第2話
夜の十一時。
パチッという音とともに部屋が明るくなる。
僕は彼女に「おかえり」の一言をかけた。いや、かけたつもりで音にはなってないことを僕は知っている。一生懸命、彼女の帰りを喜び、仕事の疲れを労おうとしても声にならない。
何度も彼女に届くように心の中で念じた。
――棚から何かが落ちる音がした。
棚から落ちたものを拾うと、彼女は僕の前まで来てくれた。
そしてゆっくりとその場でしゃがんだ。
よく見ると膝を怪我したようで、包帯を巻いていた。
「おかえり」
彼女は僕にどこか悲しそうに声を掛けた。
帰ってきたのは彼女の方なのに、おかしいなあと、僕は思ったけど声をかけてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
彼女は、何故かとても悲しそうに見えた。仕事がそんなに大変なのかな。
彼女は僕の背中に手を回し、右に三回ぜんまいを回した。
今まで重かった体が嘘みたいに軽くなって、僕は三回バンザイのポーズを取った。
その姿を見た彼女は、どうしてか泣きそうになっていた。
僕は元気になってほしくて、もう一回バンザイのポーズを取ろうとしたけど、体がとっても重くて上手くできなかった。
「おやすみ、また明日」
彼女が僕に声をかける。「おやすみ」と返事がしたかったけれど、一生懸命念じるだけで声にならなかった。
――台所で何かが落ちる音がした。
パチッという音とともに部屋が暗くなる。
今日は金曜日の夜。
彼女は金曜日にはいつも早めに帰ってきてくれる。
僕は彼女の帰りをじっと待ち続けた。
玄関の方から彼女の靴を脱ぐ音が聞こえた。
そして、パチッという音とともに部屋が明るくなる。
僕は彼女に「おかえり」の一言をかけようとしても、それはできないことだと知っているから、諦めて彼女がこっちに来るのをおとなしく待った。
「ただいま」
彼女は僕に優しく声を掛けた。
帰ってきたのは彼女の方だから、今度こそは間違っていないなと思った。
彼女は僕の背中に手を回し、左に三回ぜんまいを回した。
体が軽くなって、僕は三回屈伸した。
その姿を見ていた彼女は悲しそうに目を背けた。
心配で、どうにか元気になって欲しかったけれど、体はすぐに重くなるからそれは出来ないことだと知っていた。
そして、それは体がもっとずっと軽くなってもできないことだと思った。
「明日は、一緒にデートに行こうね」
彼女の言葉を聞いて、嬉しいはずなのに、それ以外の良く分からない嫌な気持ちが嬉しい気持ちを胸の中でいじめる。
――お皿が割れる音がした。
目の前が真っ暗で何も見えない。
暗いだけじゃない、狭い。すごく息が苦しい。
でも実は僕は息なんてしてない、ことも知っている。
それでも息苦しい理由はもしかしたら……なんて思っている。
しばらくすると、ジジジとチャックが開く音がした。
真っ暗だった空に仄かなランプの光が差し込んだ。
「ついたよ」
彼女はカバンから僕を取り出すと、隣の席に座らせた。
少し薄暗い店内、机の上のメニューには『カフェ スフィア特製コーヒー』と大きく書かれていた。
それを見ていると、何故だかとっても胸が苦しくなった。
どうしてだろう、さっきの苦しさなんて、なんでもなかったぐらいに苦しい。
「君は何にする?私はね……」
僕は彼女が、レモンティーを頼むことを知っている。
僕も彼女も学生時代は比較的多忙で、いざデートをするとなっても遠出は疲れるし、ボウリングやカラオケはお互い苦手で、結局この『カフェ スフィア』で時間を過ごすパターンが多かった。
そこそこ人はいるものの、ちらほらと空席があって、わりと好きな席に座れることが多かった。
「あそこにしよう!」
彼女が指さすのはソファーがふかふかな二人席でも、窓際の広く使える四人掛けの席でもなく、カウンター席だった。
二人での長居を想定するのであれば、カウンター席というのは先に挙げた二つのタイプに後れを取るものだが、彼女は毎回決まってカウンター席を選んだ。
特に「どうして?」と尋ねることはしなかったが、少し気になっていた。
僕はスフィアコーヒーを、彼女はレモンティーをそれぞれ注文する。
「今日は何をして時間を潰すの?ちなみに、私はレポートの課題を仕上げるつもり!」
それなら、僕は読書をして時間を潰そう、とカバンの中から読みかけの小説を取り出した。
少し時間が経ってから、隣の彼女からタイピングの音が聞こえなくなった。
行き詰ったのだろうか、そこから数分、何か作業をしている様子は伺えなかった。
気になった僕は、文字列から彼女の方へとちらっと視線を移す。
「……やっと、こっち見た!」
彼女は満足したのか、レポートの作業へと戻っていった。
僕も一応、本に目を落とすものの、しばらく内容が頭に入ってこなかった。
「ここに来ると、君のことばっかり気になっちゃって全然作業が進まなかったよ。いつ気がついてくれるかなぁ、って。でも、私も知ってるよ。君もどうしてだか同じページばっかり読んでいたよね。ひょっとして私と同じこと考えてたのかな、そうだったら嬉しいな」
彼女はストローで中心の氷を軸にしながらレモンティーをかき混ぜる。
僕は目の前で湯気立つコーヒーをぼんやりと眺めながら彼女の話を聞いていた。
もっと彼女に僕の考えていることや彼女に対しての気持ちを素直に伝えればよかった、そんな後悔を僕は持っていた。でも、もしかしたら彼女にはちゃんと伝わっていたのかもしれない。
そう思えたとき、僕の体はさっきよりずっと軽くなったような気がした。
このまま僕の体に乗っかっている重たいものが全部なくなったら、また彼女と並んで歩けるのかな。
でも、僕はそれがもう出来ないことだと知っている。
彼女の手が僕の背中に回る。そして、優しく右側に一回転だけ回した。
「……あ……あ、あ……」
僕は、とてもびっくりした。
今までどんなに頑張っても出せなかった声が、声になる一歩手前の音まで出せるようになった。
あと少し、あと少しで……。
「あ……ああう……」
あと少し、あと少しなのに。
目の前のコーヒーの湯気は僕の見えている世界を徐々に白く遮っていく。
「……や……だ……」
目の前の白は、僕から景色を奪った後に、考えることも奪っていった。
次に気が付いた時、僕の体は半分土の中だった。
ごめんね、ごめんね、と言いながら小さなスコップで冷たい土を僕にかける。
皮膚なんて無いんだから、暖かいも冷たいも無いのに。
「や……め、や……め、て……」
僕は必死に彼女に伝える。
――彼女の体が少し吹き飛んだ
それでも彼女は起き上がって、そして僕に謝りながら土をかける。
こんなに謝っているんだから、いつもみたいに許してあげたかった。
でも、このままだと彼女とお別れしてしまう。
「ま……だ、いっ……しょ、に……」
僕は必死に彼女に伝えようとした。
――彼女の体がさっきより遠くに飛んだ
ゆっくりと起き上がり、こっちに戻ってくる彼女。
彼女の膝から血が出ているのが分かった。
僕はそれを見て、彼女とのお別れを考えるよりも悲しい気持ちになった。
お別れも嫌だったけど、これ以上彼女が傷つくのはもっと嫌だ。
ごめんねとさよならを交互に言う彼女。
僕の体はもうほとんど土の中、彼女の声もだんだん聞こえなくなる。
「……つ、ぎは……ぜった……いに……」
――何も起こらなかった
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