エピローグ

 土砂降りの雨音がやたらと響く部屋に一人、恵莉は窓ガラスに顔を寄せて屋外の様子を眺めていた。昨日まで晴天で暑い位の秋の空気は一転、まるで冬がきたのかと思うほどに底冷えしている感じだ。白い雲がすぐそこまで垂れ下がり、美しく橙や茶へと変化した葉は雨に打たれてランダムに揺れ動く。道路に人の姿はなく野良ネコも鳩も姿を見せず、動いているのは、雨と、雨に打たれて落ちる葉、だけ。

 恵莉は、クローゼットからストールを引っ張り出して羽織ると、再び窓際に立ち、うすぼんやりと視界を埋めている靄の向こうを想像する。

 <この靄が晴れた先には、いつもと違う景色が広がっていたなら。愛おしさの蜂蜜色の世界が広がって、人々は幸せの桜色に包まれ、楽しみ、喜び、敬い、慈しみ、愛しさを込めてすべてがすべてを愛する様になっていて…そんなことを考えるのはこの天気のせいか、寒さのせいか?>

 止まない雨はない。明けない夜もない。幸せも不幸せも、楽しいもつまらないも、どんなこともどんな状況も、ずっと久しく維持継続することなどあり得ない。そんな当たり前のことを本当の意味で理解したのはかなり最近のことだ。波長は収束する。突発的な値は、逆位相によって均整化される。そんな当然が必然であると実感したのはついこの間のことだ。

 <…薫は、今どこで何をしているだろう。どんな人達と、どんなことをして、どんなことに喜びを感じ、どんな思いを共有し、共感し、どのくらい幸せを感じているだろう…。薫は、周りの人々を幸せにするような素晴らしい光を乱れ輝かせ、まばゆいばかりに美しく居続けているだろうか。>

 あの頃、もし恋をすることを知っていたら、あれほど薫と仲良く過ごすことはできなかっただろう、といまだに思い返すことがある。美術館で一日中、ひそひそと感想をいい、アイコンタクトで笑い、ツッコミ、疑問を抱き、推理をし、笑いあって時間を過ごした。友人との親密な二年足らずが、自分にとってかけがえのない時間だったと今でも思う。人の感情は今でもたまに見えることがあるが、自分の軸をしっかりと持っていれば翻弄されることはないと知り、過剰に避けることはなくなった。逃げたり隠れたりごまかしたりするよりも、自分を鍛える方が正解だと学んだのは、美しい友人との出会いがきっかけだった。

 <もしもあの頃の薫が今、目の前に現れたなら、その後の奇跡も経験も聞いて欲しい話はいくらでもある。でも再会したいわけじゃない…。>

 恵莉は時々、面白そうな美術展や博物展を見つけると、情動が穏やかで無趣味な夫を連れて出かける。夫は何事にも大きな関心を示すことがなく、自発的に非日常へ身を投じることをしないタイプの人間だが、それ故に恵莉が連れ出してくれることは嫌じゃない、と言って付き合ってくれた。互いに多忙なこともあり、たまのミュージアムデートではうっかり一人で没頭ないよう夫に気を遣いながら鑑賞するため、恵莉は必ず図録を購入して帰る。これから先も、少しずつ図録の数が増えていくだろう。そうしてゆっくりと夫との思い出が増えていく。持病を抱える彼との結婚は当初両親の大反対に合い、恵莉も彼も苦い思いをさせられたのだが、姉夫婦に男の子が生まれた途端、関心毎が全てそちらに向いたおかげで今は穏やかな日々を送ることができる様になった。あんな両親でも、そう遠くはない未来に介護せざるを得なくなると予見できるからこそ、恵莉は今が一番幸せな時期なのだろうと開き直り、夫との時間を大切にしようと決めている。図録が収まる本棚からテーブルに目をやると、翌日のデートに備えて購入した前売りチケットを手に取った。

 <明日は、晴れるかな。>

 忘れない様にとバッグにしまうと、定時で帰ると連絡のあった夫のために恵莉は夕飯の支度を始めた。


 日中は土砂降りだったが、夕方暗くなる頃には止んだ様だった。薫は休憩所の自販機でコーヒーを買い、ベンチシートに座って手にしていた資料を眺め始めた。すぐあとから休憩に来た同僚がコーヒーを買いながら薫に声をかけた。

「ようやく雨が止んだみたいだな。」

 雨だれが乾かない窓の外を窺いながらコーヒーをすする。それにつられて窓を見た薫が言った。

「あれ、もうこんなに暗いんだ…。館内にいると体内時計がおかしくなりそう。」

 そう言ってコーヒーを飲んだ。同僚は薫の手元の資料を覗き込み

「明日のギャラリートークの資料?申し込み、埋まったのか?」

 と聞いた。

「ああ、今日になって定員が埋まった。良かったよ。少ないと張り合いがないからな。」

「今日は雨のせいか土曜日の割に少なかったけど、明日は入場者数も少し増えるだろう。」

 そんなことを会話するうち、薫はふと思い出し笑いをした。

「ふふ…なんか、急に高校の頃を思い出した。」

 その言葉に興味が湧いたのか、同僚が薫の横に腰を掛けて聞いた。

「高校?何を思い出した?」

「学園祭…前日の準備が雨でね。美術部でさ。」

 薫はちらっと窓を見ると、コーヒーを一口含んでから続けた。

「展示方法に工夫を凝らして。それで、最大の問題は、床に布を敷くかどうかだった。」

「ああ…若い頃って、なんかどうでもいいことを真剣に悩むよね。」

 と言いながら同僚もコーヒーを飲む。

「そうそう。まさにそれ。部員が実質二人だけになっちゃって、四点しか作品がなくて。でも美大に行ったほどの先輩の作品はむちゃくちゃ恰好良かったから、その素晴らしさを多くの人に見てもらおうって、二人で随分と考えて…。」

 薫もコーヒーを飲む。

「部員二人?それじゃ、たいへんだ。」

「もう一人が、独特の感性を持った面白い子で、妙に気が合ってね。その子のおかげで展示は大成功、それきっかけで部員も増えて部活らしくなってさ。」

「へえ。いい話じゃん。」

 薫は前屈みになって両肘を両膝あたりに乗せた。つられて同僚も全く同じ姿勢になった。

「ふふ…懐かしいな。今、何してるんだろう。」

「連絡とってないんだ?」

「うん。仲は良かったけど、彼女、理系だったし大学は別で…。」

「え、女の子?なんだ、元カノの話?」

「ううん。そういうんじゃなくて、親友。」

「大学行ったら連絡とらないのに、親友って言う?」

「なんかね。受験で少し距離が出来たっていうか…。」

 薫はぐっと背筋を伸ばしてコーヒーを飲んだ。

「俺に、きっかけをくれたんだ。今の充実した自分があるのも彼女のおかげだと思える。不思議な魅力を持っていて、一緒に居ると楽しくて…。」

「へえ…。めっちゃ好きだったんじゃん。」

 同僚も背筋を伸ばすとコーヒーを飲んだ。薫は、大きく頷いて言った。

「大好きだったな。友達として、人として、ホントに。だから…だから、幸せにしてるかなって、たまに思い出すんだよね。幸せだといいなって。」

「ほお…なんかいいね、人の幸せを願うって。そういうの、いいよ。惚れる。」

「へ?惚れる?…はは。それはそれは。」

 二人はコーヒーを飲み干すと、再び仕事に戻った。


 展示会場で、出品リストをバッグにしまう恵莉の横で、チケットの半券をずっと握りしめたままの夫が解説を読んでいる。恵莉はそっと夫の耳元に顔を近づけて

「ほら、後ろから見ると、前後で完全な対称になっていないことがわかるよ。」

 と、彫刻の鑑賞ポイントを教えた。夫は、ふうん、とだけ返事をする。

「これは、なかなかこだわりが強い。それをちゃんと見える様にしてくれて有りがたい。うん。」

 恵莉がそう呟きながら次の作品へ行こうとしたとき、入口から団体がぞろぞろと入ってきた。一人の男性が後ろ向きのまま何か説明をしながら先導している。

「なんだろう、ツアー客かな。」

 と夫が恵莉にひそひそと聞いた。

「ああ、今日はギャラリートークがあるって書いてあったから、それでしょ。」

 と、恵莉が答える。

「なに?トークって。」

「学芸員が解説してくれるの。作者の次に展示品に詳しい人の解説だから、聞いたら面白いんだと思うよ。」

「へえ…そうなんだ。」

「美術展は見る側の感性で自由に鑑賞すりゃいいかなあと思って申し込まなかったけど。」

 そう言いながら、恵莉は何気なく大勢の前で解説を始めようとしている学芸員の背中をちらと見た。一瞬、妙に懐かしみのある乳白色の光がその背中に見えた気がして、恵莉はどきりとした。

「あれって、申し込んでなくても近くに行ったら聞こえるよね。」

 と、夫は珍しく興味を持ったのか団体の様子を窺っている。その言葉にもう一度、恵莉はどきりとした。どきりとしている自分に気付くと、余計に鼓動が高鳴ってくる。これ以上、この場に留まってはいけない気がした恵莉は、意図的に夫の顔をまっすぐに見ると、

「騒がしくなる前に、先に進んじゃおう。」

 と言い、平静を装いつつ夫の手をとって順路を進む様に促した。


「こちらの作品は…。」

 軽妙な口調とわかりやすい用語を使って薫はギャラリートークを始めていた。申し込みをした客達は、感心してほぉ、と言い、一斉に笑い、同時に頷き、順番に作品を覗き込む。

「お兄さん、説明がお上手ですねえ。」

 と年配の紳士が薫に声をかけた。

「ありがとうございます。今日のお客様は周波数が合うようです。」

 薫が他の参加者に気を配りながら応じると、男性は

「お上手な方はお話の中身はもちろん、参加者に不思議と一体感が生まれるので面白い。」

 と、にっこりと微笑んだ。薫は皆を誘導しながら

「ええ。そういうときは、私も心地良いんですよ。」

 と嬉しそうに言い、そして次の解説を始めた。


 恵莉は、団体から暖かく心地の良い穏やかな光が発せられていることを背中に感じ、いつだったか前にもこんなことがあった、と記憶を手繰る。

 <ああ、高校の卒業式の日か…。>

 と、思い出した恵莉は、ふふ、と笑い、そして背後の光に飲み込まれないよう夫の手をしっかりと握りしめると、まるで二人三脚でもしているかの様に歩調を揃えて次の展示室へと向かって行った。

     <終>

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光彩陸離たる君の 諏訪 剱 @Tsurugi-SUWA

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