一ノ10
夏休みが終わり、また高校生活が通常運転に戻った。違うのは学園祭に向けた準備により部活の純粋な活動時間が潰れたことくらいだった。
ある日、由佳里が美術室に姿を見せた。
「こんちわ。恵莉ちゃん、励んでる?」
にこやかに恵莉に声をかけた。
「こんちわ、先輩。なんとかやってます。」
と恵莉も笑顔で答えた。
「あれ、なんか、恵莉ちゃん、良いことでもあった?」
「え、いや、別に。なんでですか?」
「うん、なんか、前より可愛くなった。」
由佳里の言葉に恵莉はきょとんとしたが、由佳里は持っていた紙袋から小さなキーホルダーを取り出した。
「はい、これ。お土産。」
恵莉は素直に手を出して受け取った。
「あ、これ…ダリ?」
「そ。夏休みに、ダリ美術館行ってきたんだ。」
「ダリ美術館…ってどこにあるんですか?」
「スペイン。」
「す…スペイン。あ、そっか、海外に行ってるって、スペインだったんですか。へえ…。」
目を丸くしている恵莉を見て、少し不思議そうに由佳里が言う。
「そんなに珍しくもないと思うけど?母親の仕事でロンドンについて行ったんだけど、せっかく夏休みだからって足を延ばしてもらって。一度行きたかったからさ、ダリ。」
恵莉は、へえぇと感心しきりで聞いていた。すると薫が入ってきた。
「あ、先輩。こんちわ。」
その声に由佳里は振り返ると、
「こんちわ。薫君にも、これどうぞ。」
とキーホルダーを渡した。
「おお、ダリ。もしや、スペイン行ったんですか?」
「そ。ふふ。」
「どうでした?」
「良かったよ。面白かった。どっぷりダリの世界で…でも、人もたっぷりでね。」
由佳里と薫のやりとりを恵莉はぼんやりと聞いていると、すぐに業務連絡が始まった。
「あ、それでさ。部長会の資料と、報告ね。ポスターの貼っていい場所が少ないから、結局くじ引きになったんだけど。」
と由佳里が校内地図の赤ペンで印をしたところを指さした。
「松岡さんも一緒に聞いてて。」
と薫に促された恵莉は近寄って資料を覗き込んだ。
「結局、ポスターを貼れるのは、ここと、ここと、あと、ここ。ただし、美術室の廊下の壁は全部美術室が使ってOK。」
「じゃあ、ポスターは実質三枚しかいらないってことなんだ。」
と薫が言う。
「そういうことだね。他の部のポスターと横並びに貼られるから、それなりにインパクトある方がいいと思うけど。なんか案はもうあるんでしょ?」
薫と恵莉はそれまで考えてきたプランを由佳里に説明した。由佳里はふんふんと軽く頷きながら聞いていた。
「いいじゃん。すごいね二人とも。いいと思うよ。」
「それで、先輩の作品名とシルエットのための写真が欲しいんです。」
「了解。えっとね…。」
由佳里は資料の裏に作品名を書き、現物は週末に搬入するから、と言った。
一通りの連絡などが済むと、一呼吸してから由佳里が居住まいを正して口を開いた。
「それで、二人に話があるんだけど。」
妙に改まった口調に、恵莉はあまり楽しい話ではなさそうだと直感した。
「えっと、実は、私、ロンドンに留学することにしたんだ。」
二人は、え、と言って固まってしまった。寝耳に水の話だった。
「急な話過ぎてびっくりするよね。ごめんね。実はうちの母親がイギリスに拠点を移すことになって。それで私もずっと悩んでたんだけど、一緒に行くことにしたの。」
恵莉は、自分と住む世界が違う人であることは感じていたが、ここまでとは思わずに唖然としていた。薫は、少し動揺した様子で由佳里に聞く。
「いつから、ですか?」
「今月末。」
「ええ?!」
恵莉が思わず声をあげた。
「今月末って、そんな急に?」
「うん…あっちの高校の編入を考えると決断するリミットぎりぎりでね。現地で少し過ごしてみて、それで決心着いたっていうか。大学もあっちの美大に行くつもり。」
「そうなんですか…。」
薫の複雑な表情を見て取った由佳里が慌てて言う。
「ごめんね薫君、結局、部長頼まなきゃならなくなっちゃった。来週の部長会に一緒に行ってもらって、挨拶と引継ぎをするから、いいかな?」
「あ、はい。それは、大丈夫です。でも…」
「実質、二人になりますけど、大丈夫ですかね、美術部。」
と恵莉が続けた。由佳里も、少し困った顔で答えた。
「うん。二年生の名ばかり達には私からも名前残してもらうよう話しておくけど…その先は正直、私もなんとも…。」
その言葉に恵莉はがっくりと肩を落としたが、薫は恵莉の様子を見て逆に胸を張った。
「美術部のことは気にしないでください。先輩の覚悟を決めたの、かっこいいです。応援するんで、世界で活躍するアーティストになってください。」
薫の言葉に、恵莉はほんの少しの切なさを抱きつつ言った。
「うん。先輩、頑張ってください。」
由佳里はほっとした顔で微笑んだ。
「学祭、参加できなくてごめんね。当日も会場の様子も見たかったのに、それが心残りだけど…あ、それで展示する絵は学祭終わったら、そのまま学校に置いていくつもり。顧問にも言っておいた。もし私が有名画家になったら貴重品になるからってね。」
と可愛らしくウィンクをした。
「いいなあ、それかっこいい。」
と恵莉は言った。
しばらく雑談してから、由佳里は
「じゃあ、そろそろ帰るね。」
と言って立ち上がった。見送るために立ち上がった恵莉と薫を見て、一瞬考えてから由佳里が言った。
「最後に、二人にアドバイス。迷惑かけっぱなしで突然いなくなって申し訳ないから、何か先輩らしいことを言って去ろうと思って考えてきたんだけどさ。」
「なんでしょう?」
と恵莉が聞く。
「美術部の今後のためのアドバイスだから。」
「はい。なんでしょう。」
と薫が聞く。
「二人はさ、名前で呼び合ってよ。」
由佳里の言葉に、恵莉も薫も、同時に小さく首を傾げた。
「名前、ですか?」
と恵莉が言う。
「そう。恵莉と、薫で。あ、まあ、ちゃんとかくんとかさんとかは、つけてもいいけど。」
「え、どうしてそれが、美術部の今後のためになるんですか?」
と薫が聞く。
「実質二人しかいないとこに実動部員が入ってくるとしたら、その方がいいかなって。」
すると恵莉が反応した。
「え、でもむしろ、逆じゃないですか?瀬川君が私をなんと呼ぼうと構わないけど、私はやっぱり瀬川君呼びの方が…。」
由佳里はたしなめる様に首を振り、恵莉に言った。
「ううん。いろいろひっくるめての、あえて、だから。もう名ばかり部員を増やしても仕方ないでしょ。大勢じゃなくてもあと数人は美術好きに来て欲しいじゃない?来年の新入生勧誘のことまで考えて、絶対、そうした方がいい。ね?」
由佳里がどこまでのことをひっくるめて提案したのかわからず、恵莉は頷くことしかできなかった。薫も、少し顎に触れて考えを巡らせた様だったが、
「はい。先輩の貴重なアドバイスなんで、わかりました。」
と言った。薫が思ったよりもすんなり承知したことを意外に思った恵莉だったが、この場だけかもしれないな、とも思った。
「じゃ、ほんと、いろいろごめんね。でも二人が後輩でいてくれて良かった。ありがとう。これからも励んでください。私も励みます。」
と敬礼のポーズをすると、由佳里は爽やかな笑顔で美術室を去っていった。
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