一ノ7
翌日、恵莉が駅から学校へと歩いていると、後ろから薫が声をかけてきた。
「松岡さん、おはよう。」
「ああ、瀬川君。おはよう。」
「昨日は最後までやってた?」
「うん。気付いたらチャイム鳴ってた。」
「そう。」
二人は互いに顔を見るでもなく横に並んで歩く。
「そうだ。瀬川君、あのさ。私、さっきコンビニ寄ったんだけど。」
「うん。」
「買うものがわからなくて。」
「え、どういうこと?」
恵莉は、薫の疑問の意味を察して慌てて補足した。
「ああ、えっと。瀬川君にこの前のお礼に何か買おうと思ったんだけど…。」
薫はすぐに話を理解し、
「ああ、なんだ。いいよ、気にしないで…。」
と言ったが、恵莉はそれを遮って続けた。
「瀬川君に何を買えばいいのかわからなかった。飴でもガムでも飲み物にしても、ぜんぜん好みがわからないことがわかって…。どうも私は瀬川君のこと何も見ていないらしい。なんか、申し訳ない。」
「え?いや、だって美術室には食べ物持ち込まないから。」
「…え?」
恵莉が驚いて薫の顔を見たが、薫は前を向いたまま続ける。
「入部説明会のとき言ってたじゃん。美術室は飲食禁止って。」
「そうなの?」
「え、知らなかったの?」
今度は薫が驚いて恵莉の顔を見た。恵莉は少しだけ俯いて歩いている。
「…なんで私、説明会の記憶、無いんだろ…。」
「もしかして、説明会に出てないんじゃないの?」
「え…あ、そうかも。最初は帰宅部のつもりだったから…。」
自分の不甲斐なさに溜息をつく恵莉の横で、薫は少し呆れながら表情を緩ませた。
二人で職員室に鍵を借りに行くとちょうど顧問がいて、今井の作品を準備室に入れることになった。薫が美術室の鍵を開け、恵莉がいつもの様にカーテンを開けて回る。顧問は準備室内に保管場所を確保すべく軽く片付けを始めたので、薫も手伝った。恵莉は美術室側から準備室への扉の近くにスタンバイしながら、改めて緩衝シートに覆われた今井の作品を眺めた。昨日とは違い、何も発しておらず日常状態だったことに恵莉は少しだけ安堵したが、その理由は自分でもよくわからなかった。すると、準備室側から扉が勢いよく開き、取っ手を握った顧問の手が見えるが早いか、小窓のガラスが作品の突起部分にぶつかりバシャンと音を立てて割れた。恵莉も顧問も、薫も一瞬動きが止まる。そして我に返った顧問が
「悪い!おい大丈夫か?!」
と叫んだ。ガラスの破片は顧問の右背面に降り注ぐ形になったため、怪我をすることはなく、扉の外にいた恵莉と準備室の端にいた薫も当然無傷だったが、次に心配されるのが、今井の作品だった。
「怪我ないか。いや悪い悪い。こんな近くに置いてあると思わなかった。」
顧問はそう言いながらそっと扉を閉め、準備室内の箒を取ってきた。恵莉も美術室側の小箒と塵取りを持ってきて、今井の作品の上に散った破片を掃いて落とし始めた。緩衝シートで覆われていたため、パッと見は無傷の様だが、最終的には広げてみなければわからない。恵莉は丁寧に破片を足元に全て落としてから、割れた小窓越しに顧問に向かって
「開ける前に声かけてくださいよ。足元を掃くので。」
と言った。小窓の向こうからは、おう悪いな、と答えた顧問の声がして、奥に居る心配そうな薫と目が合った。恵莉は、小さく頷いて作品の無事を伝えると、足元の破片を塵取りに掃き集めた。
一通りガラスの処理が済み、今井の作品を準備室の端に移動させることができたが、恵莉はぶつけた箇所の具合が気になって仕方がなかった。
「先生、ぶつけたところ確認した方が良くないですか?」
「俺もそう思います。」
と薫も同意する。顧問は、口をへの字にしながら渋々シートを広げた。
「ほお…。」
作品の全貌を初めてみた顧問は、思わずそう言った。石膏を使ったそれは白さが美しいだけではなく繊細さと躍動感に溢れ、素材の印象と造形の与える感性のギャップが絶妙に醸し出す魅力を湛えていた。製作過程をずっと見守っていた薫が顧問のこの反応に満足そうな顔をする横で、恵莉はぶつけた箇所の状態を冷静かつ入念に確かめていた。
「ああ、ちょっとやっぱり歪んだというか…」
恵莉が突起部分を指さして顧問を振り返った。
「え、どこ?」
顔を近づける顧問を押し除ける様にしながら薫が言った。
「事故前の状態を知らない人が見てもわからないでしょ。」
恵莉と薫が、この部分ね、と確認しあう。困り顔の顧問は、
「もし修正が必要なら今井を呼んでくれるか。俺から謝って直す様に言うから。」
と言った。恵莉と薫は少し話し合ったが、写真をメールして本人に判断を仰ぐことにした。しばらく返事が来るのを待っていた顧問だったが、会議の時間だからと職員室に戻っていった。二人もこのまま眺めていても仕方がないので再びシートで養生すると、美術室に戻った。
少し経った頃、今井から返信があって「気にしなくていい、そのままでいいよ」とのことだった。薫が「顧問がめっちゃ謝ってました」と返すと、「許す(笑)」とだけ返事がきた。朝からちょっとした騒動に集中力をそがれた二人だったが、それでも恵莉は下絵と本番用紙を机に広げた。一方の薫はすっかり落ち込んでいる様子で椅子に座っている。
「何、落ち込んでる?」
と恵莉が聞くと、薫は、
「うん…。」
とだけ答えた。恵莉はパステルや筆など道具を一通り広げてから、
「なんで?」
と尋ねた。薫は、少し口を尖らせる様にして
「だって…今井先輩の作品に傷つけちゃったから。」
と言った。
「いやいや、瀬川君がやったんじゃないし。」
「そうだけど、もう少しこっちに置いておけば良かったのに。」
「え、そんなことで責任感じる?」
「だって…なんか、先輩の大切なもの、ちゃんと預かることすらできないなんて…。」
しばらく一点を見つめていた薫の目が潤んでいる。
「え?あ、泣く?」
恵莉が慌てるより早く、薫から悲しみと苦しさと寂しさが入り混じり激流となった切ない鶸(ひわ)色の波が瞬く間に恵莉を飲み込んだ。
「…あ…。」
恵莉は咄嗟に桜色のパステルを取ると手に意識を集中させて呼吸を整えた。二回ほど、自分の呼吸を確かめてそっと目を開くと日常状態に戻っていた。ホッとして、勝手に込み上げた涙をそっと拭って顔を挙げると、潤んだままの薫の目と目が合ってしまった。
<見られた?>
と、恵莉は思った。
薫の美しい瞳が「あれ?泣いてた?」と尋ねた様に思えた恵理は、そのつぶらな目で「何のこと?」と応じる様に見つめ返した。
言葉による会話の糸口を探りあった二人だったが、薫が視線を外したことで恵莉も止めていた呼吸を再開することができた。
「何、握ってるの?」
薫が話を逸らす様に恵理の手に触れると、はらりと指から力が抜けて中からパステルが現れた。
「ああ、パステル…良い色…。」
と力なく薫が言う。恵莉はストンと椅子に腰を下ろし、しっかりと戻った意識で言った。
「これ、瀬川君の色。」
「…ん?」
パステルを紙の上に置き、少し優しい顔で恵莉が言った。
「もう、突然の激流なんて…まあ、でも、わかるよ。大切にしたいんだよね。」
その言葉に薫は少し下を向いて僅かに頷いた。恵莉は桜色のパステルをしばらく指でつつく様にしていたが、薫がようやく動きだしたことをきっかけに作業を始めた。
「そういえば、昨日…。」
と、薫が作業着に着替えて道具を広げながら口を開いた。
「昨日さ、岡田さんと帰ったときに…。」
「うん。」
と返事をする恵莉は自分の作業をしたまま、耳だけ薫に向けている。
「付き合ってって、言われたんだけど…。」
「うん。」
「…好きな人がいるって、断った。」
「うん。」
「…それで、誰だって、しつこく聞かれて。結局まあ、言わずに終わったんだけど…。」
「うん。」
「それで…岡田さん、もう部活来ないって、ことになった。」
「…そう。」
「ごめん。」
薫の謝罪の言葉に、恵莉は驚いて顔をあげた。
「え、何が?」
「実動部員、減らしちゃった。」
「え、だって、最初から実動部員じゃなかったじゃん。自分から瀬川君狙いで来てるって言ったし。」
「あ、いや…学祭の出品点数がまた減ったから。」
恵莉は、ようやくごめんの意図を理解した。
「ああ、そういうこと。まあ、せっかく今井先輩の素敵な大作があるのに、点数が少ないのはなんかもったいない感じ、するけど。」
「この美術室にあの彫刻と、由佳里先輩の油絵と、俺のと松岡さんのだけ…だから。」
そう言われて、恵莉は室内をぐるっと見回した。
「展示って、ここなの?美術室が全部、美術部スペース?」
「そうらしいよ。」
「え…ここに、四点だけ?」
恵莉は、自分の作品を製作することしか頭になかったが、ここにきて初めて学園祭のことを自分の事として捉えた。
「美術部の展示、この広さに四点?え、それはいくらなんでも…。」
という恵莉の言葉に、薫も頷く。
「美大に行く人もいるほどの部なのに、なんか、ね。」
「いや、て言うか、え、今井先輩の作品がもったいないよ。あれはたくさんの人に見てもらいたいのに。」
「うん、だから…。」
「ああ、ごめん、私、何も考えてなかった。うわ、大変だ。えっと、どうする?これ何か考えないとまずいやつだ。どうしよう?そうか、ああ、ごめん。どうする?…ん?どうすれば?」
二人の前に現実的な課題があることに気付いたとき、顧問が美術室に入ってきた。
「おう、さっきは悪かったな。今井と連絡ついたか?」
「先生!学園祭のときって…。」
と、顧問に言いかけた恵莉を制止して
「その前に…今井先輩は気にしないでいいって。」
と、薫が顧問にメールのやり取りを見せた。
「そうか。悪かったな。今井にはジュースの一本でもおごってやらなきゃな。」
「俺達にもおごってくださいよ。ガラスの処理もしたんですから。」
薫が言うと、恵莉が待ちきれずに話を戻した。
「先生、学園祭のときってこの部屋全部、美術部のスペースになるんですか?」
「ああ、いつもそうだけど。」
「今年、実動部員四人になっちゃって、四作品しかないのに、この部屋全部って、どうすればいいんですか。」
「一人でたくさん出してもいいよ。あとは、なんか適当に飾りとか布でごまかせば。毎年そんな感じだから。」
恵莉の深刻そうな言いぶりとは対照的に、顧問はのんきな調子でそう答えると、まあ、よしなによしなに、と言いながら美術室を後にした。
「よしなにって言われても…。」
恵莉が少し怒っていることに薫は少し戸惑っている。
「松岡さん?」
「なんか、悔しくなってきた。頑張ろう。ね。瀬川君。」
「う、うん。」
薫は共感と戸惑いの混ざった顔で返事をしてから、少しだけ不思議そうに恵莉の様子を見ていた。すると、顧問がここ数年分の学園祭の写真を持って再び現れた。
「毎年こんな感じ。準備するときになれば、自分達もクラスの方もあるだろうし、あんまり凝ったこと考えても大変なだけだから、無理しない程度にな。」
一通り写真をめくると、恵莉が顧問に向かって確認する様に聞いた。
「美術の作品って、人に見られてなんぼですよね?」
「へ?はあ、まあ…。」
顧問は、ちょっと恵莉に威圧されている。
「多くの人に見てもらって、そのうちの数十パーセントが理解して、そのうちの数パーセントが感動するんだと、私はそう思うんです。違いますか?」
「へ?なんだ、美術鑑賞論を語るか?」
顧問もさすがに応戦すべきかと身構える。
「論だか何だか知りませんけど、私はただ、今井先輩のあれは、良いと思います。すごく良い作品です。純粋に良いんです。だから多くの人に見せたい。そういうことです。」
「ふん…だったら、心配するのは出品数じゃなくて、展示の仕方と、ポスターの作り方を工夫したらいいかもな。」
そう言って顧問は準備室から大きくて分厚い美術書を持ってきた。
「例えば、こういう有名な美術館とかの展示方法をみてごらん。広い空間に数点の作品しか置いていないだろ?大事なのは数じゃない。いかにその作品の魅力を引き立たせるかっていうこと。言い換えればその魅力を邪魔しない雰囲気作りに工夫が必要ってことなんだ。それと、その魅力的なものの存在を知らせる手段がポスターだから、行ってみたいとか見てみたいと思わせれば成功ってわけだ。」
顧問の説明に、わかるようなわからないような顔をしている恵莉の横で、薫が目を輝かせた。
「そうですよね。作品を引き立たせる展示方法…演出…。」
恵莉は思わず薫の顔をみた。薫には何かがわかったらしい。
「先生、俺、展示方法、考えます。ポスターも、あの作品の魅力を伝えるような。」
「よし、いいぞ頑張れ。でも無理しない程度にな。じゃ、これ、貸しておくな。」
顧問はそう言って写真と美術書を薫に託すと、美術室を後にした。
薫は、美術書をめくりながら、何かを考えている。しばらく恵莉はその様子を眺めつつ、なんかいいな、と思った。薫は今井の作品の良さを発信したい一心でいる。それは恵莉もまったく同じ想いだ。魅力的なものの存在を知らせたい。
「うっわ。閃いた。」
恵莉は急にそう言うと、自分のスケッチブックの新しいページを広げて何やらラフに絵を描き始めた。縦長に置いた紙面の上に「美術部展」と走り書き、下には「美術室にて」、そして恐らくだが、中央に今井の作品の形状をざっくりと形どって軽く斜線で塗りつぶし、その周囲を赤いパステルで囲うと指でささっと滲ませた。
「こんなん、どうかな?」
恵莉はスケッチブックを両手でもって、薫に向けて見せた。
「ポスター案ってこと?」
「そう。先輩の作品をわざとシルエットにして、情熱のハレーションで包む。」
「…情熱?」
「作品名って、なんだった?作品名をここに書いて…。」
恵莉が「作品名」「作者」と書き込でいると薫が呟いた。
「赤、か…。」
「あれ、赤じゃない?違う色?」
恵莉が薫の顔を覗き込む。薫は顎に手を当ててスケッチブックを見ながら
「俺は、どっちかっていうと、黄色?卵色?ひよこ色?あれ?淡い薄い…黄色?」
そう言いながら、恵莉のパステルから黄色を取り、スケッチブックの端に線を薄く描いて、指で擦り付けた。
「…へえ…うん。それもいいね。どっちもいいな。それぞれ。あ、じゃあ、グラデーションしてみるとか?ふふ。いいね。引き立つかな。」
恵莉は楽しそうにスケッチブックを眺め、色を試し始めた。
「そしたら、残り三点もこのパターンで、それぞれのポスターかチラシにしたらどうかな?シルエットは写真に撮ってリアルな形にした方がいいかも。」
と、薫も沸いてきた具体的なイメージを語る。
「うん、いいじゃん…でも私のはただの四角だな。」
「あ、そっか。でもいいよ、それも。作品名と作者は書くし。」
「なるほど。逆に面白いかも?いいね。」
二人はその日、展示に関することで一日を費やした。
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