一ノ11

 学園祭当日の美術室に一歩入れば、まず目に飛び込むのは天井から床までグレーの布で緩やかに覆われた空間に置かれた今井の彫刻だ。白い石膏素材がグレーの空間にまるで浮かんでいるかの様に見える。薫が「欲を言えば照明を工夫したかった」と何度となく口に出して悔しがったほど、天井の蛍光灯だけがその空間に取り残された日常感を晒している。ぐるっと一周を眺められる様に置かれた彫刻の先には、白い布の壁に掛けられた由佳里の風景画がある。空と林と小さな集落を古典的構図で捉えているが、観る者の気持ちを一段階明るくするような透明感は作者の人柄が投影されているに違いない。その九十度横には薫の木彫レリーフが掛けられていて、小さな台の部分に置いたのは、インテリア感を少しでもごまかそうと薫が一週間前になって慌てて作ったものだ。由佳里にもらったダリのキーホルダーからヒントを得て、乾くと木の様に見える紙粘土で作った<溶けた枝>はちょうど良い具合にアート感を醸している。そして恵莉のパステル画は、更にその九十度横、すなわち由佳里の油絵の正面に貼られている。たったこれだけの展示だが、ところどころ絵具などで汚れた年季の入った布が美術部らしさを演出し、作品をじっくりと眺めることができるような雰囲気になっていた。布を集めたり縫い合わせたり、あえて汚れている部分をどの場所にするかなど、恵莉と薫で細かく計算して作った空間だった。名ばかり部員も代わるがわる来ては、予想を超えた展示に驚いた様子で銘々に賛辞を述べていった。

「よう。こんちわ。励んでるね?」

 と一際大きな声で、今井が美術室に現れた。薫があまりにも素早く振り返った様子を見て恵莉はひっそりと微笑んだ。

「こんちわ。今井先輩、どうですか?」

 と薫が言うが早いか、今井が言った。

「おい、これ、いいじゃんか!すごいな。いや、ありがとう。」

 今井が薫の手を強く握りしめて感謝の意を表した。薫は思わず顔を赤らめて言う。

「先輩が喜んでくれたら、それが何よりです。」

 今井は自分の作品の周りをぐるっと眺めて回りながら言った。

「ポスターも評判いいよ。他の部の中にあって、やっぱ美術部だな、って一目置かれてる。すごくいいよ。…ああ、ここか、ぶつけたってのは…ちょっと歪んだのかな?」

 今井に寄り添う様にしている薫が言う。

「ホント、すみませんでした。」

「いやいや、だって顧問が悪いんだろ?」

「実際扉をぶつけたのは顧問ですけど…。」

「気にすんな。今日こうして日の目を見たんだし。十分。もう忘れていいから。」

 と今井は薫の肩に手を置くと、由佳里の絵の前に歩を進めた。

「由佳里、やっぱりすごいな…。」

 今井はそう言うとしばらく黙って絵を眺めた。横にいた薫も何も言わなかった。恵莉は、二人の姿をぼんやりと眺めていたが、ふとほんのり光が揺らぐ様に見えた気がしたので慌てて別の方向に体ごと向けた。そんな合間にも、客が美術室に一人、また一人と入ってくる。恵莉は小さな声で、入り口に設けた受付の来場者名簿に任意記入を依頼しつつ、人数をカウントした。

 今井が薫のレリーフについて感想を述べ、薫も作品についての想いを一生懸命話しているのを見た恵莉は、静かに廊下に出て案内板を直したり、廊下の窓から屋外の様子を眺めたりして、少し時間を潰した。客が美術室から出て行ったことで再び室内へ戻ると、ちょうど恵莉の絵の前にいた今井が声をかけてきた。

「恵莉ちゃん、これ、いいじゃん。」

 恵莉はその言葉にドキッとして今井の肩越しにある薫の顔を盗み見ながら言った。

「あ、はい。ありがとうございます。」

「うん、いい。恵莉ちゃん、ありがとうね。」

「へ?あ、え?ありがとう…?」

 恵莉が戸惑っていると、今井は絵に向き直って言った。

「これ、いいよ。これを見て、美術部員が増えるといいな。もしかしたら、増えるかもしれないよ。うん。」

「へ?…あの…。」

 恵莉が今井の真意を理解しかねている。薫は、そんな恵莉の様子を察したらしく、笑いながら今井に向かって言った。

「先輩。俺らは、先輩の作品こそが実動部員を増やすことになるはずだって、それだけを信じて準備してきたんですよ?」

 すると、今井は自分の作品を振り返りつつ言った。

「いや、これはこれで、部員少なくてもこんなでっかいもの作って良いんだっていうアピールにはなるよ。でもこっちの絵は…。」

 と、恵莉の絵に向き直って続けた。

「これは、ホントに美術部員の、美術に対する真摯な気持ちを描いていて、それが観る人に伝わる。静かな、ささやかな、なんつうかこう、幸せみたいな、柔らかい感じがする。この美術部ってこういう感じなんだっていうのが素直に感じられて、これなら自分も入ってみたいって思えるんじゃないかな。」

 薫は今井の言葉に少し目を開いて驚いた。恵莉はその倍の目を見開いて、激しく動揺した。

「先輩…これ、そんな風に、見えます?」

 と、恵莉は今井に近寄った。今井は絵を見たまま深く頷く。恵莉は今井の顔越しに薫と目が合い、互いに複雑な想いが錯綜していることを見て取った。

「恵莉ちゃんは、理屈じゃないところを表現するのがうまいや。」

「それは…今井先輩のおかげなんです。ほんとに。」

 その言葉に、今井は、ん?という顔で恵莉に顔を向けた。

「先輩が教えてくれた、自分のセンスが反応するって話。あれで、私の中にスッと開通したというか、偏光板の向きが変わったみたいになって。ほんとに先輩のおかげです。ありがとうございます。」

 今井はほんの一瞬、薫の方を見てから、少し笑って恵莉に言った。

「いえいえ。お役に立ったなら嬉しいです。…ほんと、独特の表現があるんだね、恵莉ちゃんって。」

 今度は恵莉が、ん?という顔をすると、今井と薫が同時に笑った。

「いや、それにしても、二人だけでよく準備したね。ありがとう。」

 今井が改めて二人を労った。

「二人なのが、かえって良かったんです。」

 と、恵莉が言う。薫も

「そう。昨日の雨で床に布を伸ばすかどうかずいぶん悩んだんですけど、でも二人だと納得するまで考えられるし、納得できれば後はいちいち説明する必要もなくて…。全部のことがそんな調子で進められたんで。」

 と笑った。今井はそんな二人の様子を見て大きく頷いた。

「君達だから、だな。良かった。二人ともすごく楽しそうでいい。うん。」

 三人はそれぞれの思いを込めて笑い合った。美術室は照明が一つ増えた様に明るくなった気がして、恵莉は笑ったまま天井を見上げていた。

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