森のおじさん

双海

第1話

 木々から生えている肉厚な葉が光を遮り、日中でも夜のような闇を内包する深き森――と言うほどではありませんが、とりあえず森と呼べる土地に彼の者はいました。

 住んでいる建物は、木々の幹を利用しつつ枝を組み合わせて作られた壁と屋根。屋根には枯葉を分厚く重ねてあります。酷く簡素で、子供の作った秘密基地にしか見えません。

 けれど、いえ、故に、というべきでしょうか。近隣の村から子供たちがよく遊びに来ます。

 最初に彼の者の家を見つけたのはどの子でしたか。誰であったとしても、もはや手遅れであることに変わりはありませんが。

 そして今日もまた、幼いお客様がいらっしゃったようです。


「物知りおじさーん!」

「おっはよー!」


 子供特有の良く響く高い声。数人の子供たちが、元気に満ち溢れた挨拶を彼の家に向けます。とてもとても元気いっぱいに。死者さえ目を覚ましかねないほどに。

 彼らの声を前に眠り続けることは至難の業です。無論、彼の者もその例には漏れず、ぼさぼさの髪と、下着だけのだらしない恰好で姿を現しました。

 表情はとても不機嫌そうです。それもそのはず。彼の者の行動時間は主に太陽が完全に沈んでから空が白み始める直前まで。つまり眠り始めたのはほんの少し前です。

 完全な安眠妨害。ですが子供たちは気にする素振りさえ見せず、ニコニコと愛らしい笑みを浮かべて、彼の者に詰め寄りました。


「ねーねー、今日はね、この子がおじさんにソーダンしたいんだって」


 背中を押される一人の少年。他の子供たちとは違い、彼だけは沈んだ表情をしています。

 また面倒な。口に出さなくても、彼の者の顔は言葉以上に雄弁です。相手がある程度の年齢以上であれば、多少気を遣ったでしょう。が、無邪気な子供たちには通用しません。相談したい少年は切羽詰まっているようで、彼の者の心情に気を配る余裕など、余計にないでしょう。


「えっとね、ぼくのお母さんがね、むずかしいことをいうんだ」


 何を言ったんだ? 彼の者はそんな疑問を思い浮かべないように努めますが、所詮無駄な努力。少年はすぐに言葉を繋げます。


「『いいことをするのはえらい子。でもわるいことも知らないとダメだ』って。ぼく、わるい子にならないといけないの?」


 知るか。そう吐き出したいところでしたが、彼の者はぐっとこらえます。何しろ相手は彼の者の腰より小さい子供。世間でいう弱者です。どれだけ迷惑だと思っていようとも、そんな幼子相手に怒鳴れるほど、粗暴者ではありません。悪く言えば、他人の子供を叱ることが出来ない小心者でした。


 ともあれ、このまま無視しているわけにはいきません。他の子供たちが、変だよねー、ねー? と言い始めています。次の段階に進むと、どうしてどうして? と彼の者は体中を掴まれ、揺さぶられてしまうでしょう。すでに経験済みです。

 寝起きの体に揺すられ攻撃は、吐き気という意味で危険だと重々承知している彼の者は、渋々少年の前で屈み、なるべく視線の高さを合わせながら口を開きます。


「多分な、お前のお母さんはいろんなことをお前に知って貰いたいんだ。例えば、火に触ると熱いだろ? もう触りたくないって思うだろ?」


 少年だけでなく、他の子供たちも大きく頷きました。


「知るってのはそういうことだ」

「じゃあ、やっぱりわるい子にならないとダメなの……?」


 あー……と彼の者は声を漏らして後頭部をボリボリ掻きます。寝ぼけた頭で例え話なんてするもんじゃないな、と自分のミスを認識しつつ、また口を開きました。


「悪い子にならなくても、失敗する時はあるもんだ。その時、大なり小なり周りに迷惑をかける。結果、友達と喧嘩になったり、両親に怒られたりする」


 問題はそのあとだ、と彼の者は人差し指を立てながら続けます。


「ちゃんと自分が悪かったと気づいて、相手にごめんなさいが出来るようになればいい。相手も悪いところがあれば、お前にごめんなさいをする。そんで仲直り。みんな幸せ、みんな平和」


 悪いことを知るってそういう意味だと俺は思う、と言い彼の者は話を終えます。

 そんな彼の者へ向けられる、純粋な眼差し。

 すげー! そういうイミだったのか! さすが物知りおじさん!

 子供たちから次々と感心の声が上がりました。が、彼の者は声の大きさの分だけ居心地の悪さを覚えます。何しろ最初から最後まで適当な言葉を繋げただけ。彼らが幼い子供でなければ、鼻で笑われたでしょう。

 世の中そんなにうまくいかねぇよ、と。

 彼の者自身、そう言われれば、その通りですね、としか口に出来ません。みんな幸せ、みんな平和、なんて言葉は語感だけを頼りに口から零れ出ただけです。それ以上の意味なんてありません。


 もう俺のことは放っておいてくれないかなぁ……。

 枝葉の隙間から見える青空を仰ぎながら彼の者はそう思うものの、次もまた幼い子供たちの純粋な悩みを解決するのでしょう。

 故に彼の者は、子供たちにとっての物知りおじさん。どんな問題も彼の者に打ち明けると即座に解き明かす、森の物知りおじさんなのでした。

 たとえその正体が、意中の女性に振られた勢いで世捨て人になろうとしたものの、野獣やら野盗やらはやっぱり怖いので、そこそこ村に近い穏やかな森を選んだ、ちょっと情けないおじさんであったとしても。


 

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森のおじさん 双海 @ftm2358

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