優しくて残酷で、優しい呪い
あるくくるま
第1話
夜の十一時。
パチッという音とともに部屋が明るくなる。
僕は彼女に「おかえり」の一言をかけた。いや、かけたつもりで音にはなってないことを僕は知っている。一生懸命、彼女の帰りを喜び、仕事の疲れを労おうとしても声にならない。
何度も彼女に届くように心の中で念じた。
――棚から何かが落ちる音がした。
棚から落ちたものを拾うと、彼女は僕の前まで来てくれた。
そしてゆっくりとその場でしゃがんだ。
よく見ると膝を擦りむいたようで、大きめの絆創膏が貼ってあった。
「おかえり」
彼女は僕に優しく声を掛けた。
その表情は、どこか悲しそうに見えた。仕事で疲れているのかな。
帰ってきたのは彼女の方なのに、おっちょこちょいだなあと、僕は思ったけど、声をかけてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
彼女は僕の背中に手を回し、右に三回ぜんまいを回した。
今まで重かった体が嘘みたいに軽くなって、僕は三回バンザイのポーズを取った。
その姿を見た彼女は、優しく微笑みかけてくれた。
僕はまた嬉しくなって、もう一回バンザイのポーズを取ろうとしたけど、体がとっても重くて上手くできなかった。
「おやすみ、また明日」
彼女が僕に声をかける。「おやすみ」と返事がしたかったけれど、一生懸命念じるだけで声にならなかった。
――台所で何かが落ちる音がした。
パチッという音とともに部屋が暗くなる。
今日は金曜日の夜。
彼女は金曜日にはいつも早めに帰ってきてくれる。
僕は彼女の帰りをじっと待ち続けた。
玄関の方から彼女の靴を脱ぐ音が聞こえた。
そして、パチッという音とともに部屋が明るくなる。
僕は彼女に「おかえり」の一言をかけようとしても、それはできないことだと知っているから、諦めて彼女がこっちに来るのをおとなしく待った。
「ただいま」
彼女は僕に優しく声を掛けた。
帰ってきたのは彼女の方だから、今度こそは間違っていないなと思った。
彼女は僕の背中に手を回し、左に三回ぜんまいを回した。
体が軽くなって、僕は三回屈伸した。
その姿を見ていた彼女は優しく頭を撫でてくれた。
嬉しくて、もっと屈伸したかったけれど、体はすぐに重くなるからそれは出来ないことだと知っていた。
「明日は、一緒にデートに行こうね」
彼女の言葉を聞いて、もっと嬉しくなって、彼女にありがとうの言葉をたくさん、たくさん心の中で念じた。
――お皿が割れる音がした。
目の前が真っ暗で何も見えない。
暗いだけじゃない、狭い。すごく息が苦しい。
でも実は僕は息なんてしてない、ことも知っている。
それでも息苦しい理由はまだ分からない。
しばらくすると、ジジジとチャックが開く音がした。
真っ暗だった空に一気にオレンジの光が差し込んだ。
「ついたよ」
彼女はカバンから僕を取り出すと、ベンチに座らせた。そして隣に彼女が座ってくれた。
遠くで大きな観覧車がゆっくりと回っているのを見つけた。
それを見ていると、何故だかとっても胸が苦しくなった。
どうしてだろう、さっきの苦しさなんて、なんでもなかったぐらいに苦しい。
「もうすぐ夕方の六時だよ」
僕の見ている観覧車の真ん中には、1755の数字が並んでいた。
あと五分であの観覧車が光りだすことを僕は知っている。
待ち合わせはいつも僕の方が早く着いていた。
彼女は、化粧が大変だ何だと言い、いつも遅れてくる。遅れてくるのは毎回のことだから僕が少し遅く来ればいいと分かっているのに、いつも時間通りに着いてしまう。
彼女を待つ間、僕は今度こそ文句を言ってやると思っていた。僕のためにしてくれるという化粧で、僕のことを待たせていたら本末転倒じゃないか、と。
20分ぐらいすると、彼女は大慌てでやってきた。
「遅れてごめんね!」
そう告げると、彼女はポケットから出した缶コーヒーを僕に渡す。
急いできたせいで、髪形も化粧も無茶苦茶で、それでも笑顔で缶コーヒーを渡す彼女。
言いたかった文句って何だったっけ。
そう、僕は知っている。
――僕は、彼女が大好きだった。
その後、電車を一時間ぐらい乗り、目的地である遊園地に向かった。
彼女はこの遊園地が好きだった。
ちなみに、僕はそうでもなかった。
僕は人が多いのが苦手で、高いところも苦手だった。
しかし、彼女は僕の手を引いて、色々な所へ連れまわす。遊園地好きな彼女に一日付き合うだけで、とっても疲れた。
そんな彼女が決まって最後に連れて来る場所は、遊園地の外の公園のベンチだった。
彼女はこの場所が好きだった。そして何故だか僕もこの場所が好きだった。
「もうすぐ、六時だよ!」
遊園地に行くと最後は決まってこの場所に来る。
目の前に観覧車があるこの公園からはライトアップの瞬間が一番よく見える……訳ではなかった。
この場所は確かに、観覧車が一番見える場所ではあるけれど、この時間は後ろの夕陽が逆光で、ライトアップが綺麗に見えなかった。それでも、僕はこの場所が好きだった。
観覧車の文字盤が1800の数字を映し出すと同時に、一斉に光りだした。
「私、実はこの場所自体はそこまで好きじゃなかったな。夕日と観覧車の光ってあんまり相性良くないし」
僕もだ、と心の中で念じても彼女には伝わらないことを僕は知っている。
彼女は僕の背中のぜんまいを一回手前に引いてから右に三回、回した。
体がいつもよりずっと軽くなった気がした。これならどこへでも行けそうだ。
でも、僕はどこへも行かない。
彼女の右手に僕の左手をゆっくりと重ねた。
「そっか、君もそんなに好きじゃなかったのか。じゃあどうして、私たちはいつもここに来ちゃったんだろうね」
その時の気持ちをどうしても伝えたかった僕は「それは……」と心の中で念じた。
――辺りの草木が静かに揺れる音がした。
「私はね、君がどうしてだか、ここに来ると、とっても嬉しそうな顔をしてくれるから、ついつい最後はこの場所に来たくなっちゃうんだ」
彼女は僕の左手を優しく握り、あの時のように心からの笑顔で僕の目を覗き込んだ。
そっか、彼女も同じだったんだ。
僕もこの笑顔が見られる、それだけでこの場所がとても好きだったんだ。
それは僕を慰めるための優しい笑顔じゃなく、本当に嬉しい時にだけ見ることができる彼女の本当の表情。
「そろそろ暗くなるから行こっか」
彼女は僕を優しく持ち上げ、折り畳んだハンカチをクッションの代わりにして、寝かすようにして鞄の中に仕舞い込む。
「もう一つ、最後に行きたい場所があるから、もうちょっとだけこの中で我慢しててね」
その時最後に見た、薄いオレンジ色に照らされる彼女の顔はどこか悲しそうだった。
次に気が付いた時、僕の体は半分土の中だった。
ごめんね、ごめんね、と言いながら小さなスコップで冷たい土を僕にかける。
皮膚なんて無いんだから、暖かいも冷たいも無いのに。
やめて、やめてと一生懸命に心の中で念じた。
――彼女の体が少し吹き飛んだ
それでも彼女は起き上がって、そして僕に謝りながら土をかける。
こんなに謝っているんだから、いつもみたいに許してあげたかった。
でも、このままだと彼女とお別れしてしまう、そんなのいやだ、いやだ、と念じた。
――彼女の体がさっきより遠くに飛んだ
ゆっくりと起き上がり、こっちに戻ってくる彼女。
彼女の膝から血が出ているのが分かった。
僕はそれを見て、彼女とのお別れを考えるよりも悲しい気持ちになった。
お別れも嫌だったけど、これ以上彼女が傷つくのはもっと嫌だ。
ごめんねとさよならを交互に言う彼女。
僕の体はもうほとんど土の中、彼女の声もだんだん聞こえなくなる。
最後に、さようならと心の中で念じた。
――何も起こらなかった
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