』だった。



 僕らは森の中を歩いている。月影は連続して地面は暗く、夜風はその温度を一段と下げる。隣を見遣ると、心羽は空を見上げていた。ぼうっと、どこにも焦点を合わせずに。

 どこからともなく、鳥の鳴き声がした。



 僕らの関係は、中学を卒業してからも続いた。僕らは同じ高校に入った。心羽は静かになった。物腰も低くなり、人あたりも良くなった。変わらず美しい心羽に言い寄る男は少なからずいたが、彼女は目もくれなかった。いつも教室の隅で、二、三人の友人と小さく笑いあっている。

 そして放課後になると僕のところへやって来て、気ままに甘えた。僕はただ、隣に居続けた。心羽を独りにしない。それだけが、僕にできることだった。


 心羽を離したくない。

 もっと確かなところに居たい。

 思わないことはなかったが、僕はそれ以上に心羽を愛していた。


 心羽には、ぼうっと空を眺める癖があった。何かに憧れているみたいだった。

「来世はフクロウがいいかな。可愛いし強いし、夜にひっそり飛べるから」


 高校卒業も間近に迫った頃、心羽は行方不明になった。警察も動くような大事になり、クラスではすっかり死んだことになっていた。誰かがふざけて机に花瓶を置いていた。僕はそれを持ち去って叩き割った。

 心羽に怒られるな、と思った。


 僕は心羽が不在のままに高校を卒業した。



 僕は足を止めた。心羽もそうした。

 心羽は僕を見て、首を傾げた。僕は心羽の手をぎゅっと握ってから離してやる。心羽は微笑んで僕から離れた。僕はいつものように、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「さあ、行きなよ」


 心羽の背を押すと、彼女はふうわりと宙へ浮かんだ。そのまま高く高く上昇して、月明かりに穿たれた黒い影になる。僕はその動きをじっと目で追った。

 心羽は両の翼を優雅に羽ばたかせ、宵闇に消えていく。


 僕は彼女の帰りを請わなかった。彼女を愛していた。

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