一ノ8

 夏休みが終わりに近づいた頃、名ばかり部長にメールで展示の相談を投げかけてあったが、海外にいるという由佳里からは「学園祭の件は全面的に二人に任せた」と返信があっただけだった。二人とも一年生で学園祭がどういう雰囲気になるのかもわからなかったため、時折顧問と相談しながら準備を進めた。結局、二人とも自分の作品制作は自宅で進め、部活時間はポスターや展示準備に費やした。

 夏休みの最後の部活日、二人は美術室で久しぶりに自分の作品を持ち寄っていた。

「うわ、瀬川君、ずいぶん綺麗に仕上げたね。紙やすりの番手高そう。すごい滑らか。」

「まあね。飼ってる猫がくしゃみすごくて。」

「ええ?可哀想に…あれ、この部分は何?」

「うん。キャンドルホルダーが置ける様に最後にこうやって…。」

 薫が小さい板を嵌めると、ちょうど直径五センチほどの物が置ける様になった。

「おお。すごい。」

「猫がいるとアロマキャンドルを机とかに置けないんだよね。壁掛けにこうして置いたらどうかなって、前からずっと思ってて。」

「すごい。何気に実用的…。素敵。とても素敵。」

 褒められた薫は少し照れながら部棚の中を何やら探し始めた。

「アートっていうよりインテリアだけどね。あとはニス塗って完成。」

「え、ニス塗るんだ…もったいない。」

「そう?クリア塗るつもりだったんだけど?」

「あ、いや。作者がそういうなら、素人はなにも。」

 薫は、あったあった、と透明ニスの缶を取り出し、耳元で振った。

「ん?これ使えるのかな?」

 薫は缶の蓋を開けて覗き込む。恵莉は、そっと木彫に手を触れて感触を味わった。

「綺麗…。新たな命を吹き込むって、ニュアンス的にはこういうことかな…。」

 と呟く恵莉に向かって薫は

「松岡さんって、独特の感性があるよね。」

 と言いながら缶の蓋をし、今度は刷毛を探し始めた。恵莉は手の平を木彫にかざす。すると一瞬だけ、白いハレーションが恵莉の手を取り巻く様に動いた気がして、慌てて引っ込めた。自分と木彫との間に呼応するような光の動きに動揺している恵莉の正面に、ニスを塗る準備を整えた薫が座った。

「はい。では塗ってしまいますので。よろしいでしょうか?」

 恵莉は、少し微笑んでこくりと頷き、

「じゃあ、私もフィキサチーフかける。」

 と言って、自分のパステル画とスプレー缶と新聞紙を持ってベランダに出た。無風ではあったが、念のため新聞紙にマスキングテープで絵を仮止めし、新聞紙に重りを乗せると一筆書きの容量で一面にスプレーした。スプレー前と比べると極わずかにパステルの粉っぽさが滲んだ様だったが、この方がより良い感じになったな、と恵莉は思った。かなり自分としては満足のいく絵に仕上がったのだが、乾いていく様子を見ている間にみるみる不安が込み上げてきた。

 <あれ、これって、わかる人がいるだろうか。これを見て、もし気持ちを分かってしまう人が現れたら?この絵をみて、普通にわかってしまったら?あ、これはもしかしたら、人前に晒してはいけない絵だったか?あれ?自分は描いてはいけないものを描いたのではないだろうか?これ見て、わかる人はどのくらいいる?あれ、だめか?だめなやつか?>

 薫がニスを塗り終えた木彫を乾かすために新聞紙ごとベランダに出すと、恵莉が立ったまま茫然としている。

「松岡さん…?」

 恵莉は、ハッとした顔で薫を見た。薫は自分の作品を足元に置くと、

「乾いた?」

 と少し前屈みになって絵を見ようとした。

「あ、待って。中に入れる。」

 恵莉は慌てて薫を制したので、じゃあ、と言いながら薫は室内に戻った。新聞紙ごと持った絵を静かに机に乗せた恵莉の肩越しに絵を覗き込んだ薫は

「あ…え、ん?」

 と不思議な声を出した。恵莉は、薫の反応を見るのが怖くなって、振り返れずにじっとしている。

「松岡さん、これって…。」

 薫は絵の解釈をどうしていいものかと戸惑っているのだ。人物の顔は描いてなくとも、奥の人物が手掛ける彫刻の形状からして、それが今井でありその傍らの背中を向けているのが薫だろうことはわかったに違いない。

「松岡さん…この、これって…。」

 薫は、絵の中の自分の背後に立ち上る桜色を指さした。しばらく待っても反応がないことで、薫は恵莉の肩に手を置くと顔を覗き込んだ。

「松岡さん?」

 振り返った恵莉は、眉を寄せ複雑な顔をしていて、それはどちらかというと怯えているのに近かった。薫は、予想しない恵莉の顔に驚いている。

「あれ?どうした?」

 恵莉はゆっくりと椅子に座り、恐る恐る、薫にも座る様に促した。素直に薫が椅子に座ると、恵莉が静かに口を開いた。

「ねえ、これ…展示したらまずい、かな。」

「え、なんで?」

「この絵、私の意図はどのくらい見る人に伝わってしまうのかな。」

「意図?…いや、何を描いているのかはすぐわかるけど、意図って?」

「この色の部分。これ、私には意味があるんだけど、それがわかる人ってどのくらいいると思う?」

 そう言いながら、恵莉は、桜色の部分を指さした。

「どうかな。確かにこの色の部分が何かなって、思ったけど。」

「…何の色かは、わからないってこと?」

「う…うん。何かを表現したいんだとは思うけど…ごめん、俺にはわかんない。」

「ホント?!」

 恵莉の顔がパッと明るくなったのを見た薫は再び驚いている。

「へ?…う、うん。ん?」

「わかんない?ほんとに?わかんない?大丈夫?」

「え、わかんない方がいいってこと?」

「そう。わかんないならいい。いいよね?大丈夫だよね?」

 薫は恵莉の考えが読み取れずに怪訝な顔をした。

「大丈夫って聞かれても困るんだけど。」

 すると恵莉は、一呼吸おいて、椅子に座りなおし最後の確認をした。

「ごめん。これ、瀬川君と今井先輩を描いた。そのうえで、瀬川君からみて、展示してもいいと思う?」

 薫は少しだけ口を尖らせて

「いいと思う。」

 と答えた。恵莉は、息を吐き切ってからゆっくり息を吸った。

「ありがとう。そんな大事なことを一度も瀬川君に確認しないまま完成させるなんて…。ああ、良かった。ごめんごめん。」

 勝手に怯えて勝手に安堵している恵莉を呆れた様子で見ていた薫は少しの沈黙の後、口を開いた。

「説明してよ。そこまで言ったらこの色の意味、俺には教えてくれてもいいよね?」

 恵莉は観念した様に深く息を吐いてから、静かに呟く様に言った。

「この桜色の光…これ、素敵でしょ?こっちまでなんかほんわかするような、幸せな感じがするような光。」

「…。」

「あれ?この絵、そういう感じしない?なんとなく、幸せな感じしない?あれ、だめか?」

「あ、いや、その…まあ、嫌な感じよりは、良い感じだけど。」

 すると恵莉は、自虐的に笑って続けた。

「拙い画力で申し訳ない…。これ、私が本当に見えた光。」

 薫の左の眉尻がピクリと動いた。

「見えた、光?」

「そう。私、時々こんな風に、人の感情がね、光とか煙とかみたいに、見える。」

 薫は、恵莉がまた独特の表現で何かを説明しているのではないかと思ったらしい。

「えっと…ちょっと意味がわかんないな。」

「うん。これ、このまんま、ホントにこうやって見えた。」

 恵莉が絵を指さす。薫はしばらく目を泳がせつつも言葉の意味を考えていた様だったが、どうやらそのまま受け取る他なさそうだと思うに至ったらしく、改めて絵を見た。

「瀬川君の背中に、すごく綺麗でほんとに素敵な光。この色は初めて見たけど…。」

 薫は絵と恵莉とを交互に見ながら懸命に理解を試みるも、依然として恵莉の発した言葉の意味がわからず混乱している。

「今まで見たことあったのとはどれも違う。この色は初めて。なのに、これが恋の色だってわかったのは、幸せな気分になったからだよね。ほんとに素敵な色。」

 恵莉はそう言うと、薫がどういう反応をするのか静かに見守った。眉間に皺を寄せて薫が恵莉の顔を見た。

「え…見えたって…こんな風に、俺が、光を出してたってこと?」

「…うん。」

 恵莉は、薫の動揺とは裏腹に、冷静な目をして言った。薫は、再び絵を見つめる。長い沈黙のあと、徐々に頭の整理がつき始めたらしい薫が、口を開く。

「え、え、待って、これ、ほんとにこのまんまで、見えた…?」

「…うん。」

「え…えっと…この色が、見えた…?」

「…うん。」

「いや、えっと、ほんとにこうやって見えて…え、あ、もしかして、え、これでばれた、つか、わかったってこと?」

「…うん。ごめん。」

「うそ。え、待って。こんな風に見えた?うそ。何、恋とか。え、俺、ちょっと…なんか恥ずかしいんだけど…え、ウソでしょ?」

 薫は慌てながら、どんどん顔が赤くなっていく。恵莉はさすがにその様子を直視できず、視線を逸らせたまま答えた。

「ごめん。このまんまで見えた。」

「ウソ…うわ、え、ちょっと待って…。」

 薫は熱を帯びた自分の頬を両手で覆った。恥じらう薫の様子に、恵莉の口の端が思わず歪んだ。薫は、

「え、今笑った?ちょっと。え?ちょっと!」

 と恵莉を小突く。恵莉はたまらず笑い出した。

「だから、ホントに、ごめんだって。ホントに、いやほんと、ごめんなさい。」

「ちょっと、すごい笑ってるじゃん。ちょっと、もう、俺どうしていいかわかんないし。」

 と薫も耳まで赤くして笑い出した。

「松岡さん、ひどくない?え、いつから見えてた?つか、いつからこんな風に俺のこと、見えたわけ?」

「いつから?わかんないけど…。」

 少し気まずそうに言葉を濁していると、薫がハタと思い立って尋ねる。

「まてまて、まさか、クラスの人とか、学校中のみんなの気持ちとか、全部見えちゃうってこと?誰が誰を好きとか、そういうのみんなわかっちゃうの?」

「それは違う。誰のでもいつでも見えるってわけじゃないから。見えないことがほとんどだし、できるだけ見ない様にもしてたし…。」

 その言葉に落ち着きを取り戻し始めた薫が不思議そうに聞く。

「…じゃあ俺だけ見えたってこと?…なんで俺だけ?」

 恵莉は少し言葉を選ぶようにしながら、生まれて初めて<それ>のことの説明を試みた。

「うん、ごめん。それは、ほんとにもう、ごめんとしか言いようがなくて…あのね、人の感情が、その、なんていうか、たまに、突然見えちゃうんだ。光の様な、靄の様な、蒸気の様な、煙の様な、いろんな感じで、あとそれには色があって…人って幼い頃は多分、感情もシンプルなんだろうね、色のパターンも分かりやすくて、怒りは青系、悲しみは赤黒いとか紫で、楽しいのは黄色とか黄緑とか、愛おしい感じは淡い蜂蜜の色みたいな黄色。そういうのが、何ていうか、プラスの感じが強いほど蛍光っぽい派手さが増すし、優しさが強いと淡くなっていくし、マイナスに傾けば彩度がどんどん低くなってどす黒い感じになって…まあ、言葉にすると簡単な様だけど…。でも成長するに従ってだんだんと色の混じり具合も複雑になってきて、そのバリエーションもいろいろになって…それで小学校の高学年頃からかな、そういう感情に影響されちゃう様になってしまって。例えば、怒りが噴出した子の青黒い煙に巻き込まれると、私は何もしていないのに無性に腹が立ってきたり、大はしゃぎしている子の蛍光黄緑の津波に飲まれると、何が面白いのかもわからないのに楽しくなったり…なんか、よくわからないけど、理由もなく人の感情に同調しちゃうみたいで。それも子どもの内はまだ感情がシンプルな分マシだったんだけど、中学になるともうダメ。ものすごく複雑で…自分の感情だけでも、なんだかわけもわからずモヤモヤするのに、周りの子のモヤモヤまでもらったらもう耐えられなくなっちゃって、いつ、どんな感情に巻き込まれるのかもわからないから人の近くに居るのが恐怖でしかなくて…それで、とにかく人と関わらない様に、人に近づかない様に、人の感情を避けて、人を避けて、見ない様に、視界に入れない様に…だから学校に居る間はもうひたすら本を読みまくって自分の世界に籠ってたんだけど…それが高校に来たら、むちゃくちゃな感情がダダ漏れする様な人は居なくて、だいぶ楽になって。部活も最初は名ばかり部員のつもりだったんだけど、実動部員は実質二人だけでしょ。しかも今井先輩は感情が作品に向けられているし、瀬川君も自分抑える癖があるから、それでなんだか安心しちゃって。部活時間の美術部が私にはすごく居心地が良くて、なんかほっとするっていうか…。それで、ここに来ると、なんていうか、つい油断して瀬川君のこと普通に視野に入れてしまっていて…。でも、見ようと思って見たわけじゃないんだよ?私の意思とは全く関係なく急に見えたり消えたりするんだから…でも、まあ、見えちゃったことには違いなくて…見ちゃった、ていうことで…だから、私が悪い。ごめん。」

「いや…いやいや、謝られても…。」

 薫は頭の中を懸命に整理しつつ、恵莉にかけるべき言葉を探している様だった。どのくらいの時間が経っただろう、恵莉が机の絵を見つめたまま溜息交じりに言った。

「瀬川君、ほんとごめん。感情を見られるなんて気持ち悪いと思う。一緒に居るの嫌だろうから私も部活辞める。楽しかったけど、この絵は自己満足の賜物。これを描けたことが楽しかった。いい思い出になった。ありがとう。」

 そう言いながら、ゆっくりと絵を新聞紙から剥がし始めた。

「え、いやいや、何してるの。え、辞める?ウソでしょ?」

 薫が慌てて恵莉の手を抑える。

「出品用には別の絵を描く。もう部活には来ない様にするから。」

「いやいや、待って、待って。」

「大丈夫。もう瀬川君を見ない様にするから。ごめんね、ほんと。」

「え、何?だって…」

「視野に入れない様にすれば見ないでいられるから。」

 薫は、少し考えて、慎重に、探る様にして聞いた。

「ちょっと待って、あのさ…松岡さん、前に俺のこと、好きだって言ったよね?あれってやっぱり、俺に好きな人が居るって知っててそう言ってたんでしょ?」

 恵莉は、ちらっとだけ薫の顔を見て頷くと

「それも含めて、諸々、申し訳ない…。」

 と言った。薫が念を押す様に聞く。

「あ、あのさ。その好きは、人としての好きって、そう言ったよね?」

 その言葉に、恵莉はふうっと溜息をついてから答えた。

「初めて、ホントに友達になりたいって、勝手に思ってしまった。それがいけなかったんだ。そんな風に思うから制御緩むっていうか…やっぱり男子と友達になるなんて無理なんだ。しかも、瀬川君みたいな綺麗な人と友達なんて、ほんと…。」

 徐々に聞こえなくなっていく恵莉の言葉を遮って、薫が言った。

「ねえ、聞いて。俺も、松岡さんといい友達になりたい。つか、既に友達だと思ってるんだけど。松岡さんの不思議は今聞いたばっかりでちょっと整理つかないけど、それでも…うん、それでも。それを承知のうえで、松岡さんとは友達でいたい。友達でいて欲しい。そういう意味で、俺も好きだよ、うん。」

 恵莉は、少しだけ驚いた顔で薫を見つめていた。薫が続けた。

「俺もさ…正直、特に女の子とはね、仲良くなることが怖いって思ってて、男女間の友情なんて俺には成立しないと思ってた。でも松岡さんが俺のことを恋愛対象ではなく友達として見てくれて、それが素直に嬉しかったし実際に楽しいと思った。だから…。だから、部活、一緒にやろう。ね?」

 恵莉は、しばらく考えて言った。

「うん。…そっか、うん。ありがとう。」

 薫と固い握手を交わした恵莉は、友達という言葉を受け止めて心底に喜びが湧き出るような感覚を味わった。

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