【KAC7】この夢で私は目覚めた

 国家公務員試験に合格した高潔で自信家の相良は、公僕に甘んずるを良しとしなかった。幾ばくもなく官を退いた後は、山にこもり、人との交わりを断って、ひたすら詩作にふけった。俗悪な政治家に仕えるよりは、詩家として名を死後百年に残そうとしたのである。だが文名は容易にあがらず、生活は日を追って苦しくなる。相良は焦躁に駆られ、その容貌も険しくなった。眼光のみ妖しく輝き、かつての紅顔の美少年の面影は、どこにもない。貧窮に絶えられなくなった彼は、再び試験を受け、地方公務員となった。だがこれは詩業に半ば絶望したためでもある。かつての同期はすでにはるか高位に出世し、相良が昔、歯牙にもかけなかった連中の命令を受けねばならぬことが、彼の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない。一年後、いよいよ憤懣を押さえられなくなった彼は、公用で旅に出て、飛騨高山の近くに宿をとった時、遂に発狂した。夜半、急に顔色を変えて寝床から起きあがると、わけのわからぬことを叫びつつ、闇の中へ駆け出したのだ。そして二度と戻っては来なかった。


 その後、彼がどうなったかを知る者は、いなかった。


 翌年、警視庁の結城という者が、出張で高山の地に宿をとった。朝、暗いうちに出発しようとした彼に地方巡査が言う。これから先にイソギンチャクが出る、白昼でなければ危ない、今はまだ早いから、少し待たれた方がよろしいでしょうと。しかし結城は供が多勢なのを理由に、巡査の言葉を無視して出発した。残月の光を頼りに林中を走っていると、果たして一匹のイソギンチャクが草むらの中から躍り出た。あわや結城の車に襲い掛かるかに見えたが、たちまち身をひるがえし、元の草むらに隠れる。車を停めた結城は、草むらの中から人間の声で「あぶないところだった」とつぶやくのが聞こえた。その声に聞き覚えがあった彼は、とっさに思いあたって叫んだ。


「その声は、我が友、相良ではないか?」


 相良と同年に国家公務員試験に合格した結城は、友人の少かった相良にとって、最も親しい間柄であった。温和な結城が、激しい相良と衝突しなかったためであろう。


 草むらの中からは、しばらく返事が無かった。忍び泣きと思われるかすかな声が時々もれるばかりである。ややあって、低い声が答えた。


「いかにも自分は相良である」と。


 結城は恐怖を忘れ、車から下りて草むらに近づき、なぜ出て来ないのかと問うた。相良の声が答えて言う。自分は今や異形の身となっている。どうしておめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか。君は畏怖嫌厭の情を抱くに決まっている。だが今、図らずも旧友に出会え、狂おしいほどなつかしい。ほんのしばらくでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友、相良であったこの自分に付き合ってくれないだろうか。


 後で考えれば不思議だったが、その時の結城は、この超自然の怪異を実に素直に受け入れ、少しも怪しもうとはしなかった。彼は部下に待機を命じると、草むらの傍らに立ち、見えざる声と対談した。東京の噂、旧友の消息、結城の現在の地位、それに対する相良の祝辞。青年時代に親しかった者同志、隔てのない口調でそれらが語られた後、結城は相良がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。草中の声は次のように答えた。


 一年程前、出張で高山に泊った夜のこと、ふと眼を覚ますと戸外で誰かが俺を呼んでいる。応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。思わず追って走り出した。無我夢中で駆けて行くうちにいつしか道は山林に入ったが、俺は何か体中に精力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに触手が生えている。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既にイソギンチャクになっていた。俺は初め、我が眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。しかしどうしても夢でないと悟らねばならなかった時、俺は愕然とした。そして恐れた。すぐに死のうと思った。だがその時、俺の前を一人のバニーガールが駆けて行くのが見えた途端、俺の中の理性はたちまち姿を消した。再び意識が戻った時、目の前でバニーは失神失禁しており、あたりには服が散らばっていた。これがイソギンチャクとしての最初の経験であった。それ以来今までどんな所行を続けてきたか、到底語るに忍びない。ただ、一日の内必ず数時間は、人間の心が戻ってくる。その時は、かつての日と同じく、複雑な思考にも耐えうるし、経書の章句をそらんずることもできる。その人間の心で、イソギンチャクとしての俺の残虐な行いの跡を見、自分の運命をふりかえる時が、最も情けなく、恐しく、憤ろしい。しかしその人間としての数時間も、日を経るに従ってしだいに短くなっていく。今までは、どうしてイソギンチャクになったのかと怪しんでいたのに、この間ふと気がつくと、俺はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。あと少したてば、俺の中の人の心は、触手習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。そうなれば俺は自分の過去を忘れ、一匹のイソギンチャクとして這い回り、今日のように道で君と出会っても友と認めることなく、君の穴を突きまくっても何の悔いも感じないだろう。元来、獣でも人間でも、もとは穴兄弟だったのだろう。初めはそれを憶えているが次第に忘れてしまい、いや、そんな事はどうでもいい。自分の中の人の心がすっかり消えてしまえば、恐らくその方が俺は幸せになれるのだろう。だのに俺は、それをこの上なく恐ろしく感じているのだ。この気持ちは誰にもわからない。誰にもわからない。同じ身の上になった者でなければ。ところで、俺がすっかり人でなくなってしまう前に、君に頼みたいことがある。


 結城は息を飲んで草むらの中の声の語る不思議に聞き入っていた。声は続けて言う。


 俺は詩人として名を成すつもりでいた。しかし業いまだ成らざるに、この運命に至った。かつて作った詩数百篇、まだ世に出ておらぬ。遺稿の所在もわからなくなっていよう。だが最近、どうしても誰かに伝えねばならないと思うものができた。これを伝録していただきたいのだ。何もこれによって一人前の詩人づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯執着したものを一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れぬのだ。



 結城は部下に命じ、これを書きとらせた。



 いそぎんちゃくになっちゃった

 大変だ どーしよう

 ララララーラララ ララララーラララ

 このチャンスだけ 逃したーくーなーいーよー

 いぇいぇいぇいぇいぇい うぉうぉうぉうぉう

 いぇいぇいぇいぇいぇい うぉうぉうぉうぉう



 相良の声は草むらの中から朗々と響いた。格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものである。だが結城は感嘆しながらも漠然と感じていた。なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかしこのままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。


 相良は再び続ける。


 なぜこんな運命になったかわからぬと先刻は言ったが、しかし考えようによれば、思い当ることがないでもない。人間であった時、俺は努めて他人との交わりを避けた。人々は俺を傲慢だ、尊大だといった。実はそれがほとんど羞恥心に近いものであることを、彼らは知らなかった。もちろん自分に自尊心が無かったとは言わない。だがそれは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。俺は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、詩友と交流して切磋琢磨しなかった。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいである。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。俺の場合、この羞恥心がイソギンチャクだったのだ。これが俺の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。最近それにようやく気がついた。それを思うと今も胸を焼かれるような悔いを感じる。もはや人間としての生活は出来ない。たとえ今、俺が頭の中で、どんな優れた詩を作ったところで、どういう手段で発表できよう。まして俺の頭は日ごとにイソギンチャクに近づいていく。どうすればいいのだ。俺の空費された過去は? たまらなくなる。そんな時、俺は向こうの風俗街に行き、ソープランドで発散する。この胸を焦がす悲しみを誰かに訴えたいのだ。実は昨夕も奉仕してもらった。指名は決まってマイちゃんだ。他の嬢はダメだ。ただ無難に、淡々と仕事をこなすだけ。ルミもマナミもトミーもウミも、一匹のイソギンチャクがただ盛っているとしか考えてない。俺の気持ちをわかってくれる者は他にいない。まさに人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を結城以外誰も理解してくれなかったように。俺の触手が濡れたのは、夜露のためばかりではない。


 あたりの暗さが薄らいでくる。木の間を伝い、どこからか暁角が哀しげに響き始めた。


 別れを告げねばならぬ。イソギンチャクに戻る時が近づいたから、と相良は言った。だが別れの前にもう一つ頼みがある。俺はお前のことが……


 ふいに結城の背筋に冷たいものが走る。彼の体はいつの間にか草むらから伸びるカラフルな触手に絡まれており、ズボンの中に侵入した数本が尻をまさぐっていた。


 しまった、巡査の言うことを聞いておけば良かった、そう思った時はすでに遅かった。なまめかしくうねる触手は迷うことなく、彼の無防備な菊門を激しく襲う。反り返りながら結城は叫んだ。






 アッーーーーーー!






 夢だったのか……



 目覚めた結城は寝汗でぐっしょり濡れたシャツにあたる自分のヒジの、ヌルリとした感触に眉をひそめた。


 隣で眠る妻に気づかれぬよう、恐る恐る下腹に手をやる。




 最高に夢精していた。

(満足な表情で余韻に浸りながら)

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