第4話
晩になると朝別れた翡翠が帰ってきた。それより少し前から、遠雷は台所に立って食事の支度をしていた。
「ただいま、雨上がってたよ。良かったー。あ、ただいま」
居間に入ってきた翡翠は、毎日の習慣なのだろう、台所に立つ遠雷にそう言った後、私の姿を見つけてそう言った。
「おかえりなさい、翡翠」
私は彼に、助けてくれたことへの礼を言って名乗った。
「へえ、ジェイドって言うんですね。読みが違うけど、同じ名前だ」
彼はそう言って、嬉しそうに笑った。
「体調はどうです? 病院には行きました?」
「いいえ、必要なかったので。行きませんでした」
翡翠は何か言いたそうな表情で私を、次に遠雷を見た。彼の視線に気づいた遠雷は、その場で黙って肩を竦めてから言った。
「話はあとだ。着替えて来いよ。メシにしよう」
私は遠雷と翡翠と共に、テーブルを囲んだ。私の前にも彼らと同じ食事と、フォークとナイフが置かれていた。
「箸の方がいいか?」と、自分は箸を使う遠雷が聞いたが、私は辞退した。
液体だけでなく固形の食事も、私は人間と同じように食べるふりをすることができた。彼らと同じように咀嚼し、口の中の機能で素材を分析し、調理法の是非を判断し、評価し、食事を楽しむふりをすることができる。遠雷の作った食事は、私の分析に依ればかなり高評価だった。それを告げると、遠雷は満足そうに缶入りのビールを呷った。
「そうだ、翡翠」と、缶を置いた遠雷が、翡翠を見る。
「明日のパーティーにジェイドも招待した」
「え」
翡翠はわずかに驚いた表情で私を見た。目が合うと、彼は笑った。
「遠雷が強引に誘ったんですか?」
「いいえ、違います」
「実は、ジェイドはちょっとわけありで」
私の言葉を引き取るように、遠雷が続けた。
「行くあてがないから、今夜も泊まってもらうつもりだ。その代わりに、明日のパーティーも手伝ってもらう。それで話がついたんだよな」
「その通りです。私も感謝してます」
「昨日、行きそびれたぶんの買い物にも行ってもらった」
私の言葉を引き取るように、遠雷が続けた。
「ああ、冷蔵庫、いっぱいだったね。遠雷は人使いが荒くて、ごめんなさい」
翡翠は納得していないようだったが、遠雷に合わせて話題を変えた。食事の間、彼らはたわいない話をして、そして蔑ろにしない程度に私にも話題を振った。昼の間一緒に過ごした遠雷が私のことを詳しく話さないせいか、翡翠も私のことをあれこれ詮索しなかった。私は彼らの話題に、適切な相づちを打っていれば良かった。私は自分の機能が、誰かのために正しく使われているのを感じた。
テーブルの下ではおやつをもらって満足した犬が、丸くなって寝ていた。翡翠は時々、足先で犬の毛並みを撫でている。
目の前で翡翠と遠雷が話している時にふと、私は思った。
まるで人間みたいだ。
こうしてふたりの生活の場に身を置き、ひとつの食卓を囲み、同じ
人間の中に混じって、こうした状況で過ごすことは、私に備わった機能のひとつだった。
だが、指示も命令もなく成り行きで、三十八時間前まではまったく情報のなかった、ふたりの人間とこうした状況に置かれるのは、初めてのことだった。それでも私は、自分の機能が正しく使われているのを感じた。私は欠陥品だけれども、すべてに不具合を起こしているわけではなく、こんな風にきちんと作用する機能も残っているのだ。
皿があらかた片づき、翡翠は食後のお茶を淹れてくれた。遠雷は二本目のビールを空けている。目の前で立ち上る紅茶の湯気を見つめていると、翡翠が私を見た。
「それで、ジェイドはどうしてあんなところに? 本当に怪我したり、熱を出したりしてないの?」
彼の質問は当然だった。私の中で昼間の遠雷との会話が別の言語で再生され、私はすぐに的確な答えが出てこない。遠雷を見ると、彼はわずかに目を細めて私を見て、
「俺から話してもいいか?」と、聞いた。
私が頷くと、遠雷は翡翠に視線を移す。
「実は、自殺しようと思っていたらしい」
「え」
翡翠が息を飲む。目を丸くして、私を見つめた。
「酒を飲んで酔っぱらって、そのまま入り江の海に身投げするつもりだったらしい。ただ、あの雨の中を酔ったまま歩いて行こうとしたから、途中で体力を奪われて、あの場に倒れて意識を失ったそうだ。そこに俺たちが通りがかって、あとはこの通り」
遠雷はにやりと笑うと、手の平で私を指した。翡翠の表情は固まったままだ。
「ご迷惑をかけてしまって」
私はすまなさそうな表情で、彼に向かって頭を下げる。
「からかってないよね」
「ジェイドが嘘をついてなけりゃな」
私と遠雷を交互に見た翡翠に、遠雷は肩を竦めてみせた。私は黙ったまま、翡翠を見つめる。彼は小さく溜め息を吐いた。
「これからどうするの?」
「パーティーが終わるまで、自殺は延期してもらった。さっきも言ったが、明日は準備も手伝ってもらう。いいだろ?」
私が頷くと、翡翠が戸惑ったような顔をする。私は彼に、そんな表情をしてほしくなかった。
「いいの?」
「翡翠のお許しが出れば」
「おれは、遠雷が言うならいいけど…」
「遠慮しないでください。迷惑をかけたくはありません」
「その後は?」
「まだ決めていません」
私はそう答えた。これからどうするか、その結果を探しても、私のデーターベースの中は真っ暗で、答えが出なかった。翡翠がまだ心配そうな表情だったので、私は彼に対して的確な、けれど事実となる私の行動を伝えた。
「ですが、海に入るのは止めるつもりです。予想外に、遠雷と翡翠に助けてもらいましたから。この辺りでなにかするのは止めます」
「それがいいよ」
翡翠は頷いて、少し無理をしたような笑顔を見せた。
夕食の後かたづけも手伝った。遠雷も翡翠もやらなくて良い、と言ったが、私はこうした人間のような行動で、自分の機能が正しく使われていることを実感した。それは久しく私の中に無かった感覚だった。
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