鮮血の魔城 Chapter.3
「んーーっ! 肩が凝ったわ!」
自室へ戻るなり、カーミラが清々しく伸びをする。凛然とした気負いは消え失せ、素直な自然体に砕けていた。
「……オイ」背後のカリナが冷ややかに呼び掛ける。唐突な変貌ぶりには呆れるしかない。「何なんだ、オマエは? さっきまでとは別人だぞ」
「だって、あんなにも多くの来賓がいるんですもの。それらしい態度で振舞わなければ、城主としての威厳が失墜するわ」
その脇を叩いて相席を
「それで? どう処理するつもりだよ?」
意地の悪い邪笑で無頼者が訊ねる。
けれども、カーミラはケロリとした表情で簡潔に返すだけであった。
「別に? どうもしなくてよ?」
「……は?」
珍しくも頓狂な声が出る。盟主にあらざるべき態度に、あっさりと毒気を抜かれてしまった。
「キサマ、さっき言っていた事と……」
「わたしはね、カリナ・ノヴェール? 正直、あんな
「オマエ、城主にして盟主だろう」
「だからよ。望んでもいない威光なんてね、毎日の
「横槍を入れたクセに、よくも言える」
「あれ以上やっていたら、
「やはり警戒はするか。ま、当然だがな。
「ううん、単なる暇潰し」
「──……」
まるで
奇妙なヤツに好かれたもんだ──と、カリナは困惑を持て余した。
「生憎、自分の素性は知らん。
「記憶が?」
(それって、奇妙な事象ね。そもそも〈吸血鬼〉は、生前に何らかの固執や
カーミラの黙考には構わず、カリナは続けた。
「で、目的の方はコイツさ」保護者に
幼子は警戒に保護者の脚へと
「こ……こんばわ」
舌足らずな
カーミラは
困惑を隠せないでいるのを見抜くと、カリナが優越めいて感想を
「どうした? 人間の子供は初めてかよ?」
「あ……いいえ、そんな事はない……のだけれど……」下手な取り
と、ふと気付く違和感があって、まさかとばかりにカリナへと確認を向けた。
「え、待って? もしかして、
「ああ。
「
「そんな理由の方が、私には大事なのさ」
赤の果汁を
レマリアが大きな
「眠いか?」
「……ん」
カリナは女児を胸に抱き、ゆったりと背中をあやしてやった。
緊張感が安らいだせいか、小さな癒しが誘眠を覚え始めている。
興味津々に観察していたカーミラは、ややあって快諾を提示した。その口調は再び凛とした厳格さを帯びている。
「いいでしょう。
「食事もだ」
「無論です。そして、わたしの許可を得ない者も一切近付けさせません。ただし、わたしからも条件があります」
「条件?」
「ひとつ、城内に悪意ある騒乱を生じさせない事──先程みたいにね」
「誰彼構わずケンカを売るなって事か」
正当性を帯びた妥当な強要だ。カリナにしても承諾するしかない。
だが解せないのは、次なる条件だった。
「そして、ふたつめ。
「滞在だと?」これには
「言ったでしょう? わたし、日々の
「──暇潰し……か?」
「そうね」
カーミラはクスッと
しかし、続ける言葉に彼女の
「それに他国や城外の話も聞きたいし……」
「オマエ、城から出た事が?」
「無いわ。
ようやくカーミラの真意が
「やれやれ、
境遇への同情は湧かない。
立場が違い過ぎる。
さりとも、個人としての共感からは同情は覚えた。
彼女も自分と同じように〝虚無感〟を覚え、埋めようと
吸血鬼とは、永劫の時間を生きる〈
有限の生に在ればこそ〝存在意義を懸けるべき目的〟というものは得られる。
だが、不死者の時間は無限だ。致命的な失敗をしようが、やり直しはいくらでも利く。
当然、達成感や充実感には疎くなる。それが〝存在意義の喪失〟に結実している事を、多くの吸血鬼は自覚していない。
そして、怠惰に溺れ堕ちていくのだ……〝永遠の生〟へと。
カリナは──そして、カーミラは──そうした〝虚無感〟が溜まらなく嫌だった。
否、怖いと言ってもいい。
いくら〝永遠の生〟であっても、心が満たされなければ〝永遠の死〟と変わらない。魂の牢獄だ。
だから、
何でもいいから充足感に転化しようと、手探りに模索する。
しがみつく。
己の核たる〈心〉が死なないように……。
カリナにとって幸いなのは、
この子を護る誓いを自らに課す事で、自己存在意義の確立が出来ている。
しかし、カーミラには、それが無い。
哀れだった。
そして、その痛みは他人事ではない。
「分かったよ。
「本当に? ああ、嬉しいわ!」
カーミラの表情が心底喜びに晴れる。
「勘違いするな。別に気を許したワケじゃない」
「それは徐々にでいいわよ。けれど、わたし達、親密な友達になれそうな気がしなくて?」
「下らん
「あら、素直な予感よ?」
「滞在猶予は確約できんぞ」
「構わなくてよ。一ヶ月でも二ヶ月でも……何なら一生居ても良くってよ?」
「調子に乗るな。気が向けば出て行く」
やや舞い上がり過ぎたのを自重し、カーミラは肩を
話が
「カリナ、紹介するわ。この者は〝サリー・ポタートン〟──わたしが城内で
カーミラからの紹介を承けて、サリーが深々と
対してカリナは、鋭い
過敏な警戒心に気付いたカーミラが、意固地な客人を安心させようと補足した。
「大丈夫、警戒しなくても平気よ。サリーは女子供の血は吸わないもの」
「本性の偽装を常套とする吸血鬼相手では、表層的な心象は信用に値すまいよ」
「いいえ、信用できるわ」
「何を
「サリーの事は、ずっと見てきたもの。それでも納得できなければ〝カーミラ・カルンスタイン〟の名に懸けて……ね」
正視に交えたカーミラの瞳は嘘を飾っていない。
一応の妥協に折れ、カリナは少しだけ険を解いた。
「今後、雑用があればサリーに言えばいいわ。彼女を世話役にしてあげる」
主君の意向を察したサリーが、改めて
「どうぞ
「有り難迷惑だが、まあいいさ。それよりも、さっさと部屋へ案内しろ」
「
先導するサリーに誘われ、
独りきりとなった静寂の中で、カーミラは考えていた。
カリナが固執する〈レマリア〉なる存在が、どうにも釈然としない。
「可哀想なカリナ。きっと〈レマリア〉に縛られているのね」
散らばる思念を
相変わらずの
「なんとか自由にしてあげないと」
人知れず決心を抱く。
「しばらくの滞在は、約束を漕ぎ着けたんですもの……後は、やり方次第。それには綿密に事を運ぶ必要がある──細心の注意を払わなければ、逆にカリナは果てぬ怒りに呑まれてしまうでしょうからね。
ふと今後の予定を思い起こし、指針定まらぬ思索を
現状は
カリナに
積もる
室内を静かに賑わしている数々の家具類は、一様に格調高い美意識に統一されていた。
「急な事でしたので申し訳ございません。明日には
卓上の燭台に明かりを灯しつつ、サリー婆が詫びる。
「そうだな。ま、今日のところは仕方ないだろうさ」
浅い夢へとたゆとうレマリアを、そっとベッドに寝かし置いた。
愛苦しい寝顔を短く慈しむと、カリナは円卓へと
「カリナ様、御食事は? 当城には洋の東西問わず、赤ワインが揃えてございますが?」
「いいや、
妖婆が言う〝赤ワイン〟とは、
吸血鬼独特の隠語表現である。
そして〝貯蔵〟等の言い回しは『血液搾取用の人間を家畜同然に飼い囚えている』の意味だった。
一聞するだけには、残酷な鬼畜の所行としか思えないだろう。
しかし、それは人間の価値観だ。吸血鬼の価値観とは
第一、食糧の問題は種族存続の根幹を担う重大事だ。無理解に有る一方的な価値観だけで否定する方が、明らかに歪んだ独善である。
レマリアが標的にならなければ、それでいい──単に、それだけの話だ。
「今後も〝赤ワイン〟は
「はて? 我等に人間の食事は意味がありませぬぞ? 抜けぬ習慣が
「構わんさ。慣れているのでな」
淡白に述べて、
その様子を見たサリーは「ははあ」と
「カリナ様は、御優しいのですなあ」
「何だ、いきなり気持ちの悪い」
老婆は、それ以上語らない。意味深な
「確かオマエは『女子供の血を吸わない』と、カーミラが紹介していたな。妙な制約だとは思ったが……何故だ?」
「実は、私が吸血鬼として転生したきっかけこそが
「構わんさ」
カリナは相席を
何か訳有りの臭いを感じ、安い好奇心を働かせる。
「では、失礼して──」
曲がる腰を
卓上で揺れ踊る灯火が、妖婆の
「あれは人間だった頃に
かつての幸せを咬み絞めるように、老婆は何度も
「けれど、そんな幸せをアイツが──あの男が奪い潰していきおった!」
語気含まれる根深い呪怨!
先程までとは一転し、老婆の表情は悪鬼に歪んだ!
「あの男は娘を
それは、おぞましい程の鬼気であった!
が、カリナは呑まれる事も無い。
果汁
「最低な情事の果て……か。それで?」
「実家へと戻ってきた娘は、見た目に
「おそらく自分が惨めで、同時に己の浅はかさが許せなかったのだろう。責めてやるなよ」
「誠に左様で。そして、悲嘆こそすれど爪先ほども責めてなどおりませんとも。責めるべきはアイツ! 恨むべきはアイツなのでございますから!」
鎮まった鬼が、また顔を覗かせた!
「だから、復讐した! 夜闇に紛れて
無自覚に加熱した興奮を抑え、サリーは再び平常の語り口調へと戻る。
「時には温情の演技を見せ、
「なるほどな」
とりあえず、カリナの疑問は氷解した。
(コイツが自らに課している
回顧の怨念に浸る妖婆は、またも激情に自制が利かなくなったようだ。
「だが復讐しても、まだ足りぬ! 足りぬ! 足りぬ足りぬ足りぬ! 本当ならば地獄の底までも追いかけて、八つ裂きにしてやりたいところ!」
「やめておけよ」
「構いませんとも! むしろ望むところですじゃ! アイツを何度も殺せるならば!」
鬼女は聞く耳を持たない。
それほどまでに激情へと呑まれていた。
うんざりとした
「やれやれ……オマエの娘とやらも哀れなモンだな。これで
「何と? いま何と申された!
「侮辱しているのはキサマだ!」
怒り任せに一喝し、カリナは席を立ち上がった!
いまにも襲い掛からんばかりの鬼を、
「現世での報復は仕方あるまい。それだけの遺恨はあるのだからな。だが、己の母が永劫に〝
牙を
「オマエに……オマエ如きに、何が判るか! あの子は──〝ペニー〟は、私の生き甲斐だった! 私の全てだったんだよ!」
「その娘の魂から、怨鎖の解放までも奪うかよ!」
「なっ?」
「自殺は決して許されぬ魂の罪。なればこそ、キサマの娘は
「おお……ぺ……ペニー!」
真に迫る気高き波動が、鬼を成す
「わ……私は……私は!」
「挙げ句『望むところ』だと! このエゴイストが……キサマは〈母親〉という肩書きに酔っているだけだ! 愛情の
「おお……おお……おおおおおお!」
復讐に生き続けてきた妖婆は、見開いた目に大粒の涙を流していた。
さりとて、これは負の涙では無い。
零れ流れる温かさは、永らくサリー自身が殺していたもの──自分自身であった。
「お……おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ………………」
年老いた母親は、ただひたすらに泣き崩れる。
ようやく救われた気がした──永遠に続くとも思えた
人の心に泣き濡れながらも、サリーはカリナへの感謝を
「カリナ様は……カリナ様は、本当に御優しいのですな」
「フン、脳味噌でも逝ったかよ?」
「だって、ほれ」
「……チッ、
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