孤独の吸血姫

凰太郎

~序幕~

黒霧の魔都

 ──闇暦あんれき三〇年、イギリス・ロンドン。

 人類による支配権が失われた〈闇の時代〉に於いて、実にそれだけの年月が経過していた。

 かつては賑々しい繁栄に飾られた景観も、現在では荒廃の渓谷でしかない。見渡す限りの廃墟が建ち並んでいるだけだ。

 此処、フリート街通りも例外ではない。

 叙情的懐古をいざなう中世様式の建築物は〈領主〉の道楽的趣向に遺される一方で、時折垣間見える鉄筋コンクリートは残骸と化してさびれた哀愁を唄う。

 路上へと投棄された自動車の羅列は、経年劣化が始まった鉄屑に過ぎない。再起動も疑わしいものだ。

 利便性と様式美の混在を意識した建築物の棟は、現在ではことごとすたれていた。

 天空を支配する永続的な墨色の空。旧暦時代では当たり前のように仰ぎ見た青空など、もはや恋しい幻想でしかない。

 その理不尽な暗幕に鎮座するのは、闇暦あんれきにふさわしい化物──巨大な単眼を据えた〈漆黒の月〉である。

 この怪物は決して沈む事など無い。

 異形の黒月こくげつは、白い輪光りんこうで退廃の世を照らし続ける。

 まるで金環きんかん日食にっしょくを思わせる幻想的な光源だった。

 禍々しい巨眼の印象は否応なく強烈であるが……。

 そんな狂気然とした魔都にて、凛然たる麗姿が月明かりの逆光に映えた。

 老朽化した建物の棟が形成する渓谷で、小高く積み上がった屍の丘に踏み立つ華奢なシルエット──小柄な少女の姿態である。

 テムズ川の汚水臭を孕んだ濁風だくふうが吹き抜けるとまとったくろ外套マントなびき踊り、内張の赤を鮮やかな呼吸に波打たせた。長いツインテールに束ねた赤い髪も、釣られて双蛇そうじゃと泳ぎ舞う。

 その身にまと黒衣こくいは、肌の露出度が高い奇抜な造りであった。バッサリと袖が欠落した肩口から繊細な細腕が露出し、辛うじて股下を隠す程度しかないスカート丈は危うくも未成熟な色香として目を惹く。黒革製のニーブーツが、謀らずもそれ・・を殊更に強調している。

「死屍累々……か」

 ひとしきりの剣舞を踊り終え、少女は洒落しゃれて自嘲した。

 彼女が右手に握り構える細身剣レイピアの刃は、紅玉石ルビーの如き反射を彩りながらもドロリとした血のぬめりをしたたらせている。何があったかは、彼女の足下に踏み広がる無価値な肉塊にくかいの山が暗に物語っていた。

 生ける屍〈デッド〉の再死体だ。

 冷たい月明かりに晒されたグロテスクな形相は、さながら苦悶の呪詛を呻く亡者そのもの。

 それらは一体残らず額を斬り割られていた。

 無駄な損傷のないきずあとが暗示するは、正確無比な剣さばき。

 くろ外套マントの少女は細身剣レイピアに軽く空を切らせ、赤黒くしたたぬめりを払ってさやへと収めた。

「レマリア、終わったぞ」

 容姿に見合う声音だが、どこか大人びた冷静さを帯びている。

 声を掛けた相手は、慎ましい胸に隠し抱く女児──まだ三歳程度であろう。襟首で一房に結わえた金髪を大きなリボンで留めていた。一目に強く印象付けるチャームポイントだ。草色のチャイルドドレスは若干煤けていたが、愛らしい気品を損なってはいない。細やかな刺繍の効果も大きいだろう。

 頑なにじられたまぶたを開くと、レマリアは周囲の惨状を──見ずにくろ外套マントの顔を恨めしく見据えた。

「カリナ! わたし、くちゃいの!」

「テムズ川が近いからな」

 無愛想な返答を置いて、カリナは死骸の丘から飛び降りる。片腕に幼女を抱えながらも身のこなしは軽い。

 降り立った地表には、かさの浅い黒霧こくむ泥濘でいねいしていた。

 世界荒廃の元凶たる魔気だ。

 カリナが示唆した通り、右側の廃墟棟を挟んだ場所には雄大なるテムズ川が流れている。その水流のせいか体感は涼しい。

 ただし、不快指数は高かった。現在では水質が淀みきっているせいだ。墨汁を思わせる川面かわもは絶え間なく濁泡だくほうを膿み、それが弾ける度に鈍い汚泥臭が大気に累積していった。

 空いた右手で柘榴ザクロかじりつつ、カリナはロンドンの閑散ぶりを淡々と見渡す。

「霧の都・ロンドン……か」

 誰に言うとでもなく遠い昔の別称が呟き漏れた。

 足下に滞る黒霧が魔都的要素を色濃く甦らせているせいだろうか。

 細腕に子供を抱いたまま無造作に歩き出す。

 足取りは東の方角へと向いていたが、別に目的があるわけでもない。気儘きままな放浪の一幕だ。

 取り立てて関心も湧かないまま視野を流すと、まばらに人影が窺えた。

 だが、街中でうごめくそれらは、もはや生者せいじゃではない。

 幽鬼めいて徘徊するおびただしい数の生ける屍──便宜上〈デッド〉と呼ばれる〝死人しびとがえり〟だ。

 けた表皮に崩れかけた顔面……損傷や腐敗の進行具合によって外見は様々ではあったが、生理的忌避感を刺激する醜怪さは総じて共通項である。

「冥府の賑わいは、地上に在って愉しいものでもないだろうに」

 先程、彼女が多勢を葬り返したばかりにも関わらず、既に何体かのデッドが涌いていた。その増殖力は無尽蔵でキリがない。

「レマリア、今度は癇癪かんしゃくを起こしてくれるなよ」

 軽く釘を刺しておく。

「かあしゃく、おこしてないのよ?」

「起こしただろうが。デッドがむらがってきたのは、オマエが臭いだ何だと喚いたせいなんだからな」

「あ、さっきはちがうのよ? だってね、くちゃいのだもん」

「わかったな?」

「……はあい」

 幼女は、ばつ悪く返事した。カリナが静かに怒気を含んだので、幼いながらも感じるところがあったようだ。

 数分も歩くと、またぞろ多勢のデッドが彷徨うろつく真っ直中に身を置いていた。

 しかし、カリナは群れる死体にも、まったく臆していない。その悠然とした振る舞いは、まるで地獄の散歩に興じる魔姫まきの如く映る。

 それにしても奇妙だ。

 そう、それは真に奇妙としか言いようがない。

 生者と死者の嗅ぎ分けに関して、デッドは本能的に鋭敏だ。故に獲物を感知した際には、原始的な補食本能が一斉に反応する。

 そして、俊敏な群獣ぐんじゅうと化すのだ──普段の鈍重さが嘘であったかのように。

 そんなデッド達が、カリナに対しては全くもって無関心なのである。目と鼻の先に闊歩しているにも関わらず、その存在自体を完全に見落としているかの如く。

 本来ならば哀れなにえの末路は、屍群しぐんによって呑まれ裂かれるのが運命さだめ。例外は無い。

 だが、カリナはなまぐさ晩餐ばんさんから難なくまぬがれていた。

 不意に彼女の正面を、ふらりと屍影しえいが横切る。

「邪魔だ」

 些細なゴミを払うかのような感覚で、カリナは無礼を破壊した。

 飛沫しぶきいて崩れる肉塊にくかい。その頭部は見事に両断されていた。

 鋭利な刃が赤黒いけがれで曇る。抜刀の瞬間こそ肉眼で捉えられなかったものの、紅剣こうけんによる所行を暗に示していた。

「まったくウジャウジャと目障りなもんだ」

 辟易と零れる心情。

 直後、何処からともなく軽薄な賛美が聞こえてきた。

「ィェッヘッヘッ……相変わらず見事なけんさばきだなぁ、お嬢?」

 いつからいたのか──睨み据えた路地裏から姿を現したのは、小汚く痩せた一人の男。

 黒いジャケットスーツを着た細身の黒人男性であった。浮き透けるようにけた頬骨に、無造作に波掛かった黒い長髪。くまに落ち窪んだ目は、常に相手を見定めようとする値踏みがいやらしい。衣装に釣り合わぬ貧相さながらも、根拠不明な自信に満ちた太々しさが滲み出ていた。吹かす葉巻が憎々しく似合っている。

「ゲデかよ」

 好かぬ相手を前にして、カリナは嫌悪感をあらわにした。

 ゲデと呼ばれた男は、山高帽子のつばを一摘みに形式的な礼を払う。続けて自分を警戒視する女児に道化笑いで掌を振るも、保護者の胸へと顔を埋めてしまった。

「嫌われたもんだねぇ? お初でもねぇのに……」

 ぼやきながらも、締まりない下品なニタリ顔は口角を広げている。この男には露骨な拒絶すらも愉快らしい。

「いい加減、察しろよ。子供受けするツラか?」

「ィェッヘッヘッ……違いねぇや」

 小馬鹿にしたニヤケ面が更に笑い歪んだ。

 反省皆無な飄々ひょうひょうとした言動が、カリナには常々腹立たしかった。この下衆げすが嫌われる要因のひとつだ。

 もっともゲデ側に視点を転じてみれば、それも楽しみの一環なのだろうが……。

「しかし、なかなか見事なモンでさぁね」

 ゲデは感嘆しながら、まじまじと二度目の死を覗き込んだ。

 脳脂のうしや肉片が散乱する血溜まりは、見るに陰惨極まりない。

 そんな猟奇的な惨状へと興味津々に見惚みとれる。薄気味悪く、ほくそ笑みつつ……。

 常軌逸脱の悪趣味に一瞥いちべつを投げ、カリナは赤の果汁で渇きを潤した。

「肉体破損を感じぬ特性はあるが、それだけだ。恐れる道理が何処にあるよ?」

「確かにイカれた脳味噌さえブッ壊しゃあ、コイツ等の活動は停止するがねぇ?」赤池へと見入る好奇心はそのままに、ゲデは空々しい道徳観念を口にする。「普通は大なり小なり躊躇ちゅうちょってモンがあるわな。なんたって〝動く死体〟とはいえ、生前そのままの姿形なんだからな。お嬢、アンタには良心の呵責かしゃくが御有りで?」

「ニヤけた悪徳面で諭されても、まるで説得力など感じんな。生ける者相手ならば非難も受けようが、心すら持たぬ〝物〟に情けも呵責かしゃくもあるまいよ」

 闇暦あんれき時代の常識を吸い滓と共に吐き捨てると、カリナは再び気の向くままに歩き出した。

 黙々と退屈に進む最中、不意にレマリアが疑問を向けてくる。

「カリナ? どうして〈デッド〉って、たくさん?」

「また『どうして病』か? ま、知識吸収欲が強いのは、いい事だがな」

「どうして?」

「コイツのせいさ」足下にまとわりつく淡い黒霧こくむを、黒革の脚線美が浅く蹴った。「コイツは、魔界の気〈ダークエーテル〉──その劣化残留体だ。コイツが死体の脳に干渉し、デッドとして再活性化させているのさ。とはいえ、死体の脳は腐敗や損傷がいちじるしい。だから、デッドには魂や自我が無い」

 カリナがデッドを許容できない理由のひとつには、そうした空虚な再生に起因する喪失感もある。自我損失のまま原始的本能のみに支配される退廃的存在は、彼女にしてみれば浅ましくも哀れにさえ思えた。

 そして、その同情を寄せる価値すら彼等には無い。

 だからこそ憤りにも似たやるせない感情は、一転して蔑みへと変わるのだろう。

「ィェッヘッヘッ……ま、お嬢の言う通りさな」空気を読まぬゲデが後追いに駆けて来た。悪意に歪めた言い回しで、無垢なる無知へと教示する。「いいか、おチビちゃん? デッドってのは、ただの〝動く死体〟だ。つまり〈幽霊〉や〈吸血鬼〉とは違って、再生した肉体には〝魂〟なんざ入って無ぇのさ。ま、コイツ等は一山幾らの雑魚ザコだ。仮に〝魂〟があったとしても、クソみてぇな値打ちしかねぇだろうがよ。ィェッヘッヘッ」

「斬られたいか?」

 聞くに耐えない品性に立ち止まり、カリナは下衆げすめつけた。彼女が本気で発する静かなる殺気は、相手を呑み込むような凄みに満ちている。

「おおっと、勘弁勘弁! お嬢の剣に斬られたとあっちゃあ、オレの面目が丸潰れでさぁ」

「キサマの面目など知らんが、死者を冒涜するな」

「へ? お嬢、いま何とおっしゃいました? 『死者を冒涜するな』ですって? 御自分の事は棚に上げて? このオレに?」素っ頓狂に驚いてみせるも、その挙動が何ともわざとらしい。案の定、次の瞬間には抱腹絶倒の嘲りに溺れてみせた。「ィェッヘッヘッ……お嬢にしちゃあ、なかなか上出来の冗談ジョークですぜ! 言うに事欠いて『死者を冒涜するな』ってか……ィェッヘッヘッ」

「意外と足りん頭だな」心の底から見下し、カリナは持論を紡ぐ。「死者の本質とは〝魂〟そのものだ。もぬけの殻となった〝器〟の事ではない。私はそれをうれいて、キサマは愚弄する。何が可笑おかしいものかよ」

 沸き立つ不快感を置いて、黒衣こくい美姫びききびすを返した。

 もっとも、この似非エセ紳士はしつこい。性懲りもせずに追って来ると、すぐさまフレームアウトした視野から復活した。

「待てよ、お嬢。僭越せんえつながらオレ様が同伴してやるぜ? ィェッヘッヘッ」

らん。さっさとハイチへでも帰れ。せっかくの柘榴ザクロが不味くなる」

 頑とした拒絶に返す。下卑げひな輩など顔を見る気も起きない。

「連れねぇなあ? それとも、オレより〝間抜けなカボチャ頭ジャック・オ・ランタン〟の方がお好みですかい?」

「キサマ以外なら〝ふざけたカボチャ頭ジャック・オ・ランタン〟でも何でも我慢してやるさ」

「かぼたたん?」言葉の端を拾い、レマリアが興味津々に顔を上げた。「わたし、かぼたたんがいい! ゲデ、きらいよ!」

「ィェッヘッヘッ……こりゃまた嫌われたもんだぜ。ま、オレとしては〝新鮮な死〟に有り付けりゃ、それでいいんだけどよ。アンタといると〝それ〟には事欠かさねぇからな、お嬢?」

 のらりくらりと人を食った道化が、いちいちしゃくさわり腹立たしい。

 いっそ内なるいらちのまま、本当に斬りつけてやろうか──とも思った。

「ねえ、カリナ? かぼたたんも〈デッド〉?」

 レマリアが強く興味を抱く〝かぼたたん〟とは、イギリスの伝承にある精霊〝ジャック・オ・ランタン〟の事である。単純な顔がくり貫かれたカボチャ頭で、ユーモラスな見た目ゆえに子供の好感をき易い。旧暦末期にはイギリス発祥の降霊祭〈ハロウィン〉のシンボルキャラクターとして世界的に有名になったが、これはいささか本質を離れた扱いと言えるだろう。

「いいや、アレは〈怪物〉だ。デッドとは違う」

「どうして?」

「どうしても何も、アレは元々そういう存在なのさ」

 ジャック・オ・ランタンの本性は、小賢こざかしい悪意に満ちた鬼火だ。核である魂は〝ウィル・オー・ウィスプ〟とも呼ばれている。実態的には狡猾な幽魂ゆうこんであり、警戒心を抱かぬ軽率な遭遇者を溺死させたり転落死させたりして喜ぶ。要するに〈怪物〉としてはずるがしこいだけの小者だが、決して友好的な存在ではない。

「別に〈怪物〉は劣化残留体の影響で変じたワケじゃない──魔力や妖力の源泉ではあるがな。つまり〈怪物〉は、根本から〈デッド〉と違う存在なのさ」

「あ、さっきもいったのよ? だーけれーてのれっかざりゅーたいって」

「……ダークエーテルの劣化残留体な」

「そう、それ! れっかざりゅーたいって、なに?」

「希薄化した……ああ、いや──」己の説明が幼児には難解な言い回しである点を自覚し、噛んで砕いた表現へ言い換える。「──〝薄くなった残りカス〟ってトコだな」

「のこり? これ、のこりなの?」目を丸くしたレマリアは、漂う黒霧へと関心を向けていた。「じゃあ、いっぱいは? どこ?」

「あそこさ」

 歩む足を休め、空を仰ぐ。

 その注視を追って、レマリアも保護者に倣った。

 広がるのは、もはや晴れる事のない黒雲──。

 星の瞬きすら呼吸に喘ぐ永遠の夜闇よやみ────。

「あの空の闇が、すべてダークエーテルなのさ」

「アレぜんぶが、いっぱいなの? すごーい!」

 二人して広大な闇空あんくうへとせられた。

 ふと巨大な単眼と目が合った。これだけは忌々しい無情緒だ。

「あの黒月が地上を魔界へと新生させた張本人だ。自らを〈門〉と化して、ダークエーテルを魔界から引き寄せたのさ」

 カリナの毅然きぜんとした反抗心が、地上を見下す眼力を睨み返す。禍々しく淀んだ巨眼が、自分を見つめているかは定かにないが……。

 この闇暦あんれき世界で支配実権を握るのは、有史以前から人類が〝空想産物〟としてきた異形なる者達──即ち〈怪物〉であった。

 此処、ロンドンに限った話ではない。

 イギリス全土──いや、世界各国が怪物達によって征服統治され、それらが〈領主〉として君臨している。

 闇暦あんれきに於ける人類は、その独善的庇護下で細々と生を紡ぐ最下層種族でしかない。

 そして、各国領主は独自の軍勢を率い、更なる覇権を求めて小競り合いを繰り返していた。

 同属種による世界制覇のためだ。

 それこそが、彼等〈怪物〉達の共通理念となっている。

 わば、怪物達による戦乱の世──それが闇暦あんれきの情勢であった。

 俗に言う〈闇暦大戦ダークネス・ロンド〉である。

「う~~」唐突にレマリアが渋く唸りだした。懸命に悪臭を我慢していたようだが、とうとう限界に達したようだ。「カリナ、わたしくちゃい!」

「さっき聞いた」

 黒き怪球から瞳を逸らさずに、素っ気なく返す。

「カリナ、へいき?」

「ああ」

「くちゃくない?」

「まあな」

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………」

「……そんな目で見るなよ」

 強大な圧迫感を強いる巨眼よりも、すぐ胸元から向けられる抗議の視線に苦々しく折れた。

「わたしはくちゃいのに、カリナはくちゃくない! カリナ、ずるい!」

「別にずるくはないだろう」

 支離滅裂な自己主張だ。

 保護者としての経験から言葉裏の真意を推察する。

「オマエ、さては眠くなってきているな?」

「ちがうもん! わたし、くちゃいの!」

 この場合『臭い』と『眠い』は完全に同義語だ──そう確信した。

 もっとも、レマリア本人は自覚してないだろうが……。

「そろそろ寝床を確保してやらねばならんか。とはいえ、この周辺ではな……」

 周囲を物色に見渡すも、在るのは廃墟と屍だけ。レマリアの宿には不憫過ぎるだろう。

「カリナ! わたし、くちゃいのイヤ!」

「……まだ言うかよ」子供の徹底した利己主義には、なかば感心すら覚える。「いい根性しているよ……まったく」

 と、カリナは腰巾着の利用価値を閃いた。

「おい、ゲデ。キサマ、この街には詳しいか?」

「へ、ロンドンですかい?」唐突に邪険から一転した扱いに、ゲデは目を丸くする。が、ややあって揚々と自画自賛を誇示しだした。「オイオイ、オレを誰だと思ってるんで? ブードゥー教の死神・ゲデ様だぜ? 活動範囲に制約が無くなった闇暦じゃあ、世界中何処であろうとオレ様の庭さね」

 どうやら安い自尊心を触発されたようだ。

 舞台役者の如き仰々しい振る舞いには、大根ハムぶりへの失笑しか出ないが……。

「そうかよ。ならば、今夜の宿を教えろ」

「はあ? オレ様は旅行案内業者じゃねぇぞ!」

「教えろ」

 射抜くような睨みつけに、三文役者は反抗を呑む。

「チッ、仕方ねぇな」

 カリナの言う〝宿〟が、どういったたぐいなのか──彼は重々承知していた。

 ただの寝食だけなら、そこらの廃屋で充分に事足りる。

 しかし、カリナが要求する水準は高い。

 彼女自身のためではなく、全ては連れのためだ。

 少なくとも、衛生的で、快眠が約束され、満足な食事が確保できるような場所でなければならない。

 要するに『人間らしい宿泊環境』という事だが、人間社会の価値観が瓦解した闇暦あんれきでは逆に見つけにくい物件である。

「ここから少し先にる〝シティ〟なら、或いは御望みの物件があるかもしれねぇな」

「なるほど」

「老婆心ながら教えとくが、ロンドンを支配しているのは〈吸血鬼〉だ。しかも〈不死十字軍〉ノスフェラン・クロイツとかいう新興勢力の旗揚げに発起している最中だから、部外者や外敵を過剰警戒してやがる。あまり刺激しねぇ方がいいぜ?」

「ほう? 吸血鬼の勢力かよ」

 カリナが淡く邪笑を含んだ。良からぬ期待感を高めているのが、傍目はためにも分かる。

 ゲデの進言は果たして旧知ゆえの警告だったのか──それとも狡猾な誘導だったのか。その真意は不明だ。





 しばらく黙々と進んだ末、遠目に〝竜のモニュメント〟が建っているのが見えた。細高い台座上に据えられたそれは、いささか造型が甘く貧弱な印象にもある。

 この竜の彫像は旧暦時代から存在する遺物だ。ロンドン特別区域である旧市街地〝シティ〟の境界を示す目安である。

「おい、お嬢? ロード・メイヤーの許可は得たかよ? ィェッヘッヘッ」

 旧暦時代のシティは〝ロード・メイヤー〟と称される特別市長が管轄する半独立区域であった。仮に英国王といえども、特別市長の許可無く立ち入る事は許されなかったという。

 これより先は、ロンドンにあってロンドンにあらず──あくまでも旧暦時代での話だが。

 彼女達の行く手に待ち構えるのは、貧弱な竜像だけではなかった。

 やがて出会でくわしたのは、高々とそびええるコンクリート防壁。無機質で無愛想な灰色の壁面が、シティ領域をぐるりと覆い囲っていた。内壁ないへきに広がる世界を、外界から完全隔離している。

 近付くにつれて標高が育つ。目算だけでも二〇メートルはあるだろう。ここまで物々しく堅固な防壁は、イギリス各地を流浪るろうしてきたカリナも初めて見た。

「対デッド用防壁ってワケか。テンプル・バーも随分とゴツくなったものだな」

 防壁の裾まで辿り着くと、その重厚で武骨な叙情壊しを皮肉めいて蔑笑した。

 ロンドン市門〝テンプル・バー〟は、旧暦後期に取り壊されている。

 その跡地に建てられたのが例の竜像だ。

 しかし、歴史的遺産を偲ぶ声から、聖ポール大聖堂付近の路地裏に復元されていた。復元版は闇暦現在でも遺っている事だろう。

「ィェッヘッヘッ……さすがに大都市は、やる事の規模が違うってか」いつの間にか、嫌われ者が脇に並び立っていた。「……にしても随分と過保護だねぇ? どうやら吸血鬼様ってのは、人間に対してお優しいようで」

「そんな温情的政策なワケがあるかよ。目的は他国と同様に〝食料確保〟に決まっている」

 灰色のあおりを眺めたまま冷淡に返す。

 闇暦あんれきに於いて人間達が暮らす〝居住区域〟は、こうした防壁によって隔離されている。デッドの猛威から保護するためだ。

「怪物達の糧は、デッドと同じく〈人間〉だ。端的な例としては、吸血鬼には〝生き血〟が無二の糧であり、邪霊の類ならば〝恐怖〟という抽象的な非物質が糧となる──といった具合にな。総じて怪物達の糧は〝人間の存在〟に依存するのさ」

「ま、一概に〈怪物〉と称しても、生態・性質は様々だからな。当然、糧の在り方も各種で異なるのは道理さ。もっとも中にはデッドと同じように人肉嗜喰ししょくもいるけどよ」

「それも含めだが──ともかく、この脆弱種が滅んでしまえば、怪物自身の存在も維持できない。だから、デッドの自制なき補食本能から、最低限の食糧を隔離保護する必要があるのさ。無計画な飽食を看過していては、自分達の首を絞めかねないからな」

「早ぇ話が〝人間牧場〟ってワケだ……ィェッヘッヘッ」

 カリナの表情が不快に曇る。

 実際、ゲデの表現は間違っていない。簡潔ながらも的を射ている。

 しかし、あまりに直球過ぎる無遠慮な表現は、彼女の品性にそぐわない卑語ひごであった。

 辟易へきえきとする現実逃避がてら、胸に抱くレマリアへと目を向ける。

「さっきから、おとなしいとは思ったが……」

 幼女は親指吸いに微睡まどろみながらも、まぶたの重さと格闘していた。どうやら眠気も限界のようだ。

「……ん、カリナ? わたし、ねむねむないのよ?」

「眠いんだろうよ」冷静に指摘しながらも、髪を撫でてやる細指は慈母の如く優しい。「できるだけ早く寝床を確保してやらねばならんか」

 延々と広がる灰色の結界を左右に見渡したカリナは、入口を求めて左方向へと折れ進んだ。

 確固たる選択理由は無い。いつもの気紛れだ。





 結論、カリナの直感は正しかった。

 おかげで苦も無く防壁内へと入る事ができた。

 過程で吸血鬼の門兵がいたが、障害とばかりに赤黒い血の池へと沈めてある。今頃は〝無〟へと還っている事だろう。

 斯くして立ち入った居住区内は、外界とは別世界にも思えた。

 慢性的な闇空あんくうに巨眼の黒月こくげつ、懐古嗜好の景観──構成要素は、まったく同じだ。

 ただし、荒廃の陰りは見受けられない。

 たったそれだけの差で受ける印象は大きく違う。

 規律めいて建ち並ぶ住居棟は、煉瓦や角石で積み築いた古めかしい外観だった。細長い窓が並び、灯る明かりから居住者達の生活感が窺える。敷き詰められた煉瓦道も朽ち割れてなどいない。目地から雑草が覗く様子すら無かった。

 誰しもが想像する〝古き良きロンドンの情景〟が、此処に集約保護されているようである。此処ならば英国旗ユニオンジャックの威光も、まだ栄えようとすら思える。

 けれど、それだけだ。

 街全体に漂う索漠感さくばくかんは、まったく払拭されていない。

「人の姿が一切見えんとはな。どいつもコイツも籠城紛いの生活か」

「ま、明かりが灯せる生活なだけ外界よりはマシだがな。デッドが嗅ぎ付けて群がる心配はねぇからよ」

 ゲデの見解には同感である。納得はできないが……。

 足下の霧を悪戯に攪拌かくはんした。

 定番の黒霧こくむではない。健常体たる灰色の濃霧のうむだ。

 居住区内でデッドが発生しない理由が、これであった。

「さすがにダークエーテルは、徹底的に遮蔽しゃへいされているようだな。産業文明が廃れた闇暦あんれきで、どうしてこれほどの〝霧〟が発生するのかは知らんが」

 旧暦時代〝霧の都〟と称されたロンドンだが、実際に街を染めていた靄は〝霧〟ではない。大規模な産業が垂れ流した排気煙だ。

 人間が自由権利を喪失した闇暦あんれきでは、まず有り得ない光景であった。

「確かに大規模な産業は廃れたがよ、個人レベルでの垂れ流しは健在だ。何せ、このロンドンは人間同士の商業が認可されてるからな」

「人間の商業だと? 怪物主権の御時世に、珍しい内政だな」

「ま、排気の発生源は様々……鍛冶屋もあれば、燻製屋もあらぁな。そうした個人商が吐き出す累積さね」

「火葬屋は無いのか」

「は? 何でだよ?」

「立ち会える〝死〟が減れば、目障りな下衆ゲスが餓死してくれる」

「ホンッッットにオレ様を嫌ってやがるな? お嬢?」

「当然だ。好いてやる素養があるかよ」

 と、犬猿の足取りの中で、不意にカリナがあゆみを止めた。

 大気中に拡散する稀薄な違和感──それを鋭敏に嗅ぎとったのだ。

 街路に佇んだ彼女は、その正体を四方に求める。

「どうした、お嬢? そんなに鼻をスンスン鳴らして?」

「……血だな」

「はあ?」いぶかしみながらも、ゲデは真似まねて気配を探した。「オレには何も感じねぇぜ?」

「分かるのさ──私にはな」

「へえ? まるで餓えたホオジロザメの如く……だぜ」

「……やり返したつもりかよ」

 感嘆に偽装した揶揄やゆを見透かし、カリナの眉根が不快に曇る。

 だが、現状ではどうでもいい些事さじだ。

 新たに捕捉した展開は、もっと関心深い。

 やがて、ようやく風向きから方角を特定した!

「こっちか!」

 言うが早いか駆け出す!

「おい? ちょっと待てよ! お嬢!」

 街路灯の明かりになびき去る黒外套マントを、卑俗な腰巾着が慌てて後追いした。





 人の目を引かぬ路地裏──少年の抵抗は、あまりに非力だった。露出した腕や腿に刻まれた幾多もの赤筋は、その立証たる切り傷だ。

 暴力によって地べたへとうずくまった少年を、長身の男が無慈悲に踏みつける。

「返せ! 返せよ!」

「ヘッ……ガキのくせに抵抗するかよ?」

 細身ながらも引き締まった筋肉の男であった。黒革のライダースーツを胸元開きに着こなし、露骨にアウトサイダーを主張している。全体的に細身ながらも、ワイルドな印象だ。

 知る人が見れば、彼こそが〝喉切りキルヴァイス〟だと気付いた事だろう。その二つ名の通り、多くの犠牲者が喉を掻き切られて殺されている。彼特有の殺害方法だ。主なる対象は、女子供──自分よりも弱い者を標的とする傾向にあった。要は小者殺人鬼に過ぎないが、その加虐性は異常だ。

 暴力の勝利に酔うキルヴァイスは、強奪した袋から獲物を取り出した。

「ほう? パンに果物、缶詰もあるじゃねぇか。肉が無ぇのは惜しいがな」

 戦利品を美酒のように眺める。

「返せ! それはオイラの──オイラと母ちゃんのだ!」

「往生際がわりィんだよ!」

 容赦ない蹴りが未熟な脇腹を痛めつけた!

「ぐっ!」

「おい、ガキ。この闇暦あんれきじゃ奪われた方が悪ィんだよ! こっそり盗もうが、暴力で奪おうが、勝ち組こそ正義だ! 負け組には文句を言う資格すらぇ!」

 更なる追い打ちが蹴り上げる!

「かはっ!」

 軽く血を吐いた。

 内蔵が破裂したかと思えた痛みに、少年は悶え苦しむ。

 だが、それ以上に痛むのは〝心〟だ!

 無力さを突きつけられる現実だ!

「──ッキショウ! チキショウ!」

 悔し涙がポロポロと零れる。

 なけなしの貯金を切り崩して、闇市から買った品々であった。

 自分の──そして、母のために。

 嗚咽にむせぶ子供を辟易へきえきながらに見下す暴漢は、やがてゾッとする非道を口にする。

「チッ……鬱陶しいな。やっぱバラすか」

「ひっ?」

 戦慄が走った。尻餅体勢に後退るも、まだダメージを回復しない体が言う事を聞かない。

 愛用のジャックナイフを取り出し、その凶刃きょうじんを舌なめずりに慣らす殺人癖。

 その時──「最初から、そのつもりだろうよ」──周囲へと響き渡る少女の声。

 それをくさびに、緊迫した状況が瞬間を止めた。

「だ……誰だ!」

 にえから退くキルヴァイス!

 手にした刃は臨戦態勢のままに、邪魔立てる部外者を索敵する!

 はたして、それは路地裏の入口に居た。

 建物と建物とが作り出す渓谷の麓に……。

 冷たい月明かりに浮かび上がるのは、夜露湿る石壁へともたれた小柄な影──くろ外套マントの少女であった。吹き抜ける陰湿な風に、赤い双蛇そうじゃなびき遊んでいる。

 柘榴ザクロかじる少女は、事の成り行きを淡々と観察視していた。この陰惨な状況に眉一つ動かすでもなく……。

「で? 三文喜劇は、もう終わりか?」

「な……何だ、テメエ?」

 警戒に訊いつつ、乱入者を値踏みにめつける。

 改めて見れば、これまでの獲物と何ら変わるものではない。むしろ、彼の嗜好には上玉だ。

 相手を把握すると、転じて高揚感に薄ら笑う。

「ヘッ、今夜はツいてやがるぜ。オレァよ、切り刻むなら女の柔肌の方が好みなんでな。バラす前に、たっぷりと可愛がってやるぜ」

「遠慮しておくさ〝切り裂きジャック〟殿──いや、キサマには〝弱虫チカチーロ〟の方がお似合いか?」

 蔑視を向ける少女が軽いあざけりに返した。

「……あ?」

 あからさまな侮蔑に場の空気が凍りつく! 

 自分を小馬鹿にした露骨な挑発という事は、思慮浅い愚か者にも伝わったようだ。

 わずとも〝殺人鬼界の伝説的カリスマ〟と〝幼児性愛の内向的猟奇犯〟とでは、雲泥差の開きがある。

「テメェ! 刻まれてぇのか!」

「刻まれたいも何も……キサマには、それ以外の芸はあるまいよ」

 またも侮蔑で返し、激昂げっこうを誘った。

 彼のような愉快犯的殺人鬼には、分かり易い共通項がある。即ち〝恐怖と畏怖の対象〟でなければ気が済まないという安い注目願望だ。

 ところが、この少女からは、そうした負念が一切感じられなかった。

 それどころか、優越的蔑みに満ちている。

 まるで貧相な野良犬の虚勢でも見るかのように。

 自尊心だけは人一倍強いキルヴァイスにとって、どうにも腹に据え兼ねる反応であった。

「ブッ殺すぞ!」

 吠えると同時に空気を裂く殺意!

 凶刃きょうじんが少女の喉元へと目掛けて突き伸びる!

 だが、カリナは左脚を軸とした最小限の回転にくろ外套マントひるがえし、その軌道から難無くれた。

「テメェ……殺す! 殺す殺す殺す殺す!」

「何度も言うなよ。壊れた蓄音機じゃあるまいし」

 逆上に大振りな弧を描く刃を、くろ外套マントの波が紙一重で舞うようにわし続ける!

 その壮麗な所作は、まるで輪舞ロンドの如く!

「クソが! クソが! クソが!」

 一心不乱にナイフを振るうも、それがかする手応えすら無い!

(何故だ! 何故当たらねぇ?)

 涌き募る焦燥に足掻あがく!

 この局面にあっても、キルヴァイスは相手との力量差が理解できずにいた。

(ありえねぇ! こんな事は、ありえねぇ! オレは認めねぇぞ!)

「どうした? 息が上がってきてるぞ?」

「ぅるせぇぇえ!」見え透いた挑発に、またも賊は我を見失う。「クソがクソがクソがクソが!」

「やれやれ、もう少しは楽しめるかと思っていたが……」もはや殺人さつじんへきでも陵辱りょうじょくよくでもなく、己の意固地な自尊心のためだけにジャックナイフは振るわれていた。こうなると少しは名を馳せた猟奇狂人も、ひたすら惨めな三下雑魚ザコに過ぎない。肉迫した命懸けの遊戯を期待するカリナにしてみれば、これは何とも興醒めな茶番となった。「もういいよ、オマエ」

 嘆息がてらに失望を吐き捨て、キルヴァイスの視界から獲物が消える!

「なっ?」

 予想打にしない状況変化に、単純な思考は対応できなかった。

 荒れ乱れていた攻撃が一時的に止まる。

 少女は忽然こつぜんとして消えた──ワケではない。

「……すげえ」

 優美な舞踏にも映る戦いに、少年は思わず息を呑んだ。

 正面捕らえのキルヴァイス本人には、分からなかっただろう。

 しかし、客観的位置から傍観していた少年からは、一連の行動が見えていた。

 彼女は身を屈めて敵の視界から一瞬外れると、そのまま死角から体捻りに頭上を跳び越えていた。

 そして、その背後に着地したのだ! 物音ひとつ立てずに!

 驚嘆すべきは、それだけではない。

 想像してみてほしい──小柄な少女が、長身男性の頭上を脚力だけで跳び越える様を!

 その跳躍力たるや、もはや常人の域ではない!

 と、蜂に刺されたような熱さがキルヴァイスの左胸に走った。

 その違和感に呼ばれるまま、彼は視線を落とす。

「……あん?」

 静かにしたたる赤。

 鋭利なあか細枝ほそえだが、彼の胸を突き抜いて斜上しゃじょうへ向けてえていた!

 静寂の夜空へ凱歌を叫ぶかのように!

 その根本ねもとから濁々だくだくと零れるのは、間違いなく彼に内在した生命力!

「血は命なり……か」

 背後の処刑人が低く漏らす。

 しばしの思考後、キルヴァイスは己の状態を悟った!

 それを理解したと同時に込み上げてくるのは、実感を伴う〝死〟への恐怖!

「ヒッ……ヒッ……ヒィィィィィッ!」

「今更怯えるなよ。〝死〟は、オマエの享楽に散々付き合ってくれた悪友だろうに」

 肩越しに見た少女の瞳は、生来の殺人鬼だけが持ち得るそれだった。

 あまりにも冷淡な美声は無情なる死の調べか。

「な……なん……で……カハッ!」

 のどに溜まった反吐へどが詰まる。

 先程までの猟奇的激情が嘘であるかのように、その男は情けない狼狽面ろうばいづらさらしていた。狩る側から狩られる側へと身をとして……。

 対照的に冷酷な側面を披露した少女からは、一片の慈悲すらも感じられない。その圧倒的な負のオーラは、両者を比べるまでもなく闇の威光に祝福されていた。

「しし死にたくねぇ……死に……」

 奥歯の震えが止まらない。さながら、初めて悪寒を覚えたかのように。

 死の恐怖と直接向き合った〝死の信徒〟は、譫言うわごとのように自らの末路を拒絶していた。

 だが、これから地獄へ堕ち逝く罪人の戯言たわごとなど、カリナにとっては聞くに値しないノイズでしかない。

 美姫びきせた剣技は、鋭くも繊細な的確さを兼ね備えていた。最低限の心臓機能を阻害する事なく、主要筋肉をけて貫いている。

 それは決して温情や哀れみに準ずる措置ではない。

 遠い和国の妙技に近い感覚──確か〝け作り〟と言ったか──酔狂で残酷な道楽だ。

「そういえば、私が誰かいていたな?」

「たす……たすけ……」

「地獄の門番に会ったら伝えておけ。『カリナ・ノヴェールにさばかれました』と……。少しは同情がさそえるかもしれんぞ」

 冷徹な邪笑のままにレイピア剣の柄を力任せに寝かせた!

 辛うじて生を繋いでいた心房へと刃が斬り込むと、毒々しい赤の噴水は闇天あんてん高々に飛沫しぶきを噴き散らす!

 そして〝死〟は、平等に彼を受け入れた。





「オイ、どうなっている」

 虚しい退屈凌ぎを終えたカリナは、柘榴ザクロかじりに少年へと訊ねた。

「こうした居住区ならば、最低限の生活と治安を確約されているはずだろうよ」

 少年は疼く痛みを押し隠し、身に付いた土埃を払いながら立ち上がる。

「オイラにだって分からないよ。けど、食糧や配給は届く事すら珍しくなった。オイラ達〝最下層〟には、食料を買う事だって難しいっていうのに」

ゆえに、こうした輩が横行している……か」

「いいや、それは前から。コイツ等はオイラ達のような弱い者から物資を強奪して、自分達の物にしているのさ」

「いずれにせよ劣悪な環境だな。衛兵による警備は?」

「無いよ。そんなもん」

「ふむ」

 カリナは軽く思索を巡らせた。

(内政方針に問題が無いのであれば、考えられるのは配給兵による怠慢か──横領だ。もっとも〈吸血鬼〉が食料を横領しても意味など無い。となると……)

 そして、好かぬ名を呼ぶ。

「ゲデ!」

「ィェッヘッヘッ……嫌われ者のオレ様に何か用かよ?」

 奥まった暗がりから、ひが似非エセ紳士が姿を現した。

「領主は何処に居る?」

「ここから少し先に在る名城〝ロンドン塔〟でさぁ」

「……城か」

 またもや魔姫が、微かに邪笑を含んだ。

「今宵の宿には丁度いいかもな」

「ま~た嬉しそうに笑ってやがる。やめとけよ。各地から吸血鬼が集ってるんだぜ?」

「その程度で、この私が易々と考えを曲げるとでも思うかよ?」

「ああ、そりゃそうか」

 不遜な自信を示され、ゲデは呆気あっけなく納得した。

 可憐な容姿から思わせる印象に反し、彼女の意志の固さと自由奔放ぶりは折り紙付きだ。他人の意見に我道を左右された事など一度も無い。

 魔城目指してカリナが踏み出した直後、件の少年が彼女の足を呼び止めた。

「あ……あのさ」

「何だ?」

 無愛想に振り返る。

「確か〝カリナ〟って言ったっけ? オイラは〝リック〟って言うんだ」

「それで?」

 返す眼差まなざしは関心薄く冷ややかだ。

 注がれた温度差にも気付かず、少年は照れくさそうに紡ぐ。

「あ……ありがとう」

「…………」

 無言に見据えていたカリナだったが、ややあって手つかずの嗜好品を少年に投げ渡した。

「え? これ?」

「情報提供の報酬だ。柘榴ザクロ二つとはいえ、少しは腹の足しになるだろうよ。それから──」ついでとばかりに思い出し、喜々と死体に見入るゲデへと牽制の予防線を張っておく。「──そろそろ付いてくるなよ。今度こそ斬るぞ」

「あ、オイ! お嬢?」

 そう脅し残して、くろ外套マントとどこおる灰波へと呑まれ去った。

 徐々に霞んでいく影を、ゲデは「やれやれ」とばかりに見送る。

 本気を秘めた語気から取り付く島が無い事を悟り、それ以上は深追いするのをめとした。何よりも、下手に機嫌を損ねられた方が後々面倒だ。

「また改めて来ますァ……チクショーめ」

 少々落胆気味に呟くと怪紳士はクシャリと山高帽子を押し潰し、夜闇へと霧散むさんして消えた。



 静寂に返った路地裏で残されたのは、奇妙な一幕を体験した少年と無価値な死体──それだけである。

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