一ノ9
「今までは、今井先輩と由佳里先輩に渡していたらしいんだけど、俺らに回ってくる様になってラッキーだね。」
夏休みもあと数日となったこの日、美術部の顧問がくれた割引券を手に、慣れた様子でチケット売り場に並ぶ薫の横で、恵莉はどことなくそわそわしている。
「う、うん。」
「松岡さん、どうした?」
「なんか、国立の美術館ってだけで緊張する。」
「え、なんで?」
「なんか、特別感が違う気がする。」
「へ?…来たの初めて?」
薫の言葉に、肩をすぼめて恵莉が頷く。
「上野自体、ほぼ初めて。動物園には小さい頃に一度来たことがあるみたいだけど。」
「なんだ、そうだったのか。この隣は科学博物館で、その向こうに博物館があって、あと東京芸大とか、都立美術館とか…。」
薫は四方を指さしながら上野情報を恵莉に与える。
「へえ。詳しいんだね。そんなにいろいろなものがあるのか。」
「博物館も面白いよ。後で行ってみる?」
「うん。ぜひ。行きたい。」
順番が回ってくると、薫は段取り良くチケットを二人分購入し、入館口に恵莉を導く。
「このチケットで企画展と常設展と両方観られるからね。」
恵莉は、もぎられたチケットの半券を鞄にしまいながら、薫の半歩後ろをはぐれない様に付いて行った。
ヨーロッパのルネサンス期を代表する絵画をメインとした企画展はなかなかの盛況ぶりで、美術の教科書に載るような名画を一目見ようと、恵莉を含めた美術展に不慣れそうな客達が徐々に列を成して会場へと流れ込んでいく。解説や各作品の前には団子状に客が滞りながらも人の流れは順路通りにゆったりと動いていて、恵莉もかろうじてその流れに乗っていた。しかし音声ガイドを付けた客が、多くの客が作る川の横からまるで水面に投げた飛び石の様に作品の前を次々と動いて行くので、しばしば恵莉はぶつかってしまう。そんな不慣れな客同士の戸惑いをよそに、薫は背の高さを生かしてうまいこと鑑賞しながらも、恵莉がはぐれていないかだけは時折確認しながら進む。
「観える?」
「う、うん。なんとか。」
第一展示室では作品の前に団子になりがちだった人々は、第二展示室に入ると少しずつ一つの流れとなり、第三展示室になると、各々が自分のペースで鑑賞し、進んでいく。
「あれ、なんか見やすくなってきた。」
と、恵莉が呟く様に言うと、薫もうん、と答え、ようやく二人で同じ作品を見て、ひそひそと感想を交わしながら進むことができる様になった。
「人の流れって面白い。なんか、一定じゃないんだな。」
と、第四展示室に向かう途中の廊下で恵莉が言った。
「最初だけ妙に流れが滞るんだよね、不思議と。」
と薫も言った。二人が廊下を過ぎて次の展示室に入ると、景色は一変して再び人だかりができている。
「いよいよ、大本命の登場だ。」
と薫が言う様に、一番の目玉作品が薄暗い室内の奥でうっすらとした照明を受けている。ガラスケースではなくオープンに壁に掛けられているものの、その周囲の空間は約二メートルの半円状にチェーンで仕切られていて近づけない様になっている。それでもチェーンぎりぎりに人が群がっていてそこに流れはなく、ときどき人をかき分けて前列に居た人達が飛び出てくる。後ろの方から少し背伸びをする人や、飛び出してくる人の隙間にスッとうまいこと入る人もいれば、前列のわずかな隙間を見つけて体を捻じ込んでいく人もいる。後ろから俯瞰している恵莉の目には名画の額縁の端しか見えておらず、それよりもそれぞれ己の前方だけに執着し背後が完全無防備な人々の様子が妙に滑稽に映った。二人がしばらく様子を見ていると、入室時よりは人の密度が減少した様だ。薫はゆっくりと人々の背後に近づき、隙間が出来たタイミングで恵莉の方を振り向いた。恵莉も、小さく頷くとススッと前列に入り込んだ。
「ほわぁ…。」
名画を目にした恵莉の口から吐息が漏れた。重厚な額縁に収まっているその絵は、照明の効果も相まってまるで浮いている様だ。歴史深い年月を経たであろう油絵具の古い発色は、周囲の空気を現代から製作時期へと引き摺りこむような緊張感をもたらしている。恵莉は、美術の教科書で見た印象とは全く違う、と思った。少し顔を動かすと、部分によって絵の具の細かい凹凸があることがわかる。恵莉は、これが本物を観る、ということなのかと思い、そして、自分のセンスが反応したことを自覚した。さすがにこれは、惹きつけられて背後が無防備になるのも致し方ないな、と思ったとき、薫が恵莉の肩にそっと手を置いて、少しだけ前に進む様に促した。恵莉はされるまま半歩進みつつ顔だけ少しだけ振り向くと、薫がやや前のめりになって名画に見入っている。恵莉は安心して再び名画を見つめた。絵の全体を眺めまわし、細かいところを少し目を細めて凝視し、再び少し俯瞰し、描かれている人物の動きを見、視線を追い、背景を眺め、全体を鑑賞した。そして、ふと、ハレーションについて思い出した。確かにこの絵は世界的名画であって魅了されてしまうが、それほどの作品にもかかわらずハレーションは見えない。そのとき、肩に置かれていた薫の手が離れたことで我に返った恵莉は、後ろを振り返った。
「気が済むまで観てて。俺、そっちにいるから。」
と薫は部屋の壁を指さして言った。名画の周りには再び人の群れが大きくなっており、背の高い薫は遠慮したのかもしれない。恵莉は小さく頷くと再び名画に対峙した。呼吸を整え、心を落ち着けると、多くの人に見つめられ続けるその世界的名画にお礼と別れを告げ、すみません、と呟きつつ人混みから脱出し、薫の元へと進んだ。
「お待たせ。ありがとう。」
薫はうん、とだけ答え、二人は第五展示室へと進んだ。
派手ではないけれども展示全体の流れを締めくくる総括的な作品が置かれた展示室は少し明るく、メインイベントを堪能した余韻を味わう人がさらっと眺めては去っていく。酸素量がさっきよりも増した気がして、恵莉は浅くなっていた呼吸を通常に戻した。二人は特に会話をするでもなく、ゆっくりと最後まで鑑賞して、展示室を後にした。
出口を一歩出ると急に現実的な明るさと賑やかさが広がり、グッズ売り場が展開されていた。
「はあ、なんか、一気に現実に戻った感じ。」
と恵莉が言うと、薫は表情を緩めて小さく頷き、限定グッズなどをぶらぶらと眺め始めた。
「そうだ、図録買う?」
と薫が恵莉に声をかけた。
「図録?」
薫はサンプルをぱらぱらとめくりながら、
「今観た出展品が全部載ってるやつ。」
と答え、恵莉に手渡した。
「へえ。こういうのあるんだ。」
「この展示会の内容だけが載ってるから。観に来た記念で毎回買う人もいる様だけど。」
「え、瀬川君、買う?」
「あ、いや、今回はいいかな。すごく印象に残った作品とかあるときだけ買う。」
「そういうもんなんだ。私もあんまりお金ないからな。観に来た記念なら、このポストカードで十分。私、これだけ買ってくる。」
恵莉がポストカードとしおりを数点選んで会計に並ぶ間、薫は腕時間を見ていた。
その後、昼食を取るために入ったファストフード店で恵莉は財布をちらつかせながら
「今日こそ、返すから。」
と笑う。
「ああ…そこまでいうなら、じゃあこのセット、コーラで。」
と薫はメニューを指さして店員にオーダーし、恵莉も少し嬉しそうに自分の分をオーダーする。
「…コーヒー氷抜きで。会計は一緒でいいです。」
薫は空いている席を見回し、二階がいいかな、と呟いた。
会計を済ませると、二人で二階の窓側でカウンター席に横並びに座った。
「じゃ、遠慮なくいただきます。」
と薫が言い、恵莉も
「どうぞどうぞ。いつぞやは助けていただいて。」
と笑った。
「私、バイトとかしてないからさ。」
「俺もやっていないけどね…お小遣い制なの?」
と薫はなんとなく聞く。
「うん。月五千円。」
「五千円…ちょっと少ないか。」
銘々にハンバーガーを頬張りながら話をする。
「たいてい、本買ったら終わっちゃう。」
「そっか。…もし限度なく金があったらどうする?」
恵莉は少し考えてから
「それこそ、今日みたいに美術館とか、さっき言ってた博物館とか、動物園とか、いっぱい行きたい。図録も買いたい。」
「美術館にハマった?」
「うん。面白い。いろいろ。作品はもちろんだけど、なんか非日常な空間にいる感じが、なんか、面白かった。」
楽しそうな恵莉の顔を見て、薫も満足げに続けた。
「ああ、なるほど、非日常ってのは、わかる。」
「いや、でもほんと今日はありがと。瀬川君が場馴れしてたから、緊張し過ぎないで済んだ。」
「なんで緊張?…なんか、意外。」
その言葉に恵莉はポテトをかじりながら答える。
「ん?意外?」
「うん。松岡さんはね、冷静に客観的に事態を見てて思慮深いって感じ。」
「そんな風に見える?…単に、見えちゃったアレに堪えてるだけ。小さい頃はよくアレにリアクションして気味悪がられたから。」
「あ、たまに自分の世界に入ってるのは…そういうこと?」
「そう。ボーっとしているときは、内心、わっちゃわちゃ。」
「わっちゃわちゃ?」
と薫が微笑んだ。恵莉は少しだけ薫に体を向けて聞いた。
「瀬川君はなんでこういうところによく来る様になったの?」
「従姉の姉ちゃんがこういうのが好きで、夏休みとか結構連れてきてくれたんだ。」
「へえ。いいね。」
「今はもう就職してなかなか一緒には来ないけど。その姉ちゃんの薦めで、俺キュレーターを目指そうかと思ってるんだ。」
「…きゅれえたあ?」
「そう。学芸員ってやつ。」
「…がくげいいん?」
はてなが浮かんでいる恵莉の顔を見て少し笑うと、薫が説明した。
「美術館とか博物館とかの人。展示を作ったり、準備したり、研究したり。」
「研究?何を?」
「その美術館に保管されているものだったり、関連する資料とか。」
「へえ…なんか、知らない世界…。」
「ほら、学祭の展示の事も今考えてるけど、あれも学芸員的な感じ。」
「え、展示?」
「そう。」
恵莉は、顧問が美術書を開いたときの薫の目の輝きを思い出した。ちょうど、今の薫と同じだった。
「そっか。学祭、ますます楽しみになってきた。私、きゅれーたー瀬川についていきます。ご指導ください。」
と恵莉が言うと、薫が困り顔で言った。
「その呼び方、禁止ね。」
昼食を済ませた二人は、常設展に再入場した。こちらは企画展とは違ってほとんど人もおらず、二人は順路を気にせずにたまに戻ったりしながら、作品と建物と展示についてあれこれと意見を交わして過ごし、見終わる頃には夕方になっていた。
「今日は本当に楽しかった。」
西日がまだ暑い時間だったが、二人は上野公園内で缶コーヒーを飲みながら、ベンチに座り一息ついていた。
「俺も。美術館って、テンポが合わない人と来るとなかなか堪能できないんだけど。松岡さんとだと一人よりも楽しめた。」
と、薫も満面の笑みで言った。
「でも結局、博物館には行けなかったね。美術館だけで一日過ごすなんて驚き。」
「きっと、科学博物館も歴史博物館も、一日いられると思うよ。」
「そうなんだ。絶対また来ようね。あ、動物園も。」
すると、薫はちょっとあたりを見渡し、腕時計を見ると
「もう少し居られるよね。ちょっとだけ、予習してから帰るか。」
「予習?」
薫が立ちあがってコーヒーを飲み干すと、恵莉もつられて飲み干した。薫は二つの空き缶を小走りでゴミ箱に入れて戻り、ベンチから立ち上がった恵莉の手を取って走り出した。
「行こう!」
薫の案内で入場券を持たないでも見ることができる屋外のくじらのモニュメントの前に来た。恵莉は、純粋にその大きさにうわぁ…と声を出した。
「こんな大きな生き物が動いているんだもんなあ・・。」
と言う恵莉の素直な反応に薫も頷きながら
「俺も見たことないけど、海って広い。この中には理系のことがいっぱいあるから、それこそ理系志望の松岡さんだったら一日居られると思うよ。」
「本当?ものすごく気になる。」
「よし、じゃあ次!」
と言うと、再び恵莉の手をとって今度は樹々の中に立つ野口英世像の前へと案内する。恵莉もされるままについて行った。そして、薫も自分もずっと笑っていることに気付いて少し戸惑いを覚えたとき、薫の手から白い淡い薄いドライアイスの煙のようなものがほんのりと自分の手に伝わる感じがした。それは、前にニスを塗る前の木彫を触ろうとしたときのハレーションに似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます