三年生の夏休み前に部長引継ぎを済ませ、学園祭用の作品を早々に仕上げて下級生に託すと、薫と恵莉は部活の引退宣言をした。二人とも夏休み初日からそれぞれ予備校に通い出していて、夏休み中一度も顔を合わせることはなかった。

 恵莉は、工学部しか受験しないとずっと宣言していたにもかかわらず物理の成績は低調のままで、美術館へと気晴らしに出かける余裕などまったく無く、そんな状況を察したらしい薫が誘うこともなかった。いつだったか薫が、その独特の感性を活かせる分野を模索してはどうか、と提案したことがあったが、

「工学部は、男子っぽい。」

 と、恵莉が答えると薫はそれ以上何も言わず、進路に関しては二度と話題にしなかった。

 一方の薫は、第一志望も第二志望も模試ではA判定で、油断はするなと進路指導時に注意はされていたものの、一人、地元の美術館に来ていた。夏休みとはいえ平日のため来館者はほとんどおらず監視員も座っていない展示室で、薫は作品と向き合うことに集中できたのだが、冷房のためか妙に寒々しい常設展示は思ったよりも早く鑑賞し終えてしまった。展示スペースの最後に彫刻のレプリカが置かれていて「触ってみよう」と書かれてある。別の美術館でも似たようなコーナーがあり、「これは、作者にしか味わえないはずの感覚を体験できる」と恵莉が絶賛したことがあった。薫はこれでもかというほどレプリカを触りまくって作者の感触を存分に疑似体験すると、一度だけ大きく深呼吸をして美術館を後にした。ぼんやりと歩いていると、向こうから来る学生らしきカップルが目に入った。二人は楽しそうに手を繋ぎ、同じ歩幅と同リズムで歩いている。薫は、目で追っていた三本の如き四本の脚が通り過ぎると、思わず立ち止まって天を仰ぎ、空の色を確認した。ふっと息を吐いて正面に顔を戻すと、夕方だというのにまだ蒸し暑い西日を受けて一人、しっかりとした足取りで帰路に着いた。


 前日の雨は夜のうちに止んでいて、卒業式が終了した頃には眩しい日差しが路面の水たまりを全て干上がらせていた。卒業生達が友達や教師、在校生らと別れを惜しみながら写真を取り合う中、一人、また一人と校門から出て来始めた。体育系の部のような派手な儀式などは一切しない美術部は特に見送りがあるわけでもなく、濃紺のパンツスーツを着た恵莉は、人知れずそっと高校を後にした。すると、かなり後ろから聞き覚えのある声が恵莉を呼び止めた。

「恵莉さん。」

 振り返った恵莉は、学園祭で少しだけ会話を交わして以来の薫の姿を俯瞰した。グレーのスーツを着こなすその姿と晴れやかな笑顔は距離があっても恵莉にはかなり眩しく見えた。すっかりクラスにも溶け込み仲の良い友達が増えた様子だったから、まだ解散しない友達らを振り払って来たのかもしれない。恵莉はまじまじとその姿を眺めて

「美しい人だなあ。」

 と呟いた。本人が意図せずとも自然と会う人が魅了される理由はよくわかる、と思った。

 <よくわかる…?>

 と、何かが呟いたような気がした。

 薫は嬉しそうな顔をして

「恵莉さん。会いたかったよ。ぜんぜん会えなかったから。」

 と言いながら一歩ずつ、近づいてくる。

 恵莉は、薫の嬉しそうな顔をどこか他人行儀な感覚で見つめた。薫の晴れやかで喜びのはじける笑顔が、まっすぐに自分に向けられている。

 <なぜ?>

 と、恵莉の頭の中で何かが問いかける。

 <皆が惚れてしまうほどの美しく輝いた笑顔。それがなぜ自分なんかに向けられているのだろう?この違和感は何だ?久しぶりだからだろうか、それとも…?>

 少し会わないうちに、薫はますます光を強め輝きを増している。そして同じく少し会わないうちに、自分の中にこの光が不足していることを思い出した。

 <いや、違う。不足どころか、枯渇している。>

 と、何かが的確に訂正する。

 薫は近づきながら少しずつ両腕を広げ始めた様に見える。

 <ずっと、その光を渇望していたじゃないか。>

 と、頭の中に響いた言葉に恵莉はかすかに首を傾げる。

 <いや、でも…あれほど一緒に時間を過ごし、友達として語り合った薫は、これほどまでに美しい人だったか?求めていた光は、こんなにも眩しかったのか?>

 その問いかけに何故か急にドキドキし始めた。

 美しくて幸せな光が薫の歩幅と一緒に自分に向かってくる。

 恵莉は、薫の喜びの光が自分を包み込もうとしていることを察し、ドキドキがバクバクに変わったことに動揺している。

 薫は、また一歩自分に近づく。

 <あの光が自分を包んだらどんなに幸せだろう…。>

 と、白い靄の誘い文句にハッとした恵莉は咄嗟に自分の手の平を見た。糸のような白い光が、心細いほど弱々しく、それでも懸命に薫に向かってなびいているではないか。

 <いや、あの光諸共、その両腕に抱きしめられたなら…。>

 と、桜色のハレーションが唆すと、白い糸はものすごい勢いで渦を巻きながら竜巻の如く薫の光に向かって伸びていく。

 顔をあげると、薫はもうすぐそこにいる。

 初めて目にした自分の<それ>は、圧倒されそうなほどに光り輝いている薫に向かって同化を試みていて、しかし同時に躊躇している。

 自分の中で何かがかせめぎあっている。

 何かわからない両者が衝突している。

 <これは白だろう?>

 <いや、白ではないからこそ。>

 恵莉の視覚は、すぐ目の前に居る光の眩さに薫の顔を捉えることもできなくなった。

 早く決着をつけなければ。

 <白に包まれるなら。>

 <違う。白ではなく…。>

 桜色のハレーションが花びらの形となって竜巻に呑まれ、薫に向かって行くのが見えた。

 <そうだ。>

 花びらが光る。

 <いや、だめだ。>

 花びらが色を失う。

 光っては消えそうになる花びらがもう薫に届く、と思われた瞬間、恵莉の中の全てが決断を下した。


 恵莉は、よろける様に半歩、後ずさった。


 全ての光が消えた。

 薫の光も。

 恵莉の白も、花びらも。

 恵莉の視覚は、日常の美しい薫の顔を捉えた。

 薫の大きく広げられた両手はさりげなく狭まって

「恵莉さん、卒業おめでとう。」

 という言葉と共に、恵莉の右手を強く握りしめた。

「ありがとう。薫さんもおめでとう。」

 と、恵莉も言った。

「大学生活、頑張って。」

「薫さんも。」

「恵莉さんのおかげで、高校、すごく楽しかったよ。」

「私も。ありがとう、薫さん。」

「こちらこそありがとう。ねえ、恵莉さん…。」

 と、薫が言いかけたところで、後ろから薫のことをクラスメートが大声で呼んだ。恵莉は、薫の美しい瞳を見つめたまま、そっと薫の手を放して呼びかけに応じる様に促した。

「じゃあね。」

 と、恵莉は薫に向かって微笑み、そして背を向けて帰って行った。

 薫は、別れを惜しむクラスメート達に囲まれてしまい、恵莉に言葉の続きを言うことは叶わなかった。

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