プロトゴノスの決断

猫柳蝉丸

本編

「それで、お姉ちゃんと子供を作る決心はついたの?」

 秋の夕暮れに紅く照らされて逆光に表情を隠しながら、輝が何でもない事みたいに口にした。確かに何でもない事ではあるけれど、教室内に級友が何人か残っている状況で、その話題に触れるのはちょっと勘弁してほしかった。

 ぼくは輝に気取られないように、視線だけで教室を見回してみる。

 野村さんと鈴川さんが他愛もなく雑談を続けている。金田君と中山君が日常茶飯事みたいに接吻を繰り返している。気難しい表情で斎藤君が文庫本を読んでいる。榊先生が教壇で端末装置に視線を落としている。

 よかった、どれもぼくの学級の放課後の風物詩だ。

 級友の皆は特にぼくたちに注目はしていないらしい。

「ちょっと、ちゃんと聞いてるの聖?」

 ぼくが密かに胸を撫で下ろしてる事に気付きもしないで、輝は相変わらずの水色の瞳でぼくの顔を覗き込んでくる。顔を近付けるのは別に構わないけれど、ぼくの席に身を乗り出すのはやめてほしい。この前もそれで二人して椅子ごと後ろに倒れちゃったばかりじゃないか。

 だからといって、それを輝に指摘する度胸はぼくにはない。

「聞いてる、分かってるよ、輝。ぼくだって子供の事はそろそろどうにかしないとってちゃんと考えてるよ」

「ううん、分かってないね」

 取りつく島も無い。

 瞳の色とは微妙に違う空色のおさげを大きく横に振ってから輝が続ける。

「知ってる? この学級で愛人の一人も作ってないのは聖くらいだって」

「それは知ってるけど……」

「知ってるんなら、少しは面倒臭がらずに危機感くらい持ちなさいよ」

 嘆息しながら輝がこぼす。

 わざとらしく肩まで竦めてるのがちょっと腹立たしい。学年だって違うのに、どうして輝はぼくの学級の級友について詳しいんだろう。わざわざ聞き込みとかして、ぼくの身辺調査でもしてるんだろうか。

 そのぼくの疑問に気づいたらしい。輝が人差し指を立てて不敵な表情を浮かべた。

「もう、電子掲示板くらいみなさいよ。この学級で掲示板に愛人募集の告知をしてないのって聖くらいなんだからね。そこまで愛人契約に無頓着だと、腹が立つのを通り越して心配も通り越してもう一度腹が立ってくるじゃないの」

 器用に腹が立たれても困る。面倒臭いけれど、ぼくだってぼくなりに色々と考えてるんだ。それがまだ結果には結びついてないだけで。

「でも、聖」

 一転、輝が優しそうな表情を浮かべた。気がした。

 夕焼けの逆光の中だから、ぼくの気のせいかもしれないけれど。

「今は愛人がいないにしても、誰かに愛人にならないかって誘われた事くらいは何回かあるんでしょ? 例えば同じ学級の猫野さんとか」

 驚いた。愛人契約の話は輝にはまだ相談した事がなかったはずなのに。

 ぼくの表情に満足したみたいに輝が微笑んだ。今度はぼくの気のせいじゃなかった。

「分かるって、聖の事だからね。毎日顔を合わせてるんだから、聖に何かあった時はさすがに気付くわよ。今日、誰かに愛人契約の話をされたんだな、って事くらいはね。それを態度に出すほど野暮じゃないわよ。ちなみに猫野さんが相手って思ったのは、その日にちょうど聖が猫野さんと遊びに行くって言ってたからだけど」

「そうだったんだ」

「聖が面倒臭がりで愛人にまだ興味が湧かないのは仕方ないけどね、それも人それぞれなんだし。だけど、聖、あんた今何年生になった自分で分かってるの?」

「おかげさまで十年生に進級しました」

「そう。ついでに言うと十六歳ね。子供の一人くらい作っていてもおかしくない年齢よ」

「それを言うなら輝だってまだ子供を作ってないじゃないか」

「そうね、でも愛人は七人作ってるわよ。その中から子供を作る相手を選んでもいいとも考えてる。子供を作って育てていくのは生き物として当然の義務だもの。他の義務はともかくとしても、それだけは絶対に果たさなくちゃいけない義務なの。聖だってそれは分かってるでしょ?」

「……分かってるよ」

 さっきの『分かってる』とは違って、今回の『分かってる』は本音だった。

 そう、頭では分かってるんだ。子供を作る事が生き物としての義務だって事も。輝がぼくを本気で心配してくれてる事も。本気で心配してくれているからこそ、わざわざ違う学年からぼくの学級まで足を運んでくれている事も。

 けれど。

「聖が赤の他人と子供を作るのに抵抗があるのも分かるのよ」

 優しい声色で囁きながら、輝がぼくの頭に手のひらを置いた。

「育ってきた家庭の環境が違うもんね。どんなに親しくなったって、他人は他人だもの。ちょっとした事ですれ違って、決定的な考え方の違いに傷付けられる事もないとは言い切れない。だから、ずっと言ってるじゃない。聖がお姉ちゃんと子供を作る事を決心さえすれば、安心できるんじゃないかって。お姉ちゃんとなら血の繋がった姉弟なんだし、家庭の環境の違い、考え方の違いは他人との結婚ほど気にしなくてもよくなるわ。それなら聖も、子供を作るっていう生き物としての義務を果たせるしね。全然悪くない、ううん、とってもいい提案だと思わない?」

 姉弟で子供を作る。

 輝の言う通り、それはきっと魅力的な提案なんだろう。

 ぼくは不意に思い立って、学級で飼育している亀の水槽の前、野村さんと雑談している鈴川さんに視線を向てけみる。

 鈴川るい子さん。

 緑色のひっつめ髪と釣り目っぽい表情が印象的ではあるけれど、級友の中では大人しい性格の女子生徒。銀髪で活発な性格の野村さんとは正反対に見えるけれど、意外に気が合うみたいで放課後にはこうして談笑している。ぼくも鈴川さんとは何度か会話した事はあるけれど、その鈴の音みたいな声色に好感を持った事はよく憶えている。

 二ヶ月前、朝礼の前に榊先生に呼ばれて教壇の横に立った鈴川さんは、お兄さんと結婚した事を発表した。子供を作るのはまだ先の予定だけれど、籍だけ入れておく事にしたらしい。級友たちは喝采で祝福していたし、ぼくも拍手で鈴川さんの未来を応援した。その幸せそうな表情を見ていると、羨ましくなったくらいだ。

 ぼくも鈴川さんに倣うべきなんだろうか。

 噂では近親間で子供を作る時には受精卵の調整の難易度が多少増すみたいだけど、受精卵の調整くらいなら非血縁の子供にも行われている事だ。少しくらい割り増し料金を取られたって、赤の他人と子供を作るよりはきっと面倒が少ないはずなんだ。

「姉弟で子供を作るって選択肢を考えなかったわけじゃないんだ」

 絞り出すみたいに、ぼくはどうにか言葉を出した。

「それが一番いいんだろうって何度も考えたよ。輝の言う通りいい提案だとも思う。だけど、頭では分かってても何かが違う気がしてるんだ。そうなんだよ、ぼくが本当に子供を作りたい相手は……」

 輝の水色の瞳を見つめているといつも吸い込まれそうになる。今よりもずっと小さな頃からぼくを見つめ続けてくれていた瞳。その瞳はいつも、ぼくが決断しようと思っている事を本当に伝えていいのか不安にさせる。伝えなくちゃいけない事は心の奥底から分かっているけれど、それでも。

 ぼくの決断を伝える事はできなかった。唐突にぼくの肩が誰かに叩かれたからだ。

「お話し中すまないね」

 ぼくは思わず身体が硬直するのを感じた。

 驚いたのは輝も同じだったらしい。滅多に見せないくらい目を丸くさせて、動きがぎこちなくなっている。この様子だと突然の来客の相手は任せられそうにない。ぼくは小さく深呼吸してから、意を決して自分の肩先に視線を向けた。

「驚かせたようで申し訳ない。君たちの会話が耳に入ってしまってね」

 若干固過ぎる気がしないでもない口調と声色にぼくは落ち着きを取り戻した。何て事はない。ぼくの肩を叩いたのは、さっきまで自席で読書していたはずの斎藤君だった。ぼくたちの声が大きかったのだろうか。こちらこそ申し訳ない気分で頭を下げると、斎藤君は自らの首筋に手を当てて微笑んでくれた。

「会話の邪魔をしてしまったね、田中君、御子柴さん。しかし、いくつか伝えておかねばならない事があるんだよ」

 あくまで紳士的な態度を崩さない斎藤君。正直な話、ぼくはそんな斎藤君の事には好感を持っている。ぼくと斎藤君の髪の色が、この学級どころか学校でも珍しい黒髪だって事も影響しているかもしれない。

 母さんに前に聞いた話だけど、ぼくたちが生まれた頃に流行した劇作の影響でぼくたちの世代では黒髪の子供が激減してしまったらしい。どうやらその劇作の黒髪の悪役の印象があまりにも悪かったかららしいけれど、よくは知らないし別にどうでもいい事だ。どちらにしろそれは単なる一過性の流行だったわけだし、今を生きるぼくたちにはあまり関係ない事なんだから。

 眼鏡の黒縁の位置を人差し指で直し、斎藤君がぼくの耳元に唇を寄せる。

「先刻、猫野瞳の話をしていたようだけれど」

 してたかな? 一瞬、ぼくは首を捻った。それくらい印象に残っていなかった。

 いや、したか。

 輝がぼくの愛人契約の話をした時に、猫野さんの名前を確かに出していた。輝の想像通り、ぼくは猫野さんから愛人契約を持ちかけられた。だけど、それだけの話だ。猫野さんは明るい性格を突き抜けて騒がしい性格と称してもいいくらいだけど、ぼくはそんな猫野さんが嫌いじゃない。そもそも嫌いなら猫野さんとわざわざ郊外の遊園地まで足を運んだりしない。実際、猫野さんと遊んだ遊園地は楽しかった。ただ愛人にしてほしいほどじゃなかったってだけなんだ。猫野さんにしたって、ぼくに愛人がいる様子がなかったから誘っただけだと笑っていた。

 猫野さんは桃色の髪を二つ結びにして黒縁の眼鏡を掛け、金色の右眼、赤色の左眼を持つ虹彩異色であり、競泳水着型に褐色に焼けた肌を持ちながら化学部に所属する勝気な性格という属性過多の女子生徒ではあるけれど、決して悪い人間じゃなかったし、たまにぼくにも見せてくれる表情は優しかった。ぼくみたいな面倒臭がりの他人の話す事すら苦にしない、面倒見のいい性格の級友なんだと思う。

「猫野に愛人になれと言われたのかい?」

 囁くように小さく斎藤君が続ける。

 どうして斎藤君が囁くみたいに喋るのか分からないけど、ぼくもつられて声を潜めた。

「あ、うん、前に遊びに行った時に誘ってくれたんだよ。でも、きっとぼくと猫野さんじゃ合わないだろうと思って断ったんだけどね。別に猫野さんの事が嫌いってわけじゃないから、そこは安心してほしいんだけど」

「賢明だ」

 そう囁いた斎藤君の表情が安心した様子に見えたのは気のせいだったのだろうか。夕焼けの逆光で眼鏡が輝いてよく分からない。

 そして。

「猫野瞳、彼女は思想警察なんだ」

 斎藤君はその表情以上にもっとよく分からない事を口にした。


     ○


「付き合わせてしまってすまない」

「いや、それは別に構わないんだけど……」

 ぼくたちの学校の隣に位置する山、と言うよりはぼくの学校自体が山中にあるから隣に位置する峰と称するべきか。とにかくぼくと輝は斎藤君に連れられて小振りな木造の小屋に訪れていた。斎藤君としてはぼくとだけ話したかった様子だったけれど、輝がぼくの首筋を掴んで離さなかったから仕方なく連れて来る事にしたみたいだった。

 道中、斎藤君に聞いた話によると、この小屋は斎藤家が所有している物置小屋らしい。木造だから年代物に見えなくもなかったけれど、その内部は意外に片付いていて爽やかな空気が漂っていた。ひょっとしたら秘密基地みたいに使うために、斎藤君自身がよく訪れて片付けているのかもしれない。

「構わなくないわよ」

 ぼくの心中とは裏腹に輝はおかんむりらしい。

 輝の立場で考えると、大切な話を斎藤君に中断させられた形になるわけだから無理もないか。輝には悪いけれどぼくとしては助かった気分でもある。輝がぼくの事を考えてくれているのは分かるけれど、ぼくの決断した事を今の輝に正直に伝えても簡単に分かってもらえるとはとても思えない。

「どういう事よ、猫野さんが思想警察だって。そもそも何よ、思想警察って」

「その名の通り、思想を取り締まる警察機構の事ですよ。もちろん比喩としてではありますが。彼女は若年ですからね。公的権力に所属するにはいささか若年過ぎる。しかし、思想を取り締まろうとする勢力である事に変わりはありません。それほどまでに現代日本の思想に忠実な輩と言えるのですよ、彼女は」

 輝には敬語なんだな、とぼくは何となく場違いな事を考えていた。斎藤君よりも輝の方が年上なんだから、当たり前と言ったら当たり前なのかもしれないけれど。ぼくがそんな場違いな事を考えてしまうのは、斎藤君の言葉に現実味がないからかもしれない。

 思想警察。

 言葉としては聞いた事がある。ぼくが愛読している漫画でも何度か題材として扱われていた記憶がある。自らの権力の思想と異なる勢力の人間の思想を矯正するために暗躍する悪役。ぼくにとっての思想警察の印象はその程度のものだった。

 猫野さんがその思想警察?

 比喩としてとは斎藤君も言っているけれど、全く実感が湧かなかった。だってあの猫野さんじゃないか。騒がしくて元気で愛人も大勢作っていて属性過多だけれど、それでも一緒に遊んでいて楽しかったし、その面倒見の良さに助けられた事だって何度もある。思想警察と猫野さんがどうしても結びつかなかった。

 ぼくの釈然としない表情に気付いたんだろう。斎藤君が小屋に転がっていた丸太に腰を下ろしてゆっくりと口を開いた。輝の事はとりあえず無視するみたいだった。

「古臭い小屋ですまないね。しかしこの小屋なら少なくとも盗聴される心配はない。前に検知器で詳しく調査したからね。逆に言うと田中君、教室ではあまりああいった話をすべきではないよ」

「ああいった話って?」

「田中君が姉弟での婚姻にあまり積極的ではないという話さ」

 よく聞いてるんだな、と思った。そんなにぼくたちの声が大きかったんだろうか。それとも斎藤君が、ぼくの思想の危うさを前から注意深く監視していたって事なんだろうか。まあ、それは後々分かる事だろう。

「何よ、盗聴って。そもそも私と聖がしてた話じゃない。第三者のあんたに入ってきてほしくないわ。そりゃ聖が姉弟で子供を作る事に二の足を踏んでるのは、私だって分かってるわよ。でも聖の未来の事を考えるとその方が絶対にいいの」

 斎藤君は輝を一瞥してから、ぼくにだけ伝えるみたいに優しく言った。

「学校は盗聴されている。公的機関だからね。いいや、学校だけでなくほぼどこでも盗聴されていると考えた方がいいだろう。こんな山の中の小屋でもない限りね。それはそれで僕は構わないし君たちも構わないだろう? この社会の思想に則って生活する限り、思想警察の連中も僕たちをどうこうするつもりはないだろうからね。僕たちだって盗聴されて困る話をしているわけじゃない。しかし、僕たちの考えが思想警察の意にそぐわなくなった時、彼らは僕たちに容赦なく牙を剥くのさ」

「姉弟で子供を作る事に乗り気じゃないのが、そんなに危険な事なの?」

「危険だよ、それこそこの国の根幹を揺るがしかねない危険思想だ」

「じゃああんたは聖が姉弟で子供を作る事に賛成なのね。それなら私たちの間に割り込まなくても結構よ。聖は私がじっくりと説得してあげるから」

 見るからに苛立った様子で輝が吐き捨てる。おさげを頻りに指先で弄っているのが苛立っている証拠だ。この前、輝がおさげを指先で弄った直後に腕ひしぎを極められたぼくには分かる。ぼくだからこそ分かる。

 輝の言葉に苦笑みたいな表情を浮かべた斎藤君が丸太から腰を上げる。

 小屋の窓の付近まで歩を進めてから、夕焼けの逆光に照らされて眼鏡を輝かせた。ひょっとしたら逆光に照らされるのが趣味なのかもしれない。

「逆ですよ、御子柴さん。僕は田中君の気持ちを尊重したいと考えています。田中君の素直な感じ方こそ、この社会に残された唯一の良心と言っていいのだから。尊いんですよ、田中君の様な感じ方は」

「支離滅裂じゃない。あんたはどうしたいのよ?」

「僕は単純に田中君の尊さと危うさを伝えたいと思っただけですよ。僕は、そう、現代のこの国の思想には否定的なんです。姉弟で、いや、近親間で子を成すなんて明らかに生物的に間違っているんですよ」

「それこそあんたの言う危険思想ってやつじゃないの」

「そうですね、僕は自らがこの国にとっての危険思想を抱いている事を自覚しています。思想警察に目を付けられたら矯正機関に送り込まれるだろう事も。だからこそ、僕と似た思想を持っている田中君を放っておけなかったんですよ」

 参ったなあ、とぼくは自分の頭を掻いた。正直言うと、そこまで頑なな信念を持って姉弟で子供を作る事を否定したいわけじゃない。単に家族と更に深い関係になる必要性が感じられなかっただけだ。

 それでも斎藤君の言葉には一理あるとも感じていた。もし本当に漫画みたいな思想警察がこの国に実在していたとしたら、ぼくみたいに気乗りしない人間がいるだけでも目障りには違いない。矯正機関に送りたくもなるだろう。

「ねえ、斎藤君」

 斎藤君がこれからどんな話に発展させようとしているのかはまだ分からない。

 だから、ぼくはまず訊きたい事だけ先に訊いておこうと思った。

「猫野さんが思想警察……みたいなものだって話は本当なの?」

「この国の価値観に最も忠実な人間だというのが正確なところだけれどね。それは裏返せば、この国の思想や価値観にそぐわない人間を排斥する事に躊躇いがないって事でもあるだろう? その意味ではこの国に住む人間のほとんどは思想警察予備軍と称しても差し支えないはずだ。予備軍って呼び方は多少言い過ぎとしてもね」

 なるほど。思想警察の実在はともかく、猫野さんがこの国の価値観に忠実だって話はぼくにも納得できる。属性過多なのは置いておくとして、愛人が一人もいないぼくなんかよりはずっとこの国の価値観の模範だって思える。

 猫野さんには十九人の愛人がいる。

 この前、ぼくを愛人契約に誘う時にそう言っていたから、間違いないと思う。愛人の内訳は男性が九人で女性が十人らしい。それで男女の数合わせのために、ぼくを新しい愛人に誘ってくれたというのが本当のところなんだろう。別に悪い気はしない。十年生になっても、愛人の一人も作ろうとしないぼくの事を気にしてくれていたのも確かだろうしね。

 猫野さんは鈴川さんを祝福していた。兄妹間の結婚に特に抵抗はないみたいだ。

 それは極普通の事だった。最近の近親間での婚姻は全体の二割を超えているらしいし、更に言えばぼくの両親だって元々血縁の父と娘の関係だった。お祖父ちゃんと父さんが同一人物だって事実は、子供の頃のぼくにはちょっと紛らわしかったけれど、今となってはもう慣れた。お年玉をくれる人が少なくなってしまうのが難点ってだけだ。そんなぼくの過去を話題にしてみた時、猫野さんは屈託もなく笑ってぼくの頭を撫でてくれた。大変だったね、という意味だったんだろう。

 そう、猫野さんには屈託がない。屈託なくこの国の思想を受け入れているんだ。

「猫野が前に教室で苦笑していたのを目にしたよ」

 ぼくが納得して頷いたのを見届けてから、斎藤君が続けた。

「『愛人契約を断られたのなんて初めてだった』とね。それはそうだ。僕だって愛人契約を断った前例なんてほとんど見た事がない。猫野はそれほど気にしていない素振りだったけれど、猫野の周囲の人間もそうとは限らない。だからこそ、かなり前から危ういと思って田中君の事を観察させてもらっていたんだ。事後報告になってしまってすまないね」

「謝る必要なんてないよ、斎藤君。気にしてくれてありがとう」

 心の底からの言葉を伝えると、斎藤君はぼくから視線を逸らした。頬が赤く染まっているように見えるのは夕焼けに照らされているからだけじゃないはずだ。もちろんそれを口に出すほどぼくも無神経じゃない。それにしても。

「言われてみると、ぼくって危険な橋を渡ってたんだなあ」

 我ながら他人事みたいに呟いてしまう。斎藤君に指摘されるまで、自分の言動が危ういなんて気付きもしなかった。自分としては単に愛人契約と性交渉に関して面倒臭がりであるだけのつもりだったんだけどね。

 不意に気配を感じて視線を向けてみると、輝が不機嫌そうにおさげを弄っていた。

 ぼくはそれに気付かなかった事にして、斎藤君に話題を振り直す。

「そういえば斎藤君には愛人が何人いるの? 学級でそういう話をした事ないよね?」

「さ、三人ほどいるよ。不本意だけれど思想警察に目を付けられないためにね……」

 よっぽど不本意なんだろう。斎藤君の苦々しげな様子なんて初めて見た。

 でも、失礼かもしれないけれど、ぼくは斎藤君のその様子が嬉しかった。ぼく以外にも愛人を作りたくない人がいるんだって事が分かったから。愛人なんてそこまで作りたくないよね、時間も取られるし、漫画を買うお金だって削られるし。

「とにかくこの国の思想は誤っているんだよ、田中君」

 話は軌道修正されたらしい。

 今は斎藤君の言葉にもう一度耳を傾ける事にしよう。

「近親間の婚姻だけの問題ではない。例えば今話している愛人契約の問題だ。田中君は知っているかい? つい数十年までこの国では一夫一婦制が採用されていた事を。今みたいに際限なく多数の婚姻関係を結ぶ行為は結婚を重ねる罪、重婚罪として裁かれていたんだよ。そして、一夫一婦制だけじゃない。愛人を数名持つ事すら好ましくないと考えられていたんだ。性交渉を持つのはごく限られた相手に絞るべきだとね。それら全て現代のこの国の思想ではそれこそ考えられない、疑問を持つ事すら許されない事だ」

 さすがは斎藤君だ。時宗って古風な名前を持つだけあって、歴史に詳しいらしい。そういえば教室で読んでいたのも歴史に関する文献が多かった気もする。歴史を学んでいく内にこの国の歪さに気付いたに違いない。

 実を言うと。

 愛読している漫画の題材になっていたから一夫一婦制の事は知っていたけれど、初耳だったふりをして感心した表情を斎藤君に向ける事にした。こんなところで斎藤君の話の腰を折る必要もないじゃないか。

「そうなんだ、知らなかったよ。昔は愛人を作る事自体が珍しかったんだね」

「昔の話は昔の話じゃない」

 せっかくぼくが珍しく気を遣ったのに、不機嫌な輝の言葉が台無しにしてしまった。ぼくが胸の内で苦々しく思っている事に気付きもしないで、輝はおさげを指先で弄りながら斎藤君に詰め寄っていった。

「私は悪くないと思ってるわよ、愛人が何人いたって、結婚相手が何人いたって。性交渉の相手を絞るなんて、全然効率的じゃないじゃないの。気に入った相手とは誰とでも性交渉を結んで、身体の相性をしっかり確かめておくべきでしょ? そうしておいて完璧な相性の相手との子供を作る。他にふさわしい相手がいるようなら、その人とも結婚して新しい子供を作り続ける。今の方が昔よりずっと合理的だと思うわ」

「それが現代の病理だと僕は思っているんですよ、御子柴さん。なるほど、身体の相性を確かめるのは悪くないかもしれない。性交渉の嗜好の不一致で破局する婚姻関係は枚挙に暇がないくらいですからね。子供を増やすためには誰とでも婚姻できるようにするのが効率いい事は僕にも否定できません。しかし、この国ではその理念があまりにも拡大解釈され過ぎであるとは思いませんか?」

「何よ、拡大解釈って」

「そうですね、例えば……。そうだ、知っていますか、御子柴さん。ぼくと田中君の級友に山本翼君という風紀委員を務めている真面目な生徒がいるんですけれど」

「山本君? ああ、あの深緑の毬藻みたいな髪型の男子ね」

 ひどい例えだなあ。

 まあ、ぼくも山本君の髪型をそう思わなくもないんだけど。

「その山本君ですが最近結婚したんですよ。彼のお相手、どんな人だと思いますか?」

「そこまで聖の学級に詳しくないわよ。非実在青少年とでも結婚したの?」

「それもこの国で認められている病理の一つではありますが、身体の相性の話題とはずれてしまいますね。それでは、山本君の結婚相手をお教えしましょう。山本君の家の近所に住んでいた五歳の女の子なんです」

 輝の表情が軽く歪んだのをぼくは見逃さなかった。

 かく言うぼくも、五歳の女の子と結婚する山本君はどうかと思わざるを得なかった。

 最近、妙に楽しそうだと思っていたらそんな事になっていたのか、山本君。鈴川さんとは対照的に朝礼前で発表してくれないから全然気付かなかった。結婚した事を発表するもしないも個人の自由ではあるんだけど。

「それって大丈夫なの? いや、法律で認められている事ではあるけど……」

 同じ女性の立場で考えてしまったんだろう。輝が心配そうに呟いた。

「性交渉とか無理でしょ、さすがに。五歳じゃ子供を作るのだって無理なんじゃない?」

「僕にとっては残念と言うべきでしょうか、それは心配ないみたいですよ。山本君夫妻が性交渉を行うのは、電脳空間のみに留めているらしいです。よりよい性交渉が行える電脳空間がないか、山本君が級友に相談しているのを前に耳にしましたよ」

「仮想空間での電子性交ね、それなら私も子供の頃から経験していたから安心ね。さすがに五歳から経験するほど早熟じゃなかったけど」

「それと子供を作る予定もしばらくはないようですが、いざとなったら人工授精で受精卵を調整した後に山本君の人工子宮に着床させるのではないでしょうか。最近は増えているみたいですしね」

「そっか、山本君が出産すればそれも問題なかったわね」

「人工子宮と人工膣の手術は多少お値段が張るようですが、そのくらいの出費は覚悟の上でしょう。噂では山本君の方に妊娠願望もあるみたいですしね。ああ見えて山本君は甲斐性と包容力に満ち溢れた自慢の級友なんですよ」

 ああ見えて……、毬藻みたいに見えて。という意味なのかな。

 いやいや、それは置いといて。

「山本君が出産すれば問題ないとしてもだよ?」

 ぼくは山本君の毬藻が頭に浮かぶのをどうにか振り払いながら言った。

「やっぱり五歳の女の子と結婚するのはちょっと早過ぎるんじゃないかな」

「そうよね、法律で認められてるとは言ってもね、ちょっとね」

「せめて八歳からだよね」

「そうね、八歳くらいなら問題ないわね」

 ぼくと輝が頷き合っていると、呆れた様子で斎藤君が頭を抱えていた。

「五歳も八歳も大差ないだろう、田中君、御子柴さん。その年齢での結婚を認められる時点でこの国の思想に毒されていると言っているんだよ、僕は。この国での婚姻可能年齢はせめて十二歳までは引き上げるべきだ。これだけは絶対に譲れない。山本君夫妻が幸福そうなのは不幸中の幸いではあるけれど、彼女が十二歳であればもっと問題なく幸福になれたはずなんだ」

 十二歳だとかなり遅い気もするけれど、斎藤君が主張するのならそうなんだろう。

「ともあれ、これが拡大解釈の一例なんですよ、御子柴さん。この国は人口減少を問題視して子供を作る事に注意を向け、誰とでも婚姻関係を結べるようにした結果、肝心要の人間の心の問題を無視するようになってしまったのではないでしょうか。近親間や同性間、歳の差がある婚姻などを排斥していた過去の反省もあるのでしょう。しかし、その反省こそが、近親婚を行いたくないという人間に対して別の排斥を生んでいるのではないでしょうか。僕にはそう思えてならないんです」

 斎藤君の主張はいよいよ熱を帯びてきたようだった。山本君の結婚を語る事で輝に少なからずこの国に疑問を持たせた事実が、斎藤君を勢い付かせたんだろう。輝もさっきより斎藤君の言葉に耳を傾けるようになった気がする。

 一方、ぼくは宵闇に変わりつつある夕焼けを見つめていた。

 いつ終わるんだろう、これ。

 個人端末の埋め込まれた右手の人差し指をこっそり自分の首筋に触れさせると、「現在、十一月七日、午後五時五分です」という電子音声を耳小骨電導で聞き取れた。そっか、もうこんな時間なのか……。

 思想警察の事を教えてくれた斎藤君には、もちろん感謝している。ぼくの将来の事を心配して姉弟で子供を作る事を勧めてくれる輝にも、頭が上がらない気持ちはある。それでもどうしても余計なお世話じゃないかって考えが頭をもたげてしまう。

 例えば本当に思想警察が存在するとして、ぼくにやれるのは注意深く生きる事だけじゃないか。斎藤君の言う通り、ぼくの考えの中にはこの国にとって多少の危険思想を帯びているのかもしれない。だけど、それだけだ。危険視されるかもしれないと知った以上、近親間の結婚について疑問を呈する事なんてぼくは二度としない。思想に少なからず納得できないからって、この国自体を革命しようと決断する程でもない。

 そもそもぼくはこの国の思想が嫌いなわけじゃない。しようと思えば何十歳の年の差があろうと、血縁だろうと、同性だろうと、異性だろうと、非実在青年だろうと、動物だろうと、無機物だろうと結婚できる。とても自由な選択肢を与えられた国だと思う。

 姉弟で子供を作る事にこそ抵抗はあるけれど、子供を作る大切さが分からないわけでもない。生物はずっと子供を作る事で未来を紡いできた。立派で尊い事だと思う。いつかはぼくも自分の子供を育てたいと考えている。子供を作りたい相手が姉でも他のよく知らない他人でもないだけなんだ。

 宵闇に包まれ始めて、表情がよく読み取れなくなった斎藤君に視線を向けてみる。

「過去、近親間の子供には致命的な障害が出る可能性がある事から、近親婚が忌避されていた時代がありました。人間が受精卵に手を加えて子供の髪や目の色、顔の造形、性別などを調整できるようになる前の時代の話です。現在、近親交配の問題がある因子を取り除く事で、近親者の子供を問題なく産まれるよう調整する事が可能になりました。夢のある話のようですが調整ですよ? 自らの子供を調整して産む事が果たして健全で自然と呼べるのでしょうか?」

 斎藤君の語調は激しく厳しい。斎藤君は何を不満に思っているんだろう。斎藤君だって両親に調整されて産まれてきた事には違いないはずなのに。受精卵の調整自体を憎んでいるのだろうか。色とりどりの髪や目の色をした級友たちを、苦々しく思っているんだろうか。斎藤君の髪の色が日本人本来の漆黒だからなのか。それとも。

「斎藤君はそう言うけどね、自然かどうかなんて重要な事なの? 私はそうは思わない。今の時代、人間だけじゃなく植物も動物も山や海や空だって自然のままの物なんてほとんどないじゃない。品種改良、自然浄化、そんな形で何もかも手が加えられてる。人間だけが自然を貫く必要なんてないし、ひどい傲慢だと思わない? 少なくとも私は姉弟でも子供を作って幸せに暮らせる方が重要だと思うわよ」

 輝も負けていない。斎藤君の言葉の一理を認めながらも、輝の底にある信念自体は譲っていない。輝はどうしてぼくに姉弟での結婚を求めるんだろう。そんなにぼくの未来が心配なのか。姉にいつまでも手を引いてもらわないと生きていけそうにない弟だと思われているのか。いや、ひょっとしたら逆なのだろうか。輝こそが姉弟での結婚を望んでいて、それでぼくにしつこく決断を迫っているんだろうか。それとも。

 それとも……。

 瞬間、小屋の扉が勢いよく外側から開け放たれた。

「やっぱここにいたわけね」

 斎藤君と輝に視線を向けていたせいか、ぼくはその気配に全く気付けなかった。

 議論が白熱していた斎藤君たちもぼくと同様だったらしく、硬直して突然の闖入者を凝視していた。生憎ぼくの位置からは小屋の扉付近は陰になっていて、闖入者の表情をうかがい知る事ができない。こんな時間、こんな場所に一体誰がやって来るのだろうか。ぼくたち三人共有であろうその疑問に答えたのは斎藤君だった。

「ひ……、瞳っ!」

 聞き覚えのある名前、僕もよく知っている名前。

 そう、突然の闖入者の正体は、斎藤君の語るところの思想警察、猫野瞳さんだった。


     ○


 どう反応していいのか分からない。

 どうしてここに猫野さんが姿を現したのか理解できない。

 比喩だとは言っていたけれど、猫野さんは斎藤君の言う通り思想警察だったのか?

 全く実感が湧かない。陽気な猫野さんと思想警察が結び付かない。

 けれど、それ以外の理由で猫野さんがこの小屋に姿を現す理由が見当たらない。

 これからぼくは、ぼくたちはどうなってしまうんだろう。いや、ぼくはまだいい。ぼくは斎藤君の言うところの危険思想を持っているらしい。その責を問われるというのなら分かる。だけど、それと輝は関係ない。輝は口うるさいながらぼくの未来を心配してくれていただけなんだ。とばっちりで輝の身に危害が及ぶ事だけは絶対にあっちゃいけない。

 いざとなれば輝だけでも逃がす?

 いや、駄目だ。猫野さんがこの小屋に現れた以上、他の思想警察にも情報が渡っていると考える方が自然じゃないか。ここで輝を逃がしたところで、捕縛される時期が後回しになるだけだ。何の意味も為さない。

 だったらどうする……? ぼくにできる事は何がある……?

「瞳……、どうしてここに……?」

 短めに切り揃えられた黒髪を震わせながら、斎藤君が呻くみたいに声を絞り出す。その姿には、さっきまでの頼れる古風な男性の面影が全くなくなっていた。それほど動揺しているんだろう。身振り手振りが過剰な斎藤君がなりふり構っていられないくらいに。

 猫野さんは滑稽なほど緩慢な動きで、自らの右手の人差し指を一本立てた。

「個人端末の位置情報に決まってるじゃん」

「あっ……」

 言われてみれば単純過ぎる謎解きだった。単純過ぎて笑いすら込み上げない。産まれてすぐ利き腕の人差し指に埋め込まれる個人端末。盗聴するまでもない。人工衛星と電波で繋がっているその個人端末の位置情報を検索さえすれば、目当ての人間の居場所を見つけ出す事なんて飼い猫の散歩道を見つけるより遥かに容易い事だろう。

 だけど、個人端末の位置情報を検索できるのは、ごく限られた人間だけのはずだ。思想警察はそんな権限すら行使できるのだろうか。いや、思想警察以外にも斎藤君の個人端末の位置情報を得られる立場の人間がいるじゃないか。それはつまり……。

 猫野さんが斎藤君に向かって近付いていく。

 腕を伸ばせば斎藤君に手が届くほどの距離にまで近付いた瞬間。

 猫野さんは手のひらを開いたその右腕を大きく振り抜いた。

 乾いた炸裂音が小屋の中に響く。

「痛いじゃないか、瞳!」

「痛くしたんだよ! まったく、学級まで迎えに行ってみて、姿が見えないと思ったらこれだよ! 田中君を連れ出したって話を聞いて、不安に思って来てみたら案の定だよ!」

 叫びながら猫野さんが再び一閃。

 見事な張り手が二度目の斎藤君の頬を捉えていた。数日は痕が残るに違いない。

「何なのよ、この状況……」

 怯えればいいのか笑えばいいのか、輝が複雑な表情を浮かべて呟いた。

 輝よりほんの少し早く状況が理解できたぼくも、複雑な表情を浮かべるしかなかった。

 何なんだ、この茶番。

 ぼくと輝の表情に気付いてくれたんだろう。猫野さんも複雑な表情を浮かべてくれていた。複雑な表情じゃないのは、全ての元凶の斎藤君だけだった。その斎藤君の頭を地面の方に折り曲げるように押さえ付けながら、猫野さんも頭を下げる。

「ごめんね、どうせこの馬鹿兄貴がまた馬鹿な事言い出したんでしょ?」

「馬鹿兄貴……? あっ!」

 事態が呑み込めていない様子で呟いた次の瞬間、輝も得心した表情に変わった。

 個人端末の位置情報を得られるごく限られた人間。それは何も思想警察などといった特別な存在である必要はない。つまり家族で端末の情報を同期させてさえいれば、簡単に得られるというだけの話だ。同期させていない家族も少なくないらしいけれど、兄の斎藤君の事を放っておけない猫野さんは同期させていたのだろう。

 それにしても斎藤君と猫野さんが兄妹だとは思わなかった。髪や目の色が違うのは当然としても、同じ学級に違う苗字で在籍している上に顔立ちも似ていないし、二人に特に接点があった記憶もない。共通点と言えば特徴的な黒縁の眼鏡だけだけれど、これで二人が兄妹だと気付ける方が凄い。

 斎藤君を兄貴と呼んだ時点で全てを説明するつもりだったんだろう。猫野さんは苦笑を浮かべて、もう一度斎藤君の頭を叩いてから説明を始めた。腰に手を当てたその姿勢は斎藤君の妹というより姉に見えなくもなかった。

「あたしたちは同じ受精卵を調整された双子なんだけどさ、兄貴は父さんの苗字、あたしは母さんの苗字を使ってるのよ。子供の頃は同じ猫野って苗字になろうって約束してたのに、この馬鹿兄貴、いつの間にかあたしに黙って斎藤って苗字を使うようにしてたんだよね。あたしもあたしで猫野って苗字が譲れなかったから、兄妹で違う苗字になっちゃったわけ。この馬鹿兄貴は分かってないんだよね、猫野って苗字の可愛らしさをさあ」

「馬鹿を言うな! そんな恥ずかしい苗字、この歳になって選べるか!」

 斎藤君の肩を持つつもりじゃないけれど、こればかりは斎藤君の気持ちが分かった。猫野と斎藤の二つから苗字を選べと言われたら、ぼくも斎藤の方を選ぶと思う。そもそも書きやすいから田中って母さんの苗字を選んだのはぼくだし。父さんの方の苗字は書くのに難しくし面倒臭いから選ぶ気も起きなかった。

 何となく視線を向けてみると、輝は半笑いを浮かべていた。気持ちはよく分かる。

 それでも今はこの茶番を終わらせた方がいいだろう。

 視線で催促すると、猫野さんは苦笑を浮かべて続けてくれた。

「まあ、苗字の事はいいけどさ、あれでしょ? この馬鹿兄貴、また思想警察とか何とか馬鹿な事を言って、田中君たちを混乱させたんでしょ? そんな組織存在しないって口を酸っぱくして言ってるのに、この馬鹿兄貴、聞きゃしないんだよね」

「さっきから馬鹿とは何だ、馬鹿とは! 猫野瞳! 僕にとってはおまえの存在自体が思想警察そのものなんだ!」

 斎藤君が喉の奥から力一杯絶叫する。もうさっきまでの冷静な印象はどこにもない。

 そう、これが疑問だった。斎藤君は猫野さんをずっと思想警察扱いしていた。他の誰でもなく自分の妹の猫野さんの事を。斎藤さんは猫野さんの何を指して思想警察と称するのか。その理由は何となく想像はできるけれど、勝手な想像に身を委ねるよりは二人の口から説明してもらった方が早いはずだ。

「前から言ってるけど、あたしのどこが思想警察だってのよ」

「僕はおまえと所帯を持つなんて、断じてごめんだと言っているんだ! 同じ家に住んでいるだけでも気が滅入るのに、僕と同い年で愛人を十九人も作ってるおまえと子を成して育てていく未来なんて想像するだに鳥肌が立つ!」

「しょうがないじゃん、あたしと兄貴の交配から産まれる子供が最高の能力になるように調整されてるんだから。愛人を作ってるのは兄貴との結婚生活のための練習だって、これまでも何回も言ってるでしょうが。それに兄貴、あたし以外の誰と結婚生活を送れると思ってんの。他にいないよ、こんな歴史かぶれ兄貴の結婚生活の面倒を見てあげられるのなんて。交配的な意味でも、あたし以上に兄貴の最高の子供を作ってあげられる相手なんて存在しないしさ。だから赤の他人を巻き込んで我儘言うのはいい加減にしなって」

「間違っているぞ、瞳! 人間とは己の自由意思を守る事こそ最高の権利であり……」

「いやいや、幸せに生まれる子供ほどかけがえのないものはないでしょ?」

 黒髪の兄と桃色の髪の妹の論争は続く。

 どうせこれからも続く二人の論争は平行線だろうから、先は聞き流す事にしよう。

 ある程度想像できていたことではあったけれど、どうやらぼくの考えは間違っていなかったらしい。そう、斎藤君はこの国に法律で認められている近親婚が心の底から嫌だったんだ。ぼくの近親婚じゃなくて、他の誰でもない斎藤君自身の近親婚が。それで姉弟で子供を作る事や愛人を作る事に抵抗があるぼくに注目していたんだ。どうにか自分の思想の賛同者が増えてくれる事を願って。

 斎藤君が歴史に目を向けるようになったのは、それも原因の一つなのかもしれない。今のこの国では、近親婚に反対する人間なんてほとんどいない。だからこそ斎藤君は過去の歴史に目を向けるようになったんだ。過去の人々は近親婚や、愛人や、同性婚や、様々なものを忌避していたから。

 奔放に見える猫野さんだけれどやっぱり屈託がない。面倒な馬鹿兄貴と呼びながらも、斎藤君と結婚する事自体には何の疑問も持っていないみたいだ。斎藤君と猫野さんの交配から最高の能力の子供が生まれるように調整されてるって事は、それこそ産まれる前から斎藤君と猫野さんの近親婚は宿命付けられていたんだろう。よりよい子供たちの未来を築こうと考える模範的な国民である斎藤君たちの両親によって。

 だからこそ斎藤君には猫野さんたちの姿こそ、思想警察に見えていたんだろう。本物の思想警察がこの国に実在しているかどうかは別として、斎藤君にとってぼく以外の人々は妹の猫野さんも含めて思想警察だったんだ。

 気が付くと輝が脱力した感じにその場に座り込んでいた。どうも放心しているみたいだった。斎藤君と猫野さんの言い争う姿に、ぼくと輝の姿を投影してしまったんだろう。ぼく自身、斎藤君たちの論争に自分の姿を重ね合わせてしまうのを禁じ得なくはある。

 だけど、違う。

 ぼくたちと斎藤君たちは似ているけれど、決定的に違うところがある。

 それを輝は気付いてくれるだろうか?

「だからって田中君を巻き込む必要はなかったでしょうが!」

 猫野さんの下段蹴りが斎藤君のむこうずねを捉える。

 痛そうだ……じゃなくて、ぼくの事に話題が移ったようだから耳を傾ける事にしよう。

「田中君は僕の同志なんだよ!」

 むこうずねが痛むのか斎藤君が涙目で反論を始める。

「田中君がおまえとの愛人契約を断ったという話を耳にしてから、彼にはずっと注目していたんだ。いいや、ずっと前からだ! 十年生になって新しい学級には配属されてから、彼の黒髪にずっと目を奪われていた! 僕と同じく日本人本来の色である黒髪。瞳の色だって黒だ。彼なら僕の気持ちを分かってくれる。そう信じていた。そして、今日だ! 姉弟で子供を作る事にも抵抗があると知って、もう抑えられなかった。僕には田中君しかいないって、そう感じたんだよ!」

 そう叫んだ斎藤君の瞳は、熱を帯びて潤んでいるように見えた。

 そこまでぼくに執着していてくれていたなんて、想像もしなかった。斎藤君には斎藤君の考えがあって、ぼくを説得しようとしてくれていたんだ。他の誰でもないぼくを賛同者にしたかったんだ。いや、もしかしたら違うのかもしれない。不意に思い至ったその想像はぼくの鼓動をひどく高鳴らせた。

 ひょっとしたら……、ひょっとしたら斎藤君はぼくの事が好きなのかもしれない。それで必死に説得しようと考えていたのかもしれない。さっきまでの斎藤君の言葉は単なる主張なんかじゃなくて、ぼくに対する心からの愛の告白だったのかもしれない。

 そうだ、そうなんだ。斎藤君にここまで熱が入っているのは、ぼくが猫野さんに愛人として誘われた事も無関係じゃないんだろう。ぼくを放っておいたらまだ誰かに愛人契約に誘われるかもしれない。もしかしたら姉弟での婚姻に頷いてしまう日も遠くはないかもしれない。だからこそ斎藤君は焦ってぼくの説得にかかったんだ。妹である猫野さんよりもぼくと愛人契約を結びたかったから。

 どうしよう。すごく嬉しい。

 斎藤君の想いを全身で喜びとして感じる。今まで経験した事がない多幸感だ。

 斎藤君の事は嫌いじゃない。いや、むしろ好きだと思う。斎藤君はぼくの知らない事をよく知っている。黒縁の眼鏡を掛けた理知的な表情に視線を奪われた事だって、一度や二度じゃない。理論先行で暴走しがちなところも愛嬌じゃないか。斎藤君の愛人にならばなってもいいんじゃないかとさえ感じる。少なくとも姉弟で子供を作るよりはずっと幸福な未来を迎えられると思えた。子供はどっちが産むのがいいだろうか。やっぱりぼくが産んだ方が斎藤君も喜んでくれるだろうか。

 その想像はぼくをとても楽しくさせた。

 叶わない未来を想像するのは幸せな事だから。

 ぼくの幸福な想像に気付いたんだろうか。猫野さんが怪訝そうにぼくの顔を見つめた。

「あのさ、田中君」

「どうしたの、猫野さん」

「今日はこの馬鹿兄貴が迷惑掛けちゃってごめんね」

「気にしてないよ、ちょっと楽しかったしね」

「それでさ、田中君……」

「うん」

「田中君って姉弟で結婚するのは反対なわけ?」

「そう……だね、あんまり気は進まないかも。愛人を作るのも抵抗がある感じかな」

「それならあたしと兄貴の結婚も……」

 不安そうに猫野さんが眼鏡の奥の瞳を伏せる。二つ結びの髪型も小刻みに揺れていた。斎藤君との近親婚を疑った事がなかった猫野さんにとって、ぼくみたいな例外の存在は不安に繋がるものでしかないのだろう。

 だからこそ、ぼくは笑顔を浮かべよう。猫野さんのために、何よりぼくのために。

「いや、それは別だよ。斎藤君と猫野さん、お似合いの夫婦になれると思うよ。いつになるかは分からないけれど、最高の赤ちゃんの顔を見せてほしいな。その子が大きくなったらぼくの愛読書を贈呈させてもらうよ」

 猫野さんの表情がまるで電灯でも点けたみたいに明るくなった。やっぱり、何だかんだ言っていても、斎藤君と子供を作るのを楽しみにしているんだろう。その嬉しそうな表情を、猫野さんと知り合って初めて魅力的に思った。

 それとは対照的に斎藤君と輝の表情は、宵闇の中でも唖然としたように歪んでいた。

「ちょっ、えっ? 田中君……?」

「聖……?」

 二人ともそれ以上の言葉は出せないみたいだった。

 別に皆を驚かせたいわけじゃない。ぼくはぼくなりに首尾一貫しているつもりだ。姉弟で子供を作るつもりはない。斎藤君の愛人になる生活は楽しそうだと思う。斎藤君と猫野さんの子供を見るのは楽しみだ。そして、いずれは自分の子供を育てていこうと考えている。どれもぼくの気持ちの真実で偽りはない。

 幸か不幸か。

 今日の輝と斎藤君の行動が、ぼくの未来のための決断に繋がってくれたらしい。


     ○


 斎藤君は猫野さんに手を引かれて、とぼとぼと自宅へと帰っていった。帰宅後、猫野さんのお説教かおしおきの性交渉が開始されるんだろう。もしくは普段の猫野さんの様子からは想像できないくらい、甘々に甘えられるのかもしれない。斎藤君の表情は深く沈んでいたけれど、残念ながらそれについてぼくにできそうな事は何もない。

 ぼくと輝もすっかり陽の沈んだ山道を下っていく。

 幸い、夜の道は月の光に照らされて明るかった。秋風もとても澄んでいた。

 まるでぼくの決断を祝福してくれているみたいな明るさと秋風だ。

 なんて考えたら、ちょっと高揚し過ぎだろうか。

 輝は何も言わない。教室や小屋でぼくをしつこく説得しようとしてたのが嘘みたいだ。

 ぼくも何も言わない。ただ満月に近い月を見上げながら家路を進んでいく。

 自宅までの山道はあっという間だった。ただでさえ山の中にある学校なんだ。家から遠い山の中にある学校になんて、通いたくもないから当たり前だ。ぼくが個人端末で家の鍵を開けようとした瞬間、やっとの事で輝が口を開いた。その表情は何かを吹っ切ったようにも見えた。

「ねえ聖、家に入る前に訊いておきたい事があるんだけど……」

「うん、ぼくも輝に伝えたい事があるよ」

「そうなんだ。そうだよね……。じゃあまずは私から。あのさ、聖はさ、やっぱりお姉ちゃんと子供を作る気はないんだよね?」

「そう……だね、ごめん。輝がぼくの事を考えてくれてるのは分かるんだけど、どうしてもそんな気が起きないんだ。これは輝が悪いわけじゃないよ。単にぼくが人よりも面倒臭がりだったってそれだけの事だと思う。向いてないんだよ、きっと」

「そっかあ……」

 気の抜けた様子で輝がぼくの肩にもたれかかる。

 その輝の柔らかさと温かさが愛おしいと感じる気持ちに嘘はなかった。ぼくは輝の事が好きだ。そのお節介焼きをたまに面倒臭く感じる事もあるけれど、これからも一緒に生きていきたいとずっと思っている。

 ひょっとしたら水色の瞳を潤ませて輝が呟いた。消え入るような声色だった。

「欲しかったなあ、聖との子供」

「愛人が七人いるって言ってたじゃないか」

「そりゃいるけどさ、愛人と子供を作りたい相手は違うわよ。愛人七人と付き合ってみた結果、聖とお姉ちゃんの子供が欲しくなったんだよ。やっぱり血の繋がった聖が一番だなあ、って感じたの。身体の相性も生活の相性もね。そんなお姉ちゃんの気持ちが分からないのかなあ、聖は。やっぱり田中なんて平凡な苗字を選ぶくらいだから、姉弟でも感性がかなり違うのかな?」

「嫌だよ、御子柴なんて書くのが面倒な苗字」

「もう……、相変わらず面倒臭がりなんだから、聖ってば。こんなに几帳面なお姉ちゃんの血はどこに行っちゃったのよ」

 それはぼくも思わないでもなかった。

 血が繋がった輝の几帳面さは、ぼくに全く受け継がれていない。やらなきゃいけない事があるのは分かってるんだけど、色んな事が面倒なんだよね。特に愛人契約や性交渉、結婚なんて面倒で面倒でしょうがないんだ。

 姉弟で子供を作りたくない理由もそれだった。輝の事は好きだし、身体の相性も悪くなかったはずだ。だけど、それは婚姻が関係しない姉弟として好きだという意味だ。ぼくは輝との今の距離感をかなり気に入っている。面倒臭がりのぼくを輝が引っ張って、ぼくはそれをうっとうしく思いながら苦笑して引きずられていく。そんな生活が大好きなんだって強く実感してる。二人で子供を作ってしまったら、そんな生活はきっと一瞬で崩れ去ってしまう事だろう。

 どうしてこんなに結婚や子供を作るのが面倒なのか。何もかも誰かのせいにするのはよくない事だけれど、ひょっとしたらぼくの受精卵に施された調整のせいかなって考えなくもない。ぼくは黒髪で黒い目だ。取り立てて目立つ点がない典型的に古風な日本人だ。それは他の器官を大きく調整されているって意味でもある。ぼくの両親はある一点にのみ特化してぼくに調整を施したんだ。その意味で斎藤君は大きく誤解していた。ぼくは自然で健全な日本人とはとても言えないのだから。

 もしかしたら斎藤君もぼくと似ていたのかもしれない。斎藤君は典型的だとさえ言える古風な日本人染みている。鮮やかとまで言える黒髪と黒い瞳、黄色人種によく見られる顔付き。それらと斎藤君の歴史好きが無関係だとは考え難い。もしかしたら斎藤君は歴史好きで古風な日本人っぽくなるよう、受精卵が調整されていたのかもしれない。それであんな外見と性格になったのかもしれない。ぼくの考え過ぎかもしれないけれど、何となく不意にそう思えた。

 それでもぼくは別に父さんと母さんを恨んでいるわけじゃない。調整についても感謝している。こんな便利な選択肢を与えられた人間なんて、現代のこの国でも一割以下しか産まれていないらしい。でも、まあ、望まれた調整通りに産まれてきた以上、授かってしまった性格の言い訳くらいはさせてもらっても罰は当たらないだろう。

 輝が訝しんだ視線を向けて、ぼくの頬を少しだけ抓った。

「一応訊いておくけどさ、聖」

「何でも答えるよ」

「子供を作るつもりはあるって言ってたけど、その相手って斎藤君じゃないわよね?」

 まさか、と笑ってあげた。

 斎藤君に好かれているって想像するのは嬉しかったし、子供を作るのも悪くないって思えた。思えただけだ。結婚生活はそんな単純なものではないだろうし、今日の斎藤君と猫野さんのやりとりを見ていると余計にそう思った。最初から最高の交配が行える夫婦となれるように調整された双子ですら、あんなにもすれ違ってしまうんだ。増してやぼくと斎藤君は赤の他人なんだから、他人同士の結婚生活というものには今のぼくには想像もできない困難が待ち受けているに違いない。

「子供を作る気はあるのよね?」

 最終確認みたいに輝が訊ねる。

 最終確認なのだと受け取って、ぼくは頷いた。

「もちろん。いくらぼくが面倒臭がりだからって、子供を作らないなんて非倫理的な事をするつもりはないよ。生き物はずっと子供を作って未来を紡いできた。斎藤君が嫌っているこの国の思想だけど、ぼくはその点はこの国の言っている事が正しいと思ってるんだ。だから、子供は作るよ、ぼくが生きた証を未来に遺すためにもね。そう決断したよ」

「だったらやっぱり……」

 それ以上輝に言わせるのは悪い事だと思えた。輝はぼくとの子供を諦めてくれたんだ。ぼくが作る子供がどんな子供かくらい、ぼくの口から伝えなきゃ失礼極まりない。面倒を嫌うぼくだってそのくらいは分かる。

 だから、ぼくは言った。月を仰いで、これからの未来を見据えるみたいにして。

「ぼくは、ぼくとの子供を作るよ、輝。幸い、そのための器官は揃っている事だしね」

 父さんと母さんの望んだ受精卵調整で、ぼくの身体には精巣と子宮が備わっている。基本構造は男性寄りらしいけれど、問題なく妊娠もできるらしい。『この子が自分の性別を自由に選択できるように』、そんな想いを込めて調整したのだと前に父さんが話してくれた。『その分、髪の色や瞳の色を調整する余裕がなかったんだけどね』と笑っていたのは父さんらしいと言うか何と言うか。

 そんな両性具有に調整されたせいだろうか、ぼくは愛人契約や性交渉にずっと興味が持てなかった。輝や母さんと何度か性交渉を結んでみたけれど、どうにも違和感が拭えなかったんだ。どうして家族とはいえぼくじゃない誰かとの子供を作らなきゃいけないんだ。そんな考えが付きまとって払えなかった。

 ぼくには精巣と子宮がある。そりゃ受精卵調整が多少は必要だけれど、それを除けば一人で子孫を繁栄させる事ができるんだ。だったら誰の愛人になる必要もないじゃないか。輝との子供だって作る必要もないじゃないか。ぼくはぼく一人で新しい命を育んでいけるんだ。斎藤君や輝の事も好きだけど、ぼくが一番好きなのはぼく自身なんだ

 だから、愛人契約や性交渉は面倒だし無駄で、必要ない事なんだ。

 そういうのは性器を片方だけ持っている人たちがやる事なんだ。

 もちろん、斎藤君の言い種じゃないけれど、その考えがこの国ではまだ一般的じゃない自覚はあった。何せこの国ではまだ一割しかいない両性具有者なんだ。ぼくみたいな人間の前例はあまりにも少ない。父さんたちがぼくの決断をどう思うかも分からないしね。

 それでも、今日、斎藤君や猫野さん、輝とのやり取りを見ていて思ったんだ。

 やっぱり、自分じゃない他人と子供を作るなんて、本当に、本当に面倒臭い!

 どうして子供を作るのに、他人を介入しなくちゃいけないんだ。

 自分一人でどうにかできる問題なのに、不合理じゃないか。

 生き物は多様性を広げるために異物を取り込む選択肢を取った。そんな学説は耳にした事がある。二つの遺伝子を掛け合わせて、より多様な可能性を得る為に生き物は雄と雌に分かれたらしい。伝染病などの外的要因がきっかけで一気に全滅してしまわないために。

 けれど、それだって受精卵調整でどうにかなる事だ。

 ぼくがぼくとの子供を作る事で生じる危険因子を取り除く際に、別の部分を軽く調整しておけばいいだけの話なんだ。それで生き物としての多様性は保たれる。血縁者の子供の受精卵の調整と何も変わらない。何の問題もないじゃないか。

「聖と聖の子供ねえ……」

 輝が深刻そうに呟いた。輝はぼくの決断には賛同してくれないんだろうか。

 そんな一瞬の心配は必要なかった。輝はすぐ悪戯っぽく微笑んで舌を出してくれた。

「すっごく面倒臭がりになりそう!」

「それは否定できないけどね……」

 ぼくが苦笑すると、輝は優しく肩を叩いてくれた。

「まあ、もし本当にそうなったら、お姉ちゃんがその子の教育を手伝ってあげるわよ。聖みたいな面倒臭がりがこれ以上増えても困るし、何たってお姉ちゃんは聖のお姉ちゃんなんだから!」

 輝はどこまでもぼくの好きな輝みたいだった。

 ぼくが輝との子供を作れないと伝えた時には、ぼくの決断の後押しをしてくれるつもりだったんだろう。本当にどこまでも頼りになる、ぼくの自慢のお姉ちゃんだ。輝との子供を作る事はできないけれど、いつまでも近くで笑い合っていたいと思う。

 多少の不安はある。父さんと母さんはぼくの決断をどう思うんだろう。喜んでくれるだろうか。祝福してくれるだろうか。ぼくを両性具有に調整してくれた両親なんだ。祝福してくれると嬉しいんだけれど。

 ぼくのちょっとした不安を分かってくれたのか、輝が水色の瞳を優しく向けてくれた。

「それじゃ、家に入ろうよ、聖。今日の聖の気持ち、お父さんとお母さんに話しにくいようなら、お姉ちゃんが助け舟を出してあげるからさ」

「うん、その時は頼むよ、輝。まあ、やれる限りは一人で頑張ってみるけれどね」

「頑張んなさいよ?」

 そうして、輝と肩を並べ、笑顔で玄関の扉を通り過ぎていく。

 これが、ぼくの決断。

 幸せになるための一歩なんだって強く思いながら。

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プロトゴノスの決断 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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