第8話 父の顔、女の顔
「あれ……ここ、どこ?」
麗華は、浴室から出たあといつのまにか眠ってしまっていた。今はジャージとTシャツを着ているが、枕元にはご丁寧に、パーカーとジーンズが畳んで置かれていた。
麗華が着替えて寝室から居間に出ると、ソファの上に毛布が1枚。田上はそこで寝ていたらしい。
田上は既に目覚め、キッチンに立っていた。麗華はぼんやりとそれを眺める。
じゅうじゅうと小気味よい音が鳴り、フライパンから湯気が立ち上る。
「自炊してんの!?」
麗華はキッチンに駆け込み、田上の隣に立った。
「当たり前だろ。子どもには、なるべくなら出来合いを食わせたくないからな」
肉野菜炒めが皿に移された。
「こども……?」
「割と似合うな」
田上は少し、嬉しそうな顔をした。
服は麗華の着るものとほぼ同じサイズだった。ただ下着は緩く、麗華は田上の妻の胸が、自分の〝武器〟より大きかった事を知る。麗華は若干の悔しさを感じるとともに、田上に胸を使った誘惑が効かない理由を悟った。
「ねえそれより……わっ!」
麗華は田上に子どもの事を聞こうとしたが、田上が急に顔を近づけたので、慌てて身を引いた。
「化粧、要らないんじゃないか?」
「ちょっ……見ないでよ!」
麗華は慌てて顔を隠した。
「その方が、いいと思うがな」
田上は麗華から目をそらし、味噌汁の鍋に手をかけた。
「……ずっとアンタ……ユウさんが、料理してたの?」
麗華は田上の横顔に尋ねた。
「いや。嫁さんが作ってたよ」
田上は麗華を見ずに、しかし優しく微笑んだ。
「アタシ、何にもできない……」
麗華は田上の作った料理の皿を見ながら、呟いた。
「いいんだよ、気持ちがありゃ。俺だって下手くそだ。もう出来るぞ」
田上は炊飯器を開ける。
中には五目炊き込みご飯が入っていた。
「さあ、食おう」
田上も麗華も、誰かと2人で食事をするのは、久しぶりの事だった。
「ごちそうさま。その、美味しかった。鍵の業者が家に来るから……帰る、ね。ありがとう」
麗華は少し照れた様な顔で、田上を見上げる。高いヒールではなく、田上の妻のスニーカーを履いた麗華。彼女と田上の身長差は、頭一つ分。
「靴まで合うなんて、運が良かったな」
「ええ、ありがと……」
麗華の頭に田上の掌が乗る。
「気を付けてな」
「……うん」
麗華が去った後の部屋で、田上は仏壇の前に座る。伏せられた写真立てを手に取る。
「……なあ、そろそろ……」
不意に、写真立てのガラスに、自分の顔が反射した。
悪魔の様な顔をした男が、そこに映っていた。
田上は写真立てを伏せて引き出しに入れた。
「そんな都合の良い事……あるわけ無いよな」
田上の家から出た麗華は、彼に触れられた頭を、指でなぞる。触れられた部分だけが優しい熱を帯びている様に錯覚しながら、麗華は久々に陽の光を浴びた事に気づく。そしてその太陽の光に、今別れたばかりの田上の優しさを重ねた。
しかしその刹那、麗華は自分の頭を撫でた男と、異様な強さを見せる悪魔のギャンブラーが、同一人物という事を思い出す。
「……だめよ」
麗華は自分の頭から手を下ろす。
「私は麗華……」
言い聞かせる様に呟いた麗華は、その顔から全ての感情を消し去り〝麗華〟の顔になった。
「私の居場所は、あなたの横じゃない」
麗華の頭上に輝く秋の太陽は、彼女の頭に残るぬくもりを上書きする様に、強く照りつけていた。
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