二
今井の卒業式が終わった週末、恵莉と薫は高校OBだという日本画家の個展を訪ねた帰りに近くにある大きな公園まで足を延ばした。公園内には噴水広場や広大な芝生が広がり、桜並木になっている歩道はちょっとした花見の穴場だった。良い天気だったが時折風が強めに吹く中、二人はのんびりと公園を散策しながら先ほどの個展についての感想を話し合っていた。
「日本画って生で見ると色が本当に綺麗で独特だったな。」
と、恵莉が言う。
「岩絵の具の色ってなかなか身近に見る機会ないからね。確かに印刷物で見るより断然綺麗だった。」
薫はもらったチラシを見返しながら歩いている。
「少し小さな不動明王の絵があったでしょ。ふふ…あれで幼稚園の先生を思い出した。」
「幼稚園?」
楽しそうに歩きながら恵莉が話し始めた。
「スポーツ好きで少しおっかない佳恵先生って人がいて。たしか副園長先生だったのかな、担任でもないのに叱られることが何度かあって、正直苦手だったんだけど。そんな佳恵先生が別の先生を怒っているところをたまたま見ちゃったことがあって、その時の佳恵先生がね、メラメラと、吸い込まれる様な紺色の炎を背中に沸かせて、ものっすごい鬼の形相で、まさしくさっきの不動明王みたいだった。」
「リアル不動明王?それ、相当の怖さだな。」
と、薫はわざと怯えた顔をしておどけて見せたので、恵莉も合わせて怯えて見せた。
「うん、怖い…ふふ。その頃はまだ、色と感情の結びつきははっきりわかってなかったけど、他にも同じ組の男の子が青くピカッて光った瞬間に喧嘩が始まったこともあって、なんだか青系に対する恐怖心はその頃から。」
「へえ。小さい頃から苦労してきたんだね。」
薫は恵莉の肩をポンポンと叩いて慰めた。
「苦労…なのかな?わからないけど…。」
「でも考え方によっては面白いよ。色に対しての感性っていうか、美術に対する見方が独特で、俺はそれが良いと思う。」
そう言った薫の言葉に恵莉は顔を上げて、ニッと笑った。
芝生広場には家族連れが何組かいて、小さな子どもが芝生の感触に興奮しながら走り回っている。そんな様子を眺めつつ、ぶらぶらと薫の横で歩いていた恵莉が何気なく口を開いた。
「いよいよ二年生だね。新入生は何人入部してくれるかな。」
「うん。もしかしたら二年生も何人かは新しく入るかもしれないよ。俺、学園祭の後から美術部のことで話しかけられることが増えたし。」
「せが…もとい、薫さんの秀逸な展示方法のおかげだよ。」
「いや、先輩とまつ…恵莉さんの作品が素晴らしかったからでしょ。」
薫に気付かれない様に、恵莉は少しだけ照れ笑いをした。
「名ばかりじゃない実動部員が増えるといいな。」
恵莉が言うと、薫も頷いた。
「ホント。いろんなジャンルの作品が生まれたらすごく盛り上がるよね。刺激しあえるような部員達がいたら、きっとレベルもぐんぐん上がるんだろうな。」
薫は賑やかな美術部を想像しているのだろう、楽しそうな顔をした。恵莉はそんな薫の様子を横目で盗み見ると、ほのかに複雑な感情が自分に湧き出たような気がした。
八部咲きの桜は、ざわっと吹いた風に煽られて花びらをはらはらと舞い散らせる。日向にいると少し暑いような、日陰に入れば少し寒いような、そんな春の陽気だった。恵莉は、美術部のおかげで大きく変化を遂げた一年だった、と改めて回想しながら風に弄ばれている花びらを目で追っていた。薫は、花びらを捕らえようと何度かシュッと空を切り、ついに一枚をその手中に納めると満足げな顔で恵莉にそれを見せた。恵莉はにっこりと笑って言った。
「綺麗。薫さんが持っているとより一層。美しい色だ…。」
恵莉は薫の手から花びらをつまみあげ、木漏れ陽に透かして見ながら、
「なんか、薫さんとこうしているのがウソみたいだなあ。」
と呟いた。薫は桜を見上げたまま
「ウソ?何が?」
と聞いた。少しの間があってから、恵莉が話し出した。
「自分がブサイクだから、美しい人には憧れる。しかも間違って女に生まれたから、男の友達に憧れる。薫さんは私の憧れを一人で満たしてくれたから、なんか、奇跡。」
恵莉の言葉をかみ砕く様に聞いていた薫は、ふと思い出した様に言った。
「そういえば前にもそんなこと言ったよね。男に生まれたかった、とか…。」
恵莉はその場にしゃがみこんで足元に点々と落ちている花びらの中から綺麗なものを探し始めた。
「うん。…うちの父は息子が欲しくて、私はずいぶんとがっかりさせたんだって。姉はちゃんと女の子らしくて。…美しい人は見る者を魅了するって、本当でね。美しい人に魅了された人からは老若男女問わず、蜂蜜色の蒸気が湧き出る。父からも、姉と話している時にたまに蜂蜜色が見える。…でも、私と話す時にはたまにモスグリーンの靄が見える…。」
「モスグリーン?」
「モスグリーンは、悲哀の色。」
「え…あ、もしかして、いつも男モノの服を着ているのって…。」
と薫が尋ねる。恵莉は花びらを選別しながら答える。
「女子っぽい服装は似合わないから、スカートを穿きたくなくて制服のない高校にしたんだけど、でも男モノの服を着たところでやっぱり男子みたいにはならない現実。…ふふ。なんか、もういっそのこと、性別を無くしたい。」
薫は、立ったまま少し見下ろす様に恵莉の話を聞いていたが、話が途切れたので両腕を広げて軽く伸びをしながら言った。
「…性別を無くす、か。また独特な表現だね。」
恵莉は立ち上がると、手の平に集めた数枚の花びらを薫に見せた。
「これを綺麗って思う感覚に、性別は関係ないでしょ?」
素直に頷く薫を見て、恵莉が続けた。
「これを今井先輩に教わったときは目から鱗だった。あの時から、この感覚はきっと大切にしようって、思ってる。」
そう言うと、恵莉は花びらを見つめて微笑み、薫も賛同の意を込めるかの様に頷いた。
二人はまた歩き出した。薫は、歩きながらも再び風に翻弄される花びらを捕らえようと、空に手を伸ばし、恵莉は偶然薫の服にくっついた花びらをつまみ上げる。そうして恵莉の左手には一枚、また一枚と花びらが増えていく。
向こうから来る五~六人の子ども達に道を譲るため薫の後ろに回った恵莉は、薫の背中を見たまま尋ねた。
「…そうだ、恋ってどういう風にやってくるの?」
「やってくる?」
歩道に木陰を落とす大木の枝からばさばさっと音を立てて鳥が飛び立ったのを目で追う二人は再び横並びになった。
「あ、違うか。どういう風に、落ちるの?底なし沼に沈む感じ?地下トンネルに吸い込まれる感じ?それとも、その辺の側溝に足踏み外す感じ?」
薫は、自分の経験を思い返しながら正直に答えた。
「ううんと…なんか、気が付くとその人のことを考えていることが多くなってて、それを自覚したときに、なんであの人のことばっかり考えてるんだ?って自分にびっくりして、そしたら余計にその人のことばっかり考える様になって、それがなんか加速するっていうかドキドキしだして…。そんな状態で目の前に本人が来たら、もうなんか、わぁーってバクバクして…。それで、これが好きってことなんだって、思った。」
恵莉は、まるで聞き取り調査をしているかの様に真剣な顔で薫の話を聞いている。
「ふうん…。ドキドキが加速するっていう表現は何かで読んだような、聞いたような気がする。」
「…自分で言ったけど、だいぶ恥ずかしい…。」
薫は耳が赤くなったが、恵莉は冷静に言う。
「恥ずかしいことないよ。すごく人間的で素敵。…いつかまた、薫さんの背中にあの綺麗な桜色を見るのが楽しみ。私まで幸せになれるから。」
恵莉は、ずっと手に持っていた花びらが光となって溢れ出る光景を想像した。薫の手はもう一度フラフラと落ちてきた花びらを掴み、恵莉の手の平に乗せた。
「…これ、今、光ってる?」
と聞かれ、恵莉はまじまじと自分の手の平を見つめると、
「ぜんっぜん光ってない。」
と笑った。そしてザワッと吹いた風に乗って、手の平から全ての花びらが飛び去ったことを見届けると、二人はまた歩き出した。
向こうから、幼い子どもの歩幅に合わせゆっくりと歩く親子が笑い声とともに近づいて来た。薫は何げなくその子どものはしゃぐ様子を目で追っていたが、すれ違ってから、
「楽しそうだ。」
と微笑んだ。そんな薫の様子を見て恵莉が口を開いた。
「物理の授業のときに閃いたんだけどね。すべての物質は周波数だって聞いて、それで頭の中で、ピコーンって音がして。」
「…ん?」
「どんな物質も量子的にみれば周波数があるから。」
「…う、ん。」
「物質も、気体も、細胞も、みんな周波数があって、みんな、周波数の集合体で、物質なり物体なり、そこに存在し得るのはそれがちょうどいいバランスになっていて。」
そう言いながら恵莉の歩調は徐々に一定になり、少し戸惑いながら薫が付いて行く。
「…う、ん。」
「だから、相性っていうのは、周波数の合う合わないだって思った。だから、位相と係数が一致やずれを生んでいて…。てことはつまり、私の見えるアレは、周波数が一致した場合に見えたり、同調したりするんじゃないかな、なんて。」
「…。」
しばらくの沈黙があり、恵莉は薫が横に居ないことに気付いた。慌てて振り向くと、すぐ後ろに立つ薫はどこか申し訳なさそうな顔をしている。
「あ、あれ?通じない?また独特すぎた?」
「…うん、独特過ぎた。」
「そっか。ごめん。私としてはものすごく納得したんだけど…。」
苦笑いする恵莉の隣に並ぶと、薫は顎に手を当てながら歩いた。
「うーん、理解は半分以下だけど…でもつまり、相性がいい人とは、周波数が合うってこと、かな?」
「うん、まあ、そう。だから、薫さんが幸せなときに、私もなんだか心地いいのは、周波数が合っている状態なのかなって。」
恵莉はどことなく楽しそうに歩き、薫も同じ歩幅で歩く。
「じゃあ、恵莉さんも恋をしたらいいな。」
「私?…私が恋をするなんて、考えられないけど?」
気のない様子で言う恵莉の顔を横目でちらっと見た薫は少し意地悪く言った。
「なんで?それはずるい。俺も、恵莉さんの恋で心地良さを味わってみたい。」
すると恵莉は、淡々とした足取りのまま呟く様に言った。
「ああ、そっか。…いつか、自分のも見えるんだろうか。」
薫も、恵莉と同じリズムで歩きながら言った。
「きっと、そのうち、びっくりするくらい、ピッカピカに光輝くんじゃない?」
「え、ピッカピカ?…ふふ。どうなんだろうなあ。」
そして、まるで二人三脚でもしているかの様に足音が揃った二人は、思わず顔を見合わせて笑うと、自然と手を取り、大手を振って公園を後にした。
恵莉と薫は二年生となり、新入生勧誘活動の期間になった。学園祭を期にそれまで名ばかり部員の受け皿でしかないと思われていた美術部は、美大を目指すレベルから初心者まで、彫刻からパステル画までと、かなりの幅をもって活動できることや、少人数で地味な分、真面目に美術を楽しむ部であると認識される様になった。二人は新入生勧誘のためのポスターをひっそりと美術室の廊下に貼り、体育系の部のような派手な勧誘も声かけも一切しなかったにもかかわらず、各々何かしら美術に興味を持った生徒が新たに入部した。一年生の頃から部長、副部長を担ってきた二人に、上級生は部長会などを通じて何かと面倒をみてくれ、同級生達は弱小部に対する若干の同情を込めて応援してくれ、そして新入部員からは厚い信頼が寄せられた。入部説明会では、由佳里のアドバイスを守り互いに「さん」づけで呼び合う部長、副部長の関係が、部の活動に対する熱心さと真面目さの上に成立しているものと受け止められた。これ以降、美術部内では皆が下の名前で呼び合う習慣まで生まれた。
気付けば、部活以外で無愛想だった薫はクラスメート達とも柔らかく美しい笑顔で会話する様になり、女子に対する愛想笑いもちゃんとできる様になっていた。恵莉もまた、時に薫の存在を支えに、他人の感情に振り回されることは少なくなった。そんな自分のことを
「感情の火の粉を振り払うだけの強さを身につけることができたのだと思う。」
と薫に説明したほどだった。二人で協力し合って部をまとめ、後輩へのアドバイスやフォローをしながらそれぞれの作品へも取り組み、割引券を部員達と争奪しては美術館めぐりをする日々はまるで、川面に浮かべた草舟の如く流れ、滞り、回転しながらも着実に経過していった。
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