第三話 Akiraの刻印
社用車を駐車場に戻した藤也が、車の鍵を総務部室に返しに行く。加世田は先に三階の営業部室に戻るためエレベーターに乗った。そのまま廊下を進んでドアを軽くノックして「はいりまーす」と声をかけて。
「あら。おかえりなさい。十六時じゃなかったの?」
「ちょっと早かったですねー」「いいけどね」
返す相手は総務の唐鎌だ。割と気さくなおばさん——と言えば怒られるので言わないが、小柄な年配の女性だ。ちょっと鍵を戻す手が止まって藤也が考える。受付テーブルの向こう側から唐鎌が言う。
「どしたの?」
「あのですね。唐鎌さん。先日おまわりさん来たでしょ?」
「ああ……社員証の件だっけ?」
「そうそう。現物見たんですか?」
「応接室で、ちらっとね。加世田さん対応したじゃない。お茶持って行った時に呼び止められてさ。なんだよ巻き込むなよ大ちゃーんって。言わないけど」
「言いそうだけど」
「言わないわよおまわりさんじゃん相手は。気持ち悪いよね焦げててさ。なんかぞっとしたんだけど。持ち主見つかった?」
「まだ……です。たぶん。名前、ありましたよね」
「Akiraってローマ字だけね」
やっぱりあるよなあ。と。なんでそんなことを自分でも聞いたのかわからない藤也が頭をさげる。
「どもです。この件はしばらく」
「はいはいナイショね。加世田案件はロクなもんがないわね」
調子良さそうに唐鎌のおばさんが手を振って笑った。
むしろ固まっていたのは部屋に帰って先にその社員証を両手の指で持ったままの加世田で、椅子に腰を下ろしデスクに両肘をつき溶けて焦げ付いた表面を顔の真正面に近づけてじっと。しばし見つめたままで。確かに表面の名前の部分、ローマ字が刻印されているファーストネームの〝Akira〟の文字だけが読める。
何かの記憶違いだったか?
だが該当者がいない。事態は変わっていない。
ありふれた名前だが意外に少ない。本社には一人、関西支社にはゼロだった。本社の
ドアが開いて藤也が戻ってきた。ノートのモニタを覗き込みながらぼおっと固まっている加世田に声をかける。
「鍵返して来ました」「そうか」
「どしたんです?」「いや……」
横まで歩いてきた藤也にノートの画面が向けられたので。デスクの脇から覗き込んで。
「この日が、どうかしましたか?」
「お前のスケジュールにも載ってるか?」
「ええ」「うーん」
カレンダー上の予定をカチリと押して詳細を見る。メモに〝社員証の紛失記録なし 非該当〟とだけ書かれていた。
完全に線が途切れる。
この会社に、焦げた社員証の持ち主がいない。
仕方ないので別の線から探ることにする。
「ベルター・ジャパンの担当は泉だったな」
「そうですよ。もう一回電話します?」
「俺がする」
「番号入ってます?」
加世田が取り出したスマホの連絡先をざあっと流せば泉の名前があった。躊躇なく電話をかける。横に藤也は立ったままだ。数回の呼び出し音の後。
『どもーっ。お久しぶりですー』
「メディックワーズの加世田です」
『ベルターの泉ですー。その節はもう、ほんとーっに申し訳ありませんでしたーっ』
妙に
「さっきウチの
『どぞどぞー』
ちょっと軽く部屋を見渡して加世田が切り替えたスマホをテーブルに置いた。
「聞こえますか?」
『はーい。大丈夫ですよー。円居さーん?』
「あ、どーもですー」『どもー』
「早速なんですがね、
『いやーもういろいろとご迷惑をおかけしましてー。あんな大きな病院紹介していただいてたのに済みませんでしたー』
二人が顔を見合わせる。そのまま加世田がふわりと探りを入れる。
「今日もちょっと行く用事がありましてね。話題に出たもんですから」
『こんなのに巻き込まれて、怒ってたんじゃないですかあ?』
「いやあ、まあ。で、どうなりました?」
『今はもう独立型ですよー今まで通りですねー』
「当面は、それで行くんですか?」
(うまいなあこのおっさん)
藤也が呆れる。
『そりゃあですねー。さすがにFBIとかまで出てきたらですねー』
「……は?」
『あれ?』
まずい。加世田が賭けに出る。
「そんなことになってたんです? ウチはそこまでなかったなあ」
『あれー。これ言っちゃダメなやつ? ナイショでお願いしますよー』
通った。藤也の口が半開きになる。通ればむしろ聞きやすくなった。加世田が話に突っ込む。
「もちろんですよ。FBIってのはアメリカの? なんでそんなことになってんですか?」
『本当にオフレコですよー。メインコアの教授が死んじゃったじゃないですかー。自殺らしいんですけどねえ、モノがモノだけに色々勘ぐられてですねー』
「なんって名前でしたっけなあ、あの」
『フリードマン教授ですよー』
「ああ。そうそう。それでFBIですか」
『ねー。量子コンピューターなんて採用するからあああああああああ』
——音が跳ねる。ふっと一瞬。
スマホの画面が真っ暗になったような。
ぐわあっと。
周囲の空気が揺れたかのようで。
しかし。デスクに藤也が。
「と、とっ」と手をついたのだ。——
「大丈夫かお前」「あ、あ、えと」
『どしましたー?』
「今、地震ありました?」
『いえー? 最近はちょっと揺れたらコレうるさいですよねー』
「ですねえ。じゃあもう
『そうなんですよー』「へっ?」
よろめいた藤也が机に手をついたまま加世田の顔を見る。「うん?」と振り向いて、またすぐ。
「もうホワイトペーパーも読めないんですかね?」
『ネットには残ってないですねー。私データ持ってますが、ちょっと外には流せなくってですねー』
「ああ、いいですいいです無理しないでください。じゃあまた」
『またいいとこあったらご紹介くださいねー』
最後に営業文句を忘れずに相手が電話を切った。加世田が暗くなったスマホの画面をちょっと見たまま、おもむろに取って仕舞ってノートパソコンに向かって。ブラウザを開いてかたかたと文字を打つ。
〝hppc.io〟と。
「存在しないページ」と表示が出た。
椅子の後ろから藤也が覗き込む。
「なんですこれ?」
「ヒポクラテス=プロジェクトだ」
「え? なんです?」
「おまえ、座ったらどうだ」
加世田が横の机の椅子を指した。指したまま、しばし固まる。俺は今、何を思い出したのか? と。
◆
加世田のデスクに椅子を引っ張ってきた藤也が向かい合って。普通に頷くので。
「
「ええ。医療データの巨大化ですよね」
「そうだ。
「リスクありますよね、だからクラウド化されてきてるんでしょ?」
「それでも中央管理には変わらない。プロに任せてリスクは減っても、今度はサーバを外部で運用するコストが凄まじいことになってくる。でかい病院ほど患者データの保管に金がかかるんだ。世界中がそうだ。逆に、へき地や後進国の医療が遅れているのは、ぶっちゃけた話、高価な医療機器を導入する金がないからだ」
「ええ……あ、ひょっとして?」
「そうだ。この二つを結びつけたプロジェクトが発足した。患者データを暗号化してブロックチェーンで分散管理する運用方法だ。世界中のサーバを使ってな。巨大な病院が地域の病院に患者データを保管する。その対価を支払う。元々は〝へき地医療の適正化〟で考案されたんだけどな、向こうさんが飛びついてきたんだ。医療格差は海外の方が酷いから……な」
ちょっと言い淀む加世田に。
「どうかしました?」
「俺は、前にも同じこと話さなかったか?」
「自分にですか?」「うーん」
「聞いてないですね」
「そうか。——このプロジェクトのユニークなところはな、自分とこの患者データが世界中のどのサーバに保管されているか、当人ですらわからないってとこだ。暗号化されたデータは〝どこか〟に飛んで行って、そのサーバの持ち主でさえ、自分のサーバの中身が〝どこの誰の診療データ〟なのか知らない。それを保証するのがブロックチェーンだ。Aという病院からBというサーバにそのデータが流れたという記録さえ台帳に残っていれば、BのデータはA病院のものと判別できる。中身は誰も知らなくても関係ないんだ」
「ビットコインと一緒?」
「まあ、そうだ。支払いもプライベートチェーンのトークンで行う。支払う側は取引所でトークンを買ってチェーンに投げ込み、それが分散してサーバ側の医院にトークンで払い出される。これも金融機関を挟まない。すべて分散管理だ」
ぎいと加世田が椅子を鳴らす。
「仮想通貨と一緒だな。違うのはチェーンがプライベートで、医師免許を持たないものは入れない、ってとこだけだ。なので、それにもう一つ別のプロジェクトが付与された」
「別のですか? 診療データの保管だけじゃなくって?」
「考えてみろ。世界中の患者データが繋がってるんだぞ。しかも全部匿名だ」
さすがに医療機器メーカーの営業だけあって、藤也がすぐに答えを出す。
「症例研究にもってこいですねえ」
「そういうことだ。若い医者が行き詰まった時、過去の症例を調べたくなった時、デスクのパソコンから世界中の症例データが匿名で見られるネットワークに入れるなら?」
「それすっごい便利じゃないですか。え? ベルターの新型ってそんなシステム組み込む予定だったんですか?」
「患者のプライバシーと診療画像が内部で分割されているDICOMデータだからできることだ。医療格差の二つ目の原因は〝研究機会の格差〟なんだ。世界中の症例研究会は先進国の大都市で行われる。それはひとつのビジネスとして成立している。俺たちだってメーカーをスポンサーにしてイベントや商品説明会、組むだろ? よその国でも一緒だ。行けない医者はずっと大都市に行けないんだ。ベルター社は廉価版も出す予定だったんだ」
はああああと感心して。しかし。
藤也が不思議そうな顔になって。
「こんな話、なんで聞かせてもらってないんですっけ?」
「いや言ってなかったか?」
「聞いてたらめっちゃ売り込んでたかも」
「そうでもないな」「なんでです?」
「だって怖いさ。仮想通貨だって怖いだろ今でも。患者データを隔離されたチェーンとは言っても匿名の相手に保管してもらうんだぞ? 手をあげる医院がそんな……」
目を合わせた二人が、しばし。また固まる。何度目だろうか。思い当たる。そういうことなのか?
「西綾谷を、俺らが紹介したんだっけか?」
「プロジェクトの実験にですか?」
二人の脳裏に。別々の記憶が断片として。
加世田章大は思い出した。ブロジェクトのトレードマークだ。有名なマークだ。医療従事者なら、いや、一般人でも一度はどこかで見たことがあるその印章は。
翼の生えた杖に巻きつく〝蛇〟だ。ヘルメスの杖だ。なぜ今。それを思い出したのか? ふと見た藤也の顔に釘付けになって。
「……どうした円居?」「え?」
——事故っても知りませんよ? 社用車使ってくださいよ——
円居藤也の頰に。一筋の涙が
エルドラゴニアSIDE-B 魂の台帳 遊眞 @hiyokomura
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