~第一幕~
鮮血の魔城 Chapter.1
テムズ川沿いに格調高い貫禄を誇示する城塞〝ロンドン塔〟は、旧暦時代からイギリスの自尊的象徴だ。呼称上では〝塔〟とするものの、れっきとした〝城〟である。旧暦中世に於いて、戦争の要たる拠点は〝塔〟とも称されていたのが
イギリス王朝の栄華に刻まれた城の威風は、旧暦までロンドン市民の誇りでもあった。
だが同時に、血塗られた歴史に染められた霊城としても名高い。私欲と策謀が横行した旧暦中世のイギリス王朝に於いては、理不尽な死を課せられた者達の往生舞台と化していた経歴を持つからだ。
これは数多い逸話の一例に過ぎない。
だからと言っては不謹慎だが、
なればこそ、まさに〝吸血鬼の
逆さ十字の意匠をあしらった赤木地の旗が、主要箇所で無数にはためく。赤は〝血〟を表し、逆さ十字は〝神への反逆〟を意味する。彼等〈
上空を舞う怪鳥の群は、かつて〝平和の象徴〟として城内飼育されていた
正面道路を
次々と城門を潜り入る豪奢な馬車群。
次々と集う来賓勢は、無論〈吸血鬼〉だ。古今東西の吸血鬼から成る闇暦勢力〈
それらを正面入口で出迎えるのは、痩せ型の中年騎士であった。鋭くも陰湿な印象の男で、頬が
一台……また一台と馬車が止まる
「御待ちしておりましたぞ、バートリー夫人。ささ、どうぞ御手を」
儀礼的なエスコートに従って降車するのは、品格を醸す美貌の淑女である。
見た目に三〇代後半といったところか──実齢は不明だが。
黒い髪艶を帯びたワンレンヘアが、妖艶な美しさを醸している。それは腰丈まで伸びており、一挙一動の振舞いに
整った線で形成された美貌ながらも、どこかおぞましい魔性を感受させる淑女であった。
名を〝エリザベート・バートリー〟という。
「これはこれは、ジル・ド・レ卿。
明らかに皮肉を含んだ世辞であった。
ジル・ド・レは小賢しく思いながらも、
「カーミラ嬢は、どうされましたの?」
「いやはや面目次第もございませんが、カーミラ様は
「まあ、カーミラ嬢が?」
エリザベートは露骨な心配を飾った。あからさまな自己演出だ。
一方で、彼女の胸中は穏やかに無い。
あの貞淑さを装う小娘が、自分以外の吸血鬼を軽視しているのは重々承知だった。このような非礼は、毎度の事である──前回も──前々回も──それ以前の全てに
「心配ですわね。大丈夫かしら?」
「いやなに、
「カーミラ嬢は随分と虚弱でいらっしゃるようだから、心配で
「ハッハッハッ……これは痛み入る御言葉ですな。我が
「御気遣い、恐れ入りますわ」
悠々と大回廊を去る吸血夫人を見送りつつ、ジル・ド・レは独り毒突く。
「フン、何も知らぬ女狐が。本当に虚弱なら、ワシの気苦労もありはせんわい」
実際、彼の主君は虚弱どころか不調知らずだった。
伝説的存在である〝カーミラ・カルンスタイン〟は、この場に集う吸血鬼の誰よりも強大無比な魔物である。
だからこそ、かつて百年戦争へと出兵した自分ですら、容易に刃向かえない。その歯痒さを、ジル・ド・レ自身が常々苦々しく思っていた。
「それにしても因果なものよ。まさか仇敵国に身を置く事となろうとは……しかも、
己が身の皮肉な運命には自嘲するしかない。
生前、百年戦争に於いて祖国フランスのためにイギリスと戦い抜いた彼が、死後は〈
元来〈吸血鬼〉は、生前の故郷に固執しない。多くの〈怪物〉が発祥地に縛られる中で、これは希有な性質と言えるだろう。
そもそも〈怪物〉が
しかし、彼等〈吸血鬼〉の根本を構成するのは〝
それを効率よく満たす事だけに重点を置き、そのためならば何処にだろうと根を張る──例えば伝説の吸血鬼〝ドラキュラ伯爵〟が、
逆に需要が低くなれば、惜しみなく活動地を離れた。
そうした背景故に、スチリア出身のカーミラ・カルンスタインが〝領主〟として居座り、フランス貴族たるジル・ド・レが仇敵国へ身を置くのも不自然ではなかった。先刻のエリザベート・バートリーにしても、わざわざハンガリーから訪れている。
このように雑多な国籍が一堂に会し、吸血鬼による一大勢力〈
だが、他の吸血鬼とは違い、ジル・ド・レの胸中は実に複雑であった。彼の場合、生前の誇りと遺恨が心底に根深く生きていたからだ。
「騎士の気位というものは厄介なものよ……
自覚はある。現状では押し殺さねばならない。
最優先すべきは〈
〈
見据えるは種族間戦争の覇権なのだ。
「セルビアよりペーテル・ブロゴヨヴィッチ様、御成ーーーー!」
新たな来賓を告げる衛兵の声を受け、
そして、歓待義務のために颯爽と
「毎度ながら気が滅入るわね……望んで着いた地位にないだけに」
続々と階下へと集う来賓勢を窓越しに眺め、少女城主は
もっとも〝少女〟というのは外見上の事であり、実齢の方は遙かに高い。
憂いを含んだ鈴音のような声は、聞く者に清らかな慕情さえも抱かせた。それが生来のものか、或いは〈
浅く波掛かった金髪を撫で梳くと、彼女は純白のドレスを
意味を為さぬ高級鏡台へと腰掛けると、映らぬ己の鏡姿に独り言を語り掛ける。
「いい事、カーミラ・カルンスタイン? しばらくは、できるだけ部屋の外へは出ないようにね。会議の際には否応なく出席するしかないとしても、それ以外では誰にも会いたくはないでしょう?」
腹を見せぬ来賓勢と対面するのは、露骨な化かし合いばかりで
晴れぬ思いのまま、深い
「せめて〝ローラ〟がいれば、気を紛らわせる話し相手にもなってくれたのだけれども……」
悶々と募る
気を許せる友人もいなければ、情欲に
彼女が思い出に慕情する中、不意に部屋の扉をノックする音が響いた。
またも深い
「カーミラ様、おられますか?」
戸外からの凛然とした呼び掛けは、聞き慣れた女性の声であった。
それを察知すると、一転して眉根の曇りが晴れる。
嫌う相手ではない。
「ええ、どうぞ」
カーミラは親しい友人を誘うように答えていた。
畏まった一礼に入室してきたのは、声質同様に品格高い女性。深紅のロイヤルドレスで身を包み、細やかな金髪は頭頂に詰め
「カーミラ様、御忙しかったでしょうか?」
「いいえ、メアリー一世。とりあえず、ジル・ド・レ卿ではなくてホッとしています」
軽口めいた冗談に、二人は苦笑を交わした。
シックに着こなした品格が示す通り、メアリー一世の生前は上流階層の身分だ。
それも旧暦中世のイングランド女王である。
彼女が王位にいたのは、
元来、長らくカトリック政権であった国家宗教が
彼女の母である第一王妃〝キャサリン女王〟も、そうした裏事情から無実の死刑を処された
即位したメアリーが徹底したプロテスタント排斥によってカトリック政権を復権させた原動力には、そうした〝母の無念〟と同時に〝父への報復〟という仇討ち的感情も看過できないだろう。
ともあれメアリー女王は暴走めいた政策を強行し、プロテスタント信者を弾圧した!
老若男女関係なく!
有無を言わさず連行し、そして、多くは死刑である!
数え切れぬほどの血が流れ、罪無き命が絶たれた!
その数は三〇〇人とも
いつしか民衆達は、恐怖と畏怖を込めて彼女を別称した──〝ブラッディ・メアリー〟と!
メアリーの場合は〝
彼女の転生要因は、こうした尋常ならざる鮮血の怨鎖に
つまり〝呪い〟と呼び替えてもいい。
だが、行為自体の残酷性はともかく、彼女には確固たる政策理念があったのは事実だ。
だからかもしれないが、彼女の品行方正な実直さは転生後も失われていなかった。
カーミラが特別視に好く理由である。
「それで、どういった用件かしら? まさか会議に関わる事ではないのでしょう?」
「まさか。それが禁則である事は、私とて重々承知しております」
「ええ。〈
「多少は賭けでしたが、霧化して訪れました。無論、皆に気付かれぬように細心の注意を払って行動しております。御心配なさらぬように」
霊的存在にも物質的存在にもなれる〈吸血鬼〉は、まさに千変万化だ。広く知られた蝙蝠や狼だけではなく、鼠や蛇──
とりわけ異質なのは、気体である〝霧〟への不定形変身だろう。墓下から痕跡もなく抜け出したり、閉めきった室内へ造作もなく現れる神出鬼没ぶりは、この能力に
とはいえ、根本的には感知側の魔力
一方で裏を返せば、彼女の度胸が据わっている立証でもあるが……。
「そこまでしての急用なのかしら?」
「いいえ。ただ、明後日に控えた会議を前にして、カーミラ様も気が滅入っておられるのではないか……と。口下手な
「まあまあまあ!」両手で口元を押さえ、カーミラは感激を
「心中、御察し致します」
カーミラの一喜一憂に反して、メアリー一世の対応は平静に徹している。彼女は元々イギリス王朝の一時代だ。そうした厳格な環境下が
対してカーミラの生前時代は、メアリーよりも
「足並み揃わぬ
「それについてはね、メアリー。わたし、常々
「
「ええ。だって、この城──ロンドン塔は本来、
多少気落ちした視線を落とすカーミラへ、メアリーが淡い微笑を含んで応える。
「それについては問題などありません。
「けれど」
「君主──束ねる者には、下層の者に有無を言わせぬほどの実力と、認めさせるだけの
「でも、仮にも
「武力的な才が欠けています。私ではジル・ド・レ卿にも及びません。人間時代の政治的組織図ならばともかく、個の実力が重視される吸血鬼社会では
「そうかしら?」
「そうですとも」
慈しみが返す。
少女城主は観念を
「イングランド領主にして、ロンドン塔城主……加えて、
単に〝伝説の
「別にドラキュラ伯爵でも良かったんじゃないかしら?」
肩越しの下ろし髪を撫で梳きながら、カーミラは不満そうに口を尖らせた。
「確かに、実力・能力共に申し分ないのですが──」そこまで言って、メアリーは言葉尻を濁らせる。「──ちなみに、今回は?」
「例によって、事前通告が届いているわ。なんでも『教会の十字架で串刺しにされたので療養中』とかで……」
「その前は確か……」
「火山に落ちて全身火傷……」
素直に推薦できない理由が、これであった。
カーミラをも凌ぐ〝伝説の吸血王・ドラキュラ伯爵〟が定例会議に出席した試しは一度も無い。毎回、何かしらの不遇に見舞われているからだ。
脱力感漂う沈黙の中で、カーミラは不意に階下から聞こえる喧噪に気が付いた。
「あら? 騒がしいわね?」
「どうやら正面回廊からのようですね」
「何かあったのかしら……行ってみましょうか?」
カーミラの誘いに、メアリーは自身の引き際を悟る。
「いえ、
紅衣の淑女はスカート裾を軽く摘み上げて礼を払うと、そのまま霞んで消えた。霧化しての退室であった。
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