夜戦の勝者
梅星
第1話
窓枠に仕切られた薄曇りの空が、規則正しく無表情に並んでいる。城内に差し込む昼下がりの日差しは、先日降った大雨の名残もあって頼りなげだ。そんな景色には目もくれず、ヴェズル・フェールニル第三騎士団長は城内を闊歩していた。彼女は誰もが振り返るほどの美貌の持ち主だったが、誰もが直視することを恐れるほどの冷徹な表情を常に浮かべている人物だった。
そんな圧倒的な近寄りがたさを放つ彼女に、そっと背後から忍び寄る者がいた。薄い絨毯の上を慎重に、かつ素早く進み、その両腕を伸ばして--
「わぁ、こんなところに素敵なおっぱいがあるぅ。顔を埋めて頬ずりして匂いを堪能してから眠りたーい」
「永遠の眠りになら、今すぐ導いてさしあげますよ」
凍える刃のような声音で言い放つも、ヴェズルはその不敬な腕を切り落とすことも、歩みを止めることもしなかった。先ほどと変わらず規則正しい歩幅で彼女は窓辺を歩き続ける。背後の人物は--なおもヴェズルの豊満な胸を鷲掴みにしながら、通路を引きずられていく。
「わざわざ私の乳を揉むためだけに、仕事の手を抜いて疲労を軽減させ、且つ睡眠時間を削り、城内の警備を買収して、ここで会議が終わるのを待ち伏せていたのですか?」
「うわぁ、棘しかない言い方ですねぇ。まぁ待ち伏せしてたのは本当ですけど、仕事をサボったりはしてませんよぉ? むしろ、すっごく良く働いたんで、その成果を報告に来たんです」
その言葉に、ヴェズルはようやく足を止めた。引きずられ続けていた人物は、ようやく胸から手を離し、彼女の目前に姿を現わす。
それは、小柄な少女に見えた。
ふわふわの髪と、眠たげながら大きな瞳が印象的な--それ以外はこれといって目立ったところのない、騎士団員にさえ見えないようなごく普通の少女である。
「じゃあさっそく報告するのでぇ、ちょっとおっぱい貸してもらえます?」
「……」
「そのむっちりたっぷりな隙間なら、私の報告を他人に聞かれることなく、余すことなくお伝えできますよぉ?」
「…………私の身体を道具として扱うだけの価値ある報告だと、期待して良いのですね?」
その言葉に、ロビン自身が思わず目を見開いた。冷血と呼ばれながらも常に気高く美しいヴェズルが、人目のないところとはいえ、このような譲歩を言葉にして見せることなどまず有り得ない。ロビンには、現在のアルバトロス共和国との戦況と、それを踏まえた先ほどの会議の内容が容易に想像できた。
「はい。貴方の部下を信じて下さい。ヴェズル・フェールニル第三騎士団長」
ヴェズルは冷徹な表情のまま、一つ頷く。それを見るや否やロビンは綱を解かれた子犬のようにヴェズルの胸へと飛び込んだ。薄い布地越しの温もりと、蕩けるように柔らかでいて確かな弾力で頬を包む感触、そして溢れ出るなんとも言えない良い香りを、顔面の全細胞で堪能し記憶に深く刻み込む。
彼女らは長いことそうしていたが--この間、小鳥のさえずりのように細やかな声で、確かに何かがもたらされた。それは、凍てついたヴェズルの瞳を初めて塗り替える、何かだった。
***
「フクロウ、ですか?」
上官の問いかけに、アルバトロス共和国第四師団団員カイト・ミルバスは鸚鵡返しに答えた。
第四師団の駐屯地である居城の一室に、彼は呼び出されていた。窓の外はぼんやりとした薄曇りで、昼間だというのに日差しは弱々しい。
「オプタリスク王国の第三騎士団が、先日西の国境を越えて我が国に侵略したわけだが……我々第四師団との交戦の末、現在前線は大きく後退。奴らが自国へと押し戻されるのも時間の問題だろう」
「はっ。全て師団長の采配のおかげであります」
彼の上官である第四師団長は、窓の外を見つめたままカイトの言葉を聞いていた。多大な犠牲を払いながらも結果として勝利を収めたという、大きな自信と誇りが、その声音には確かに馴染んでいる。それを心地良く感じながら、師団長は振り返った。
「現在、王国の第三騎士団は、国境沿いにある森に潜伏中との情報が入った」
「……先日の大雨の影響、でしょうか」
カイトの頭の回転の速さに、師団長は満足げに頷いた。
「国境の川が、先の大雨で増水しているため渡るのを諦めたようだ。森を抜けて川の上流まで行き、北の隣国の国境付近まで逃げるつもりらしい」
カイトはその情報に息を呑みながらも、急速に頭の中で仮説を立てていく。無論戦場で指揮など取ったことはないが、彼はこの思考力で、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた。
「師団長、これはまたとない好機です! 地の利は我々にある! 今、第三騎士団を潰せば、西の国境付近の土地を完全に取り戻せるかもしれません!」
頬を紅潮させて叫ぶカイトに、師団長は固い表情を崩さない。それは、まだ明かされていない、そして状況を大きく左右する重要な何かがあることを示していた。
「……伝令が別の戦線に巻き込まれてな。この情報はつい今しがた届いたのだ」
「そ、それでは……!」
「第三騎士団は既に、北の隣国にあと一歩というところまで迫っている。2日もすれば逃げおおせてしまうだろう」
あまりの展開に、カイトは俯き唇を噛みしめる。第四師団は、その森に最も近いところにいる。2日もあればギリギリ間に合うはずだが、先の戦いで彼らもかなりの戦力を失っていた。今から別の師団から兵を掻き集めていては、到底間に合わないだろう。
すぐそばにあったはずの好機。それを失ったのは偶然か必然かーーカイトがそんなどうしようもない思いに囚われかけた時だった。
「そこで、フクロウだ」
力強く放たれた言葉に、カイトは顔を上げた。そこにいるのは、彼を勝利に導いた指揮官であり、勇猛な戦士だった。その目はまだ、光を失ってはいない。
「現在、師団学校では、若者の専門科戦闘に力を入れている。その中でも特に優秀なのが、夜戦専門部隊、通称フクロウだ。彼らは夜戦におけるあらゆる事態を想定した訓練を受けている。そして今、まさに我々第四師団のすぐそばで演習しているところだとの情報が入った」
そして師団長は、ゆっくりとした足取りでカイトに近づくと、彼の肩に手を置いた。
「フクロウの指揮はお前が取れ。カイト・ミルバス」
「……!」
すぐ間近でみる師団長の顔には、無数の傷跡と皺が深く刻み込まれていた。しかしカイトの肩に置かれた手は、焼けた鉄のように熱を放ち、ずしりと体に響くほどの重みを伝えている。カイトは、顔と同じように傷跡と皺の刻まれた師団長の手を、そして、つい先日までもう片方の手があったはずの、今は空っぽの服の袖を見た。
「カイト・ミルバス。謹んで拝命致します」
堂々と胸を張る若者の姿に、師団長は力強く頷いた。
***
突然顔に浴びせられた生温い何かに、カイトは意識を引き戻された。目を開けようとしたが、滑る何かが瞼を塞いしまっている。
「おや、気がつきましたか」
怜悧でありながら艶やかな声がやおら響き、彼の瞼を布地が拭う。そして、ようやく現れた目の前の光景はーー地獄だった。
木々の隙間を埋めるように転がる夥しい数の死体が、篝火に照らされている。ぬらりと光る赤黒い血溜まりがあちこちに出来ており、足の踏み場もないほどだ。その無残な肉塊が、彼が率いていた夜戦専門部隊、フクロウであることは、最早疑いようがなかった。何故なら目の前の人物の存在そのものが、彼らの敗戦を如実に物語っていたからだ。
「ヴェズル・フェールニル……!」
「おや、急拵えの部隊長にも名が知れているとは。私も出世したものですね」
淡い金髪を夜風になびかせながら、オプタリスク王国第三騎士団長ヴェズル・フェールニルは無表情に呟いた。
「何故だっ……! 貴様らは我々が制圧したはず……」
「あなた方は、暗闇での同士討ちを避けるために、味方だと一目でわかる目印を付けていましたね」
ヴェズルの手には、赤く汚れた白布が握られている。それは先程、カイトの目にかかった、赤い血飛沫を拭ったもので--
「まさか……!」
「察しが良いのですね。あなた方が夜戦に際して、目印として白い布を腕に巻いていることはわかっていました。そこで、迎え撃つにあたり捕虜--あぁ、あらかじめこの森に基地を設けて、そこに預けていたものです。それらの喉を潰した上で、赤い布を身に付けさせて敵を装い、森の中に配置させました。逃げられないように胴体を縄で縛り、枝に括り付けるのはなかなか骨が折れましたが……。そこへ現れたあなた方は、味方とは知らずに彼らを攻撃した。そして制圧したと判断して灯りをつけたところを、我々が取り囲み--」
「ち、ちょっと待て! 何故我々が白い布を用いると知っていた!? そもそもそんな、初めから夜戦を想定していたかのような準備など、いったいいつ--」
カイトには目もくれず、残存兵がいないか確認する部下を見やりながら、ヴェズルは淡く微笑んだ。
「フクロウ、と言いましたか。今回貴方が指揮した部隊は。奇遇ですね。私にも一人、梟という名の部下がいるのです。フクロウは、優れた視覚と聴覚で敵の正確な情報を割り出すそうですね。私の部下は、天気予測から師団長の気質、数年前の専門部隊の噂まで……取り留めのない情報のように思えて、その実組み合わせれば無数の作戦を紡ぎ出す、重要な鍵となる情報をもたらしてくれます。頭の回転が速いわけではありませんが、その分浅薄な判断とは無縁。一見無関係に思える膨大なデータこそが、あらゆる状況をひっくり返す切り札となります。まぁ、それをどう生かすかは、私次第というわけですが」
そう言って、ふいにヴェズルはカイトの首根っこを掴み、引きずりながら歩き出した。彼は、彼の初めての部下の変わり果てた姿の上を、物のように運ばれていく。
「そうそう、あの子が梟と呼ばれているのにはもう一つ理由があるのです。外国では、梟という字には、晒し首という意味があるそうで。楽しませてあげて下さいね」
夜戦の勝者 梅星 @umehoshi
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