第二話 西綾谷総合病院
多分にミステリアスな事実とは言っても藤也にはそんな瑣末な出来事に思いを馳せている時間の余裕があるわけでもなく、そこから数日は相変わらずクライアントの対応でばたついていた。
結局は勘違いかもしれないのだ。
人の記憶はあやふやで、逆に事実は揺るがない。
その拾った人間が誰かは知らないが七日の昼にも見た記憶があるってのも勘違いかもしれないし事務の唐鎌さんが見た覚えがないってのも単に見落としただけかもしれない。そもそもそんなものしっかり頭に残している方がおかしいわけで、仕事のアポとかならともかく道端に落ちていた普通なら目にすら留めない名刺大の煤けたゴミのような社員証がどうだったかなんて、そりゃ誰でも記憶なんて
だいたい大事ではない。急ぎですらない。少なくとも藤也にとって急ぎの案件は落雷によるシステム異常の復旧——むしろそのほとんども特に大事には至らなかったのだが、営業部としての復旧のサポートが優先であって、一通り仕事が落ち着いてきた数日後には
「ちょっとは落ち着いてきたか円居」
「そうですね、逆に今回の件で
「まあこういうのはチャンスだったりする。いい流れに持っていけ……明日は少し時間取れるか?」
「明日ですか? 何時頃です?」
「午後だ。外で飯食おう。十一時から十六時で出しといてくれ。あと使用許可証もな」
珍しいこともあるもんだと藤也が思うが、昼飯にしてはちょっと時間が長い。
「車ですか? 遠出するんです?」
「まあ、そうだ。運転頼む」
「いいですけど……どこ行くんです?」
「西綾谷だ。昔の知り合いに会う」
————
都内を離れて郊外まで車を走らせる。途中に寄った昼飯はずいぶんとこじんまりとしたとんかつ屋で、日頃の外食はチェーン店しか使わない藤也にとってはいささか敷居の高い店だったが味はもちろん申し分ない。そして、そこそこの値段を払った加世田は領収も受け取らない。
「えーっと。いいんですか?」
「気にするな。車取ってきてくれ」
だいたいこういう時の昼飯は時間調整の意味もあって、小高い丘の上の西綾谷総合病院の敷地に入ったのがほぼ十三時だった。この頃ならちょうど院内は昼休みで、午後の外来が始まる前に目当ての人間にも会えるだろう。なにせ総合病院の関係者は上から下まで忙しい、捕まえるのも骨なのだ。
ただ前もって連絡をしていたのかもしれない、病院の駐車場に社用車を停めてしばしの時間も経たないうちに、通用口から一人の男性がこちらに向かって歩いてきた。助手席の窓を開けた加世田が軽く手を挙げる。
白衣を着ていないので内勤なのだろうか、細身でやや髪が長く、細目と痩けた頰が相まって、ずいぶん神経質な印象を受ける。実際、男は加世田に手を振り返すわけでもなく、後部座席のドアをぞんざいに開いたと思ったら勝手に乗り込んできて勢いよく閉めたのだ。
こういう気難しいタイプもたまにはいるので藤也は驚くこともなく、むしろ名刺はカバンだっけと慌ててトランクに回ろうとするのを加世田がとめた。
「名前だけでいい」「あ、
「医事課の
開口一番、めちゃくちゃ不機嫌そうなのだ。きょとんとする運転席の藤也をじろおっと見た男が続けた。
「彼はいてもいいの?」「構わん」
「じゃあ話しますけど。まだ部外秘ですよシステム入替の件は。どっから漏れたんですかね? まだどこにも打診もしてませんが」
「えっ?」「診療部もだろ?」
「一部の人間だけですよ。当然でしょう?」
「で、ベルターの〝
まっすぐ切り込む加世田に、ちらと藤也が目を向ける。確かに例のプレゼン資料にはウチが扱うベルター社の統合システム〝メディカル・ターフ〟の名前が書かれていた。
「挙がってましたよ。理事は三人ほどクラウダーの〝メディパルストⅢ〟を押してきてますけどね」
「クラウダーは安いが保守が高いぞ」
「はい。はい。そうです」
クラウダー社は保守料が高い、藤也も知っている。なのでわけもわからず話を合わせる、が。またしても。男は冷たい視線をじろっと二人に向けるのだ。
「加世田さん。もう大人しくしてた方がいいんじゃない?」
その言葉に。車内が沈黙に包まれる。加世田が、返した。
「——大人しくしろって、なにがだ?」
「は? いや、だから……あれですよ」
「あれ、とは?」「え?」
藤也が加世田と翔葉の顔を交互に見るのだが。また二人とも黙り込んでしまった。細い顎を撫でながら細面の男は、考え込んでしまう。どうも話が噛み合わない。今度は加世田が訊いてみる。
「おまえ、なんでそんな機嫌悪いんだ?」
その言葉に細い目をわずかに見開いて男が驚くのだ。
「いや。だってまずいでしょ」
「そりゃ部外秘が漏れればな」
「そうじゃなくって。新型〝
前の座席の二人が固まる。男がとんでもないことを言い出した。かろうじて加世田が聞き返す。
「……新型? 死んでるって誰が?」
「はあっ? 教授ですよ。いや。加世田さん?」
「教授? ここのか?」
「なんでですかっ、ヒポクラテスの……えっと、
(えええええええええ)
————
それはないんじゃない? と思いながらも仕方なく、藤也は二人を車に残してやや離れた場所でぼおっと。広い駐車場の外縁に視線を飛ばす。
西綾谷総合病院は東京近郊、とは言っても車で一時間ちょっとの小高い丘の上にある。この辺りは東方面は見晴らしがいいが、それ以外は山ばかりだ。今日みたいな天気のいい日は緑の匂いが気持ちよく、入院の患者だろうか、ぽちぽちと介護の人に寄り添われて散歩しているのも目に留まる。
人が死んだ、とは。なんだろう?
画像診断システムなんて、そんな大袈裟な話ではない。確かに金額は動くかもしれないが大病院で端末と回線が複雑になればハードもソフトも含めて見積もりがかさばるのは普通の話で、個人病院でも入れているところは入れているのだ。それに備え付けの医療機器そのものは一千数百万なんて話ではなく桁が違うのだ。
何か事件になるようなおおごとでもないんだがなあ、自分の感覚が麻痺してるのかなあ、とか。いろいろ考えてしまう。ちらと車を見れば、まだ加世田と翔葉は熱心に話し込んでいるようなので、自販機で缶コーヒーでも買ってこようかなとポケットの小銭を探りつつ、正面玄関の方に足を向けた矢先。
「あ、あの……」
後ろから。声をかけられた。
藤也は。振り向くべきだったのか。
振り向かない方が、よかったのか。
その女性は事務員のようであった。緩いウェーブのかかったセミロングの髪と、大きめの瞳と。しかし、藤也の意識が一気に集中したのは、彼女の胸だ。胸元だ。
ネームプレートには「
その名を見た瞬間。藤也の意識の奥の奥で。
わずかに不可解な揺れが生じて。
目眩がして。
少し、足がふらついてしまったから。よろっと数歩、下がる。目の前の女性が慌てた。
「あ。あのっ。具合、悪いんですか?」
「いや。えっと大丈夫ですっ」
そうは言いつつもなかなか立ち眩みが止まないので、つい藤也がしゃがみこんでしまった。一緒に彼女もしゃがんで覗き込むように言う。
「誰か呼びましょうか?」
「あ、いえ。ホントに。患者じゃないんで。はい。なんだろ、ちょっと疲れたのかなあ」
「そんな、知ってますよ。カミナリの件で忙しかったんですよね?」
「え?」
無理にちょっと笑顔になって。さゆりが言うのだ。
「メディックワーズさんですよね?」
言われた藤也が真顔で彼女の顔を見つめた。いや。そんな覚えはない。西綾谷に来たのは初めてのはずなのだ。しかし。
「えっと……自分、こちらに営業、来ましたっけ?」
「え? あれっ? ごめんなさい、違いました?」
「いえ合ってます。メディックワーズです。お世話になります」
よろけながらなんとか立ち上がった藤也が、手を貸そうとした彼女を大丈夫ですととめたところで、車の方から二人が歩いて近づいて来た。加世田が声をかける。
「なにかあったのか?」
「ああ。いえ。ちょっと立ち眩みがして」
訝しがって横から見る細身の男に、彼女が言った。
「あ、翔葉さん。峰田さんが探してましたよ」
「うん? わかった……じゃあ加世田さん。いいかな?」
答える代わりに軽く手を上げた加世田に、翔葉も少し手を上げて、そのまま。さっと背を向けて歩いていく。彼女も二人に軽くお辞儀をして、その後を追った。
「……知り合いか?」「いえ」
「そうか。帰りは俺が運転する」
「えっいやそんないいですよ」
遠慮する藤也に向かって、ただ手を差し出すので。
「じゃあ。すみません」
藤也が車の鍵を渡した。
————
帰りの車の中では、加世田は少し寝ててもいいぞとは言ってくれたのだが。どうも頭が冴えて眠る気にならない。それに二人の話も気になる、が。相変わらずなかなか切り出そうとしない。この人はいっつも、そうなのだ。
「……あの、加世田さん」
「寝てていいんだぞ」
「結局。何しに来たんですっけ。例のプレゼンの確認ですか?」
運転したままの加世田が答えた。
「なんだかよくわからないことに、なったなあ」
「話、聞いてもいいんですっけ?」
「その前に電話してくれないか?」
「はい?」
「ベルター・ジャパンの担当、誰だっけか」
えーっとですねと呟きながら、藤也が社用スマホの連絡先を検索する。
「泉さんですね。今します? 何訊けばいいですか?」
「〝メディカル・ターフ〟に新型が出たのか、訊いてくれ」
「ああ、その件。出たらパンフ届いてると思うんですけど」
「見てないよな」「見てないですね」
そもそも病院における画像診断システムは、患者のカルテと診断所見、レントゲン、CT等を一画面でまとめて呼び出すシステムで、あれば便利だがそこまで何か特殊なバージョンアップは再々行わない代物である。新型なんて、何か変わることなんてあるかなあと思いながら藤也が電話する。が、繋がらない。代わりにぴこんと「後で電話します」とショートメールが入った。
「今は出られないみたいですね」
「そうか。まあ急ぎじゃない」
気の無い返事を加世田が返す。いつものクセで藤也がスマホを開いたついでにメールを受信した。ばばっと流れる受信メールの中に、関西支社の総務からのものがある。ああ、と思って藤也が開く。
東京本社 営業部 円居様
お疲れ様です。関西支社の総務の立川です。
加世田様からのご依頼の件、調査いたしましたが、
過去五年に渡って退職者含めて、該当する人物はいませんでした。
以上、ご報告いたします。宜しくお願いいたします。
「大阪から返事来ましたよ」「うん?」
「やっぱり、向こうにも該当者いないみたいですね」
加世田が。
ウインカーをツけて、車を端ニ停める。
「あれ、電話するんですか?」
「……該当者って、なんだ?」
「いや。だから下の名前ですよ」
「名前?」
「akiraですよ」
加世田ガ運転席かラ後ろを振り向イテ、じっトコチらノ顔を見ル。えラク真剣な表情なノデやや藤也ガタジロぐノダ。
「な、なんです?」
「akiraって、なんだ?」「へ?」
マルデ合点ノイカナイ顔ヲシテ加世田ガ訊イテキタ。ソレガムシロ藤也ニハ意味ガワカラナイ。ソモソモ関西支社マデ調ベテクレト言イ出シタノハ加世田デハナカッタカ。
「いやだから例のカードですよ、社員証」
「社員証が、どうした?」
「下の名前だけ読めたじゃないですか」
ココ数日ハ相変ワラズ対応デ、バタツイテイタノニ。余計ナ仕事ヲ振ッテオイテソレハナインジャナイカト藤也ガ思ウ。
例ノ社員証ノ下ノ文字ダケ焼ケズニ残ッテイタノデ、一応ココ数年退社シタ人間モ含メテ全社員ノ名前ヲ総務カラ聞イテオケト言ッタノハ加世田デアル。
加世田が。考エ込む。
「そう……だったな。結局、いないわけか」
「いや。こっちには一人いましたけど。村上
ないそうです」
顎を撫でて、少し首を振って。やがて。加世田が言った。
「戻ったら、もう一度社員証見てみるか」
「え? ええ、いいですけど」
意味がわからない藤也は曖昧に答えたのだ。
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