タクシー

あじろ けい

第1話

 その日は国外に出張の予定で、朝早い時間の飛行機に乗らないといけなかったんです。目覚まし時計をかけておいたんですが、起きたらタクシーに乗っていないといけない時間でした。「なんで起こしてくれなかったんだ」と妻をなじりながら、私は急いで仕度をしました。荷物だけ持って、最悪の場合、タクシーの車内で着替えればいい。


 タクシーは来ませんでした。予約がきちんと行われていなかったのか、来たものの夫婦喧嘩をしていて乗り損ねたか。


 妻を再びなじりながら、私はケータイを取り出しました。とにかく空港までの足を確保しなければ。


 スーツのポケットからケータイを取り出した時、パサリと玄関に落ちた物がありました。拾い上げてみるとそれは街でよく配られているポケットティッシュでした。差し出されたまま受け取ってポケットにつっこんでおいたものでしょう。ポケットティッシュの裏側には広告が入っていました。


 二十四時間いつでも迅速に対応。ご用命は2960まで。


 タクシー会社の広告でした。藁にもすがる思いで私は広告にあった電話番号にかけてみました。最初の呼び出し音が鳴り終わる前にオペレーターが出ました。私は急いで空港に向かわなければならない事情を話しました。自宅から空港まで少なくとも二時間はかかってしまう道のりです。タクシーを待っている時間にあまり余裕がないとも言い、できるだけ素早い配車をお願いしました。


 オペレーターとの電話を終えるなり、門の前にタクシーが到着しました。タクシー会社の仕事の早さに感心しつつ、パジャマ姿のままで私は車内に乗り込みました。


「こんな格好ですみません。寝坊してしまって。申し訳ないですが、車内で着替えさせてもらいます。どうしても乗らないといけない飛行機があるので、急いでもらっていいですか」

「ほうほう、それは災難ですね」


 タクシーの運転手は中年の男性でした。

 気を遣いながら、私は狭い車内でどうにかスーツに着替えました。するとどっと疲れが出てしまい、眠気も戻ってきてしまって、いつの間にか眠ってしまいました。


 気がつくと、タクシーは止まっていました。信号のせいにしては長すぎます。第一、高速道路に信号があるはずがありません。


 空港に着いたのかとはっと目を覚まし、とっさに窓の外に目をやりました。窓の外には止まっている車が見えました。運転手側も助手席側の窓の外にも車。前方の窓の外にも車、振り返ってみる後方の窓の外にも車。車、車、車。私が乗ったタクシ―は車に取り囲まれていました。渋滞にはまってしまったのです。


「今、どの辺りか、わかりますか?」


 時計を見ながら、私は運転手に尋ねました。出発予定時刻まで二時間を切っています。空港近くなら間に合うかもしれません。


「この先の料金所で何かあったみたいなんですよね。それで渋滞しちゃってる」


 運転手が告げた料金所は、自宅から空港までの道のりのちょうど中間にある場所でした。渋滞を抜け、どんなに急いだとしても空港まで一時間はかかってしまう。飛行機に間に合わない。


 この先にあるという料金所すら見えない。前方に延々と続くブレーキランプを睨みつけ、私は頭を抱えました。


「降りましょう」

 バックミラー越しに運転手がそう言いました。


「降りて歩いて行けってことですか? 渋滞を我慢して車で行った方が早く着きますって」

「違いますよ、高速を降りましょうって意味です」

「高速を降りるって、あなたねえ。一体、どこから降りるんです」

「出口からですよ。高速を降りて下道から行きましょう」

「いや、そんなこと言ったって、高速の出口は通り過ぎて――」


 はるか後方彼方に過ぎ去った出口を振り返ったその時でした。


 タクシーが急発進で逆走を始めたのです。


 渋滞の最後尾につこうとむかってくる車を次々と避けながら、タクシーは走ってきた道を戻って行きます。


 映画に出てくるカ―スタントみたいじゃないか。器用に車の間を縫って逆走する様子を後方の窓から眺めながら、私は興奮していました。後ろを向いて運転できるなんて、運転手の技術は大したものだと感心し、私は運転席を振り返りました。

 振り返った私の真正面に運転手の顔がありました。


 首から下は運転席を向いて両手はハンドルを操作しています。首だけを一八〇度回転させ、運転手は逆走する方向を向いて運転しているのでした。


 運転手と目が合った瞬間、私は「危ないですから、ちゃんと前を向いて運転してください」と叫んでいました。

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タクシー あじろ けい @ajiro_kei

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