醒める夢 Chapter.4

 現在のロンドン塔内には、人の──いな〈吸血鬼〉の姿すがた気配けはいは全く無い。もとより深い霊気を漂わせる情景が、さらに拍車を掛けた蒼い虚構へと染まっていた。

 幽然たる迷宮を駆け巡るは、たった一人ひとりの影のみ。

 すなわち、ジョン・ジョージ・ヘイだ。

 彼自身の足音や装飾具の金音かなおとが、無遠慮に反響する。走る片手間に周囲を見回し、彼は弱腰の本音を零した。

如何いかに僕が〈吸血鬼〉とはいえ、さすがに不気味だな」

 向かうあても尽きて一時的に戻った場所は、威風ある表門を据えた大広間──ジル・ド・レ卿とカリナ・ノヴェールが一戦交えた場所だ。

 広大な空間には、巨大な柱が連なり立っている。細微な装飾意匠が刻まれた支柱だ。柱同士の間に生まれ落ちる暗がりは、さらに城内深部への主要通路として続いている。そうした造りが四方八方へと伸び広がり、さながら蜘蛛の巣状の迷宮入口であった。

 歯痒はがゆい状況にれ始める。

「カリナ捜索は、ペーターに任せるつもりだったのに。そうすれば、彼を安全圏へと逃がす事ができた」

 しかし、ペーターはかたくなに辞退した。

 結果、押し問答のすえにジョンが折れる形となった。

「一番の理由は、キミも同じ考え・・・・だったって事だろう? ペーター?」

 どちらが我を通すにせよ、口論で時間を浪費するのは勿体もったいない。ゆえ妥協だきょうだ。

「にしても、いったい何処にいるんだ? カリナ・ノヴェール! 恣意しい的な性格は知っていたけれど、こうも行き先が分からないなんて……」

 この大広間から捜索を始めて、客室棟──会議室──無数の廊下────普段ならば立ち入り禁止扱いの場所さえも巡るだけ巡り、駆けるだけ駆けた。

 焦燥に駆られる中で、まだ行っていない場所を脳内検索する。

 と、不意に他者の気配を感じた。

 警戒したジョンは、それを探り追って注視する。広間外れの一角だ。

(城内でって事はないだろうが……〈怪物〉は種々様々な魔力を保持しているからな。何が生じても不思議じゃない)

 緊迫感を噛み締めながら、じっと睨み据え続けた。

 コツリコツリと近付いて来る硬い足音。

 ややあって大柱間の闇から浮かび上がった正体は、まさしく彼の捜し人に他ならなかった。

「カリナ・ノヴェール!」ようやくの邂逅かいこうに、歓喜の声を上げる。「良かった! 探していたんだ! 情けない話だが、実はキミに頼みがあって──」

 そこまで用件をていすると、ジョンは言葉をみ込んだ。思わず駆け寄ろうとした足も数歩で硬直に止まる。

 彼を強張こわばらせたのは、得体の知れぬ恐怖。本能的な危険の察知だ。

 カリナ・ノヴェールは、その顔を深くせていた。表情をうかがい見る事は出来ないが、疲労とも悲哀とものオーラがむしばんでいるようにも映る。

 いや、それはいい。

 問題なのは、あからさまに見て取れる違和感だった。

 霊風れいふうにそよぐくろ外套マントも、美しくさえある童顔にも、ことごとく赤の押し花が咲いている。

 ジョンは疑問をいだく。

 ──何故、彼女は、これほどまでの〝返り血・・・〟に染まっている?

 ──あのけがれは〝〟のだ?

 意識した途端、背筋に戦慄が走る。頬を伝う脂汗あぶらあせ否応いやおうなく不安を助長させた。

 彼女の手に下がるのは、抜き身となった深紅の愛剣。

 だが、あのぬめりは何だというのだ?

 したたり落ちる赤のしずくは?

 ふと想起する──彼女が現れた方向は、一般吸血鬼の避難壕ひなんごうへと通じているはずだ!

「カ……カリナ・ノヴェール?」

 ようやく絞り出した声がかすれ震えた。

 彼の耳へと返ってきたのは、沈着ながらも冷酷をびた声音。

「……レマリアが死ぬはずはないんだ」

「レマリア? 何を言って──?」

「……死ぬものかよ。私が守ると誓ったんだからな」

 ゆらりゆらりと恐怖が歩み近付いて来た。その虚脱的な所作しょさはデッドやゾンビとは質が異なる。明確な俊敏さを押し殺した動き──まるで獲物を襲う直前の肉食獣だ。

 やがてカリナは、ようやく顔を上げた。

「キ……キミ?」

 ジョンの戦慄が高まる!

 まみれの顔に浮かんでいるのは、薄ら笑いとも取れる狂気! その瞳には理知性の損失がうかがえる!

「そうか……キサマか? キサマがレマリアを──」

 獲物を見定めた魔姫まきが、ゾッとする冷笑に酔った。

「う……あ……」

 格違いの恐怖に気圧けおされ、逃走意思に後退あとずさる!

 まるで〈魔王サタン〉と対峙したかのような畏怖感であった。

 狂気はあゆみめない。躊躇ちゅうちょを覚えない彼女の足は、間合いを詰めるに有利に働いた。

「レマリアは何処だ?」

 向けられた質問に戸惑とまどう。ジョンにしてみれば、意味不明な謎掛けでしかない。

「だ……だから、僕は──!」

「何処にいると──いているんだぁぁぁーーっ!」

 憤怒ふんぬに支配された麗獣れいじゅうが地を蹴った!

 紅玉石ルビーの如きやいばが牙をく!

「うわあああ!」

 本能的に身を守ろうとするも、ジョンはすくむ事しかできなかった!

 それどころか、もつれる足に尻餅を着いてしまう──が、それは奇跡的に生命線をつないだ!

 瞬間、頭上をぎ過ぎる殺意の紅刃こうじん

「ひ……ひい!」

 間髪入れぬ幸運であった!

 すかさず身をねじって無様に起き上がると、きびすがえしの逃走をはかる!

 返すやいばが背中を浅くえぐった!

 瞬間的に走る痛み!

 しかし、それにかまけている余裕は無い!

 死にたくなければ一目散いちもくさんせるだけだ!

 目指すは眼前に見える大柱!

 その間へと構成された暗い門!

 広く入り組んだ本城内へと続く逃走経路だ!

(あそこにさえ逃げ込めば、身を隠せるはずだ! 城内には数多くの部屋が在る!)

 来訪して日の浅いカリナよりも、自分にこそがある──そう判断した。

 常時じょうじ狩られる側の草食動物は、得てして逃走能力がひいでている。あたかも、その法則に準じるかのように、ジョンの瞬発性は目を見張るものがあった。

 が、理性をいた執念というものは、時として原始的本能よりも不屈で恐ろしい。

「レマリアを、どうしたァァァーーーー!」

 常軌じょうき逸脱いつだつした激情をえ叫び、並外れた身体能力に追撃して来る!

 彼女のまわりで生まれ消える幾多いくたあか

 それは間合いへ入った対象を容赦なく裂き、大木の如き石柱でさえも鋭くえぐった! 

 必死の逃走ながらも、ジョンは背後の敵を分析する。

 狂えるやいばは無差別で考え無しの大振りとしていた。

(もはや卓越たくえつした剣技けんぎ片鱗へんりんすら見えないじゃないか。ジル卿と対決した時とは、まるで別人だ)

 そう結論着きながらも、やはり逃げきる自信など無い。もとより身体能力が違い過ぎる。

 それでもジョンはあらがった!

 一縷いちるの望みへと賭ける心構えなればこそ!

 数秒が数分に感じられ、数メートルが数百メートルにも感じられる!

 ようやく目的の空間を眼前までに捕らえた!

 後は気力を振り絞って飛び込むだけだ!

(この大広間よりも空間幅は狭いんだ──あの大振りなら思うように振るえないはず!)

 思惑を巡らせた瞬間、脚に熱さ・・が走る!

「ぐあ?」

 その熱が痛みだと認識したと同時に、彼はすべり転んでいた!

 濁々だくだくとした赤の流れ──膝裏ひざうらけんを切断されている!

「クソ! クソッ!」

 忌々しさを込めて傷を押さえた。

 目的の逃走経路は目の前だというのに、最早もはや逃げる事自体が叶わない。霧化きりか獣化じゅうかといった変化術が使えないのが、心の底から口惜しい。自分達〈近代吸血鬼モダン・ヴァンパイア〉と〈吸血貴族ヴァンパイア・ロード〉の魔力差だ。

 体全体を不自然に引き吊り、無駄な足掻あがきに後退あとずさった。

 それを哀れなハンデとすら思わず、無慈悲な血獣けつじゅうが静かに近付いて来る。

「レマリアは何処だ」

 また例の謎掛けであった。絶望的だ。

「聞いてくれ、カリナ・ノヴェール! 僕は、その〈レマリア・・・・〉というのを知らない! 何者かすら知らない!」

「何処にいる」

 空気を裂いてあかが生まれ、ジョンの腕は赤い飛沫しぶきはじかせた!

「ぐぁあ!」

 無罪者の悲痛も、自我崩壊した裁人さばきびとには届かない。

 それでもジョンは訴え続けた。逃走が叶わぬ現状では、それしか身を守るすべは無い。

「聞いてくれ! 君がそれ・・を探しているというなら、僕も手伝う! だから──」

「殺したな?」

「な……っ?」

 狂気が一層深い闇をはらんだ。

「そうか、キサマがレマリアを殺したんだな! 私の目を盗んでアイツをさらい、その血をすすり尽くしたのか!」

「違う! 貯蔵血液こそ常飲じょういんしていたが、僕は誰かを直接喰らった事は無い!」

「じゃあ、私の腕で冷たく眠ったアイツの死体は何だ! キサマが殺したんだ! キサマが! だが、いいか! 易々やすやすとレマリアに手を出せると思うな! 私が守っているんだからな! 全身全霊を賭けて、私が守っているんだ! アイツが死ぬわけがない! そうだろう!」

「カ……カリナ・ノヴェール?」

 彼女の主張は、まるで支離滅裂しりめつれつだ。

 一頻ひとしきり激情を吐き散らしたカリナは、障気しょうきとも思える深い深呼吸へと溺れた。平静の仮面を取り戻し、再びジョンへと訊い掛ける。

「もう一度訊く。レマリアは──私の〝あの子〟は、何処だ」

「く……狂っている!」

 生唾なまつばが渇きを通過した。

 会話すら成立しない凶刃きょうじん相手に、状況打開の妙案などあるはずがない。

「何処だぁぁぁーーっ!」

 絶叫に振り下ろされる赤いやいば

 いよいよ覚悟を決め、ジョンはかたく身を閉ざした!

 一際ひときわ甲高かんだかく金属音がはじける!

 理不尽な処刑は──一向いっこうに執行される気配が無い。

 不確かな違和感をいだき、ジョンは恐る恐る自分を開放した。

 眼前にるのは、見目みめうるわしい少女の姿!

 彼と執行人をさえぎり、白き外套マントなびく!

 茨鞭いばらむちつか凶剣きょうけんはじき払った彼女は、悠々とした物腰を崩さずに語り掛ける。

随分ずいぶんと荒れているわね? カリナ・ノヴェール」

「……キサマッ!」

 忌々しく歯咬はがみする!

 狂気にまれながらも、黒は白を強く意識していた──生涯最大の難敵なんてきと成り得る唯一の存在を!

貴女あなたの〈レマリア・・・・〉は、御元気?」

 柔らかくいつくしむような微笑びしょうは、カーミラ・カルンスタインからの正式な挑戦状と受け取った!




 花の微香にミツバチが導かれるように、彼は自然体で〝〟へと導かれる──そういう性質だ。

 深い常闇とこやみを泳ぎ渡るゲデは、空間に開いた切れ間から現実世界へと躍り出た。

「いい臭いがすると思ったんだがなぁ?」

 残念そうな口振りながらも、例の如き飄々ひょうひょうたる態度で小瓶入りの酒をあおる。

 紫煙しえんかしに見渡す部屋は、薄暗くも陰惨な拷問部屋であった。

「毎日使われてるみてぇだがよ、残念ながら今日は定休日だったかね? ィエッヘッヘッ」

 壁や床にこびり付いたおびただしい血痕けっこんに、したたるほど血塗ちぬれた拷問用具の数々──嘔吐おうとを誘う死臭も、彼の嗜好しこうには沿っている。

 だが、死屍累々ししるいるいと放置される死体については、少々不満があった。

「最悪だな、ガキばかりかよ? 幼児偏愛癖かねぇ?」

 子供を惨殺する外道ぶりが好かない……のではない。そんなセンチな道徳観念など、最初ハナから持ち合わせていない。

「ガキはよ、罪の重さ・・・・が軽いんだ。どんな罪だろうと、そいつぁ〝健気な生の一生懸命さ〟として善性の許容範囲へと減罪されちまう──悪意まみれの殺人とかなら別だがよ。要するに、オレ様の醍醐味だいごみたる〝死の旨味うまみ〟がしょうじねぇのさ。天使様ってのは、とことんガキに優しいようだぜ……クソッタレが!」

 腹いせまぎれか、幼い遺体を足蹴あしげに転がす。断末魔の形相は、そのまま恐ろしくも惨たらしい瞬間を刻んでいた。足がもげ、腕が千切ちぎれ、心臓をえぐり出され……未成熟な死体は、実に様々な末路を披露ひろうしている。しかしながら、多くは首の骨をひねり折られていた。

「じわじわと拷問で心身共に追い詰め、最後は首の骨ポキリってね」

 改めて室内を見渡す。漂う霊気と遺恨から、過去の惨状を見通すためだ。ブードゥー教の〝死神・・〟たるゲデには、それが可能であった。その魔眼をもってして、死にく者の過去を見通しなぶるのだから。

「……な~るほどねぇ? 百年戦争の英雄様が、悪癖再発ってトコかぃ?」

 いやしい目がたのしげにゆがんだ。

「ただ気になるのは、そそのかしてる〝コイツ・・・〟だな……どうやら〝従者じゅうしゃ〟をよそおってるみてぇだが、そんなタマ・・じゃねえ」

 さらに意識を集中し、その人物のみに焦点を絞った。

「プレラーティ──ドロテア──ああ、そういう事か」

 幻視げんしに正体を看破かんぱしたゲデは、無作為な足取りで窓へと歩き進んだ。あおのぞく先には、例の巨眼黒月きょがんこくげつが見下ろしている。

「御主人様もが悪いぜ? 言ってくれねぇもんだから、間抜けにも鉢合わせしちまった。ま、聞いてても来るけどな。なんせ他人の領域・・・・・とかは、オレにはどうでもいい事だからよ。ィエッヘッヘッヘッ!」

 自由気儘じゆうきままがモットーのゲデにしてみれば、主従関係は行動のであれ、絶対的な強制力ではない。基本的に自分が楽しめれば、それでいい。例え、同業者・・・が幅を利かせていても……。

「さてさて、何かおこぼれは無いかねぇ?」

 罪無き肉塊にくかいが散乱する部屋を、好奇心のままに探索し始める。

 と、部屋の一角から妙な息遣いきづかいを感じた。必死に苦しみあえぐ呼吸だ。

 興味をかれて捜してみると、虫の息で生き長らえる少年が転がっていた。とはいえ、ももやいばつらぬかれ、ペンチで五指ごしつぶされてはいたが……。

「なんでぇ? 残りモンがあるじゃねぇか」

 喜々ききのぞき込む。

 息を荒げる未熟な生命いのちは、無慈悲な〝〟への抵抗を続けていた。

「あのな、苦しみこらえても無駄だから。結局、オマエは死ぬんだよ」

「ハァ……ゼェ……があぢゃ……」

「あらら、声帯せいたいつぶされてらぁ」

「……がえる……があぢゃ……」

「まったく〈人間〉てのは、しつこいねぇ? 風前ふうぜん灯火ともしびから、くたばるまでが実に長ぇや」

 暇潰ひまつぶしに過去を見通みとおしてやった。

「んん? オマエ──」奇妙な経歴を見付け、ニタリと喜悦きえつする。「──面白ぇモン、見ィ~付けた!」

 いやしい余興よきょうひらめいた。上手うまくいけば、久々に盛大な晩餐ばんさんが楽しめそうだ。

「オイ、ガキ。特別に延命魔術をほどこしてやらぁ。ま、そうは言っても現状維持だがな。痛みから解放されるとか、瀕死が治るわけじゃねぇ。どのみち結局は死ぬ。ただ、その〝死〟のタイミングを遅らせるだけだ……って、怖ぇ目でにらむなよ。これでも出血大サービスなんだぜぇ? 何せ〝死神・・〟たるオレ様が、みずか禁忌タブーおかそうってんだからよ」

「……がり……ぁ……」

「ああ、会わせてやらぁな。そうしなきゃ、お楽しみの幕・・・・・・が上がらねぇしな。ィエッヘッヘッヘッ……!」

 どこまでも下卑げびた笑い声が、呪われし鮮血の部屋に木霊こだまし続けた。

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