第7話 薔薇の香りに妻の影

「退職……!?」

 夜の社内。田上と上司だけになった事務室。


 田上はあの日から、夜の仕事を辞めて闇賭博場に通っていた。ほかのゲームにも少し手を出したが、ポーカーだけは全勝無敗。


 そして、田上には、昼の仕事も不要になった。


「ええ。遠い親戚が声を掛けてくださって、そちらの方で」

 田上は嘘をついた。その顔は、申し訳なさで今にも泣き出しそうになっていた。


「……そんな顔しないでよ。田上さんが決めたんなら仕方ないさ。でも……送別会くらいは、やらせてよね」


「ありがとうございます」

「もしよければ、今日も一杯やろう」

「はい」


 上司とすすきので飲んだ帰り道。札幌は都市部でも、秋から冬は星がよく見えることがある。田上は星が見たくなり、ネオンの光の無い、店がない方へと歩いていた。


すると、誰も寄り付かない様な路地裏の方から、田上の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。


「やめてよ!」

「うるせぇ!てめぇを攫えば、真矢のシノギはお、俺のもんだ!」

 男と女の声。田上に聞き覚えがあったのは、女の方。


「バカね。アタシなんて攫っても、捨てられて終わりよ」

「……じゃ、じゃあ犯してやる!」


 麗華を押し倒した男の背後に静かに歩み寄った田上は、行為をしようとする寸前の男の股間を蹴り上げた。


 男は一言も発さず、その場に気絶した。男に乱暴されている間も、麗華は終始、真顔だった。


「早く隠せ」

 田上は、衣服を引きちぎられて丸出しになった麗華の大きな胸を隠す様に、ジャケットを放り投げた。


「……」

 麗華はジャケットを羽織って立ち上がる。ヒールが折れていた。


「早く着替えてこい。俺は、今日は酔ってるから……店には行かない」


「鍵」


「何?」

 田上の眉が動く。


「追いかけられてる内に、家の鍵、落としちゃったの。探して」

 麗華は乱れた髪を両手でかきあげながら言った。


「どのあたりから逃げてきたんだよ」

 田上は溜息交じりに、確認する。


「タバコ屋……モモヤビルのあたり」


「範囲が広すぎる。ルートは」


「覚えてない」


「……それなら無理だ」


「このまま放置?」

 麗華はジャケットを開く。ドレスの上半分が破れ、胸が完全に露わになっている。下半分は無事だが、Tバックの下着はちぎれて、地面に落ちていた。


辺りは既に、明るくなり始めている。このままでは目立つだろう。


「はぁ……。タクシーに、乗ろうか……」


 タクシーの運転手に訝しげな顔をされつつも、二人は田上の暮らすマンションにやって来た。


「嫁さんの服があるから、それで我慢してくれ」


「あら。借金まみれのくせに結婚してるの? 修羅場にはなりたくないんだけ、ど……」


 麗華は言いながら、居間の仏壇に気づいた。


「その、ごめんなさい……」


「もう、4年経つ。気にするな」

 田上は箪笥の中を漁りながら、寂しげな表情を作った。


「とりあえず、身体洗ってこい」


 田上は麗華に、バスタオルを放り投げた。


 人工的な薔薇の香りのする、バスタオルだった。

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