一ノ6

 翌々日の部活の日、恵莉は少し遅れて美術室に行った。廊下にまで聞こえる賑やかな笑い声で既に由佳里が来ていることがわかった。引き戸の窓から覗くと、今井と由佳里、薫、岡田が談笑していて、中途半端な夏の日差しに照らされて舞う埃と、銘々の感情の靄が複雑に立ち上っているのが見えた。窓枠に収まったその光景がまるで絵画の様に思えた恵莉は、なんとなくそのまま部屋に入る気がせず、ひとまずトイレに向かった。仕上がった下絵について、そこにたどり着くまでアドバイスをくれた今井と薫に見てもらいたかったが、心のどこかでその二人には見られたくない気持ちもあった。トイレの鏡に映る自分に向かって、あまり面倒なことにならない様にしろよ、と言い聞かせた。

 美術室の戸を開けると、四人が一斉に恵莉の方を向いた。室内が完全なる日常状態であることを確認した恵莉は、こんちわ、と言いながら荷物を置いた。

「恵莉ちゃん!待ってたよ。」

 と由佳里が楽しそうに言う。

「え、すみません、待たせました?」

 と答えると、由佳里の顔の後ろに笑みを湛えた今井が見えた。

「これ、完成したんだ。」

 と今井が自分の作品を指さした。

「そうなんですね。おめでとうございます。」

 恵莉が言うと、今井が姿勢を改めながら立ち上がり、話を始めた。

「恵莉ちゃんが来たので、改めてみんなに話しをするね。えっと、この完成を持ちまして、わたくし、引退いたします。部長は由佳里に引き継ぎ、副部長は薫君に頼みたいと思います。実質的なことは結局薫君に任せることになると思うけど、よろしくお願いします。」

 皆で拍手をしたことが承認の証となった。それを受けて由佳里が口を開く。

「はい。名ばかり部長です。ご存知の通り、自宅で活動に勤しんでおります。部長会とかそういうのはちゃんと出るけど、委員会の方もあるし、三人には申し訳ないけど業務連絡でしか顔を出さないと思います。ごめんね。薫君、よろしくお願いします。以上です。」

 敬礼のようなポーズで由佳里が言葉を締めくくった。拍手が止むと、由佳里に促された薫が鼻の頭を掻きながら、渋々口を開いた。

「はい。そういうことです。実質三人ですが、よろしくです。」

 恵莉は若干の同情を込めて拍手した。

「今の名ばかり部員は、来年度以降も部の存続のために名前だけ残してもらう様に声かけを忘れずに。何かあったらまあ、とりあえず顧問になんでも相談すればいいから。」

 と、今井が最後の部長らしいアドバイスをして、臨時会議は終了となった。

「今井先輩、この作品は学祭まで準備室に保管ですか?」

 と薫が尋ねると、今井は養生用の緩衝シートを取り出しながら答えた。

「そう。顧問に許可もらってあるから。ちょっと重いし、倒れない様に気を付けて端に寄せておくよう言われてある。」

 二人の会話は作品をシートで覆う間続いた。由佳里は今井のロッカーを開けて中を眺めていたが、二人の作業のキリを見計らって声をかける。

「先輩。ここももう引き上げる?」

「ああ、そうだね。」

 作品を準備室の前まで移動させて、今井はロッカーの片付けに取り掛かった。恵莉がいつもの席で作業の準備を始めると、岡田が傍に来て言った。

「ねえ、松岡さん。学祭の作品、進んでる?」

「え、うん。一応。」

「そう。私、ちょっとやばいんだよね。」

「え、やばい?」

「うん。水彩で超適当に描いたんだけど、今井先輩のあんなの見せられちゃったら、一緒に出すの恥ずかしくなってきちゃって。」

「先輩は美大志望だから、私らのような素人とは違って当然でしょ。」

「そうだけど、ちょっと、私のじゃ無理って思って。」

「…じゃあ、相談してみたら?ねえ、瀬川君。副部長さん。」

 恵莉が声をかけると自分の作業準備をしていた薫が振り向いた。

「え、副部長って、それやめて。」

「岡田さんが水彩のこと、相談したいって。」

「ああ、そう。俺が乗れる相談ならいいけど…。」

 そう言いながら岡田の顔を見た。岡田は少し恥じらいながら薫の元へ自分の水彩を手に近寄った。

 恵莉は、本番用の紙に薄い線を方眼状に書き始めた。すると、由佳里とともにロッカーの中身をひっくり返していた今井が薫を呼んだ。

「あ、ごめん。」

 薫は岡田との会話を即座に中断して今井の元へと走り寄った。

「これ、彫刻刀用の砥石。使うよね?薫君にあげる。」

「え、いいんですか?」

「うん…あと、この古い彫刻刀も…ちょっとボロ過ぎるか?」

 と今井が躊躇すると、横から由佳里が口を出す。

「ボロ過ぎ。いくらなんでも人にあげるレベルじゃないから。薫君に失礼だよ。」

「あ、いや、でも…。」

「ほら、断れなくて困ってるじゃん。これは捨てちゃえば?部保管のもあるし。」

 と由佳里が取り上げようとした彫刻刀を握りしめ、

「いえ、もらいます。自分の予備にします。」

 と薫が言った。今井は笑って別の物を取り出しては薫に押し付け、由佳里がダメ出しをする、そんなやりとりが何度か繰り返された。岡田は水彩画を持ったまま、どことなく寂しげにその様子を眺めている。恵莉は岡田の横顔とロッカー回りの三人の様子をちらっとだけ見ると、あえて自分の手元に集中しようと努めた。

 恵莉が方眼を薄く書いた紙に下絵を写し取っていると、いつの間にか岡田も薫もそれぞれの作業を始めていて、部長職に関する資料を含めた引継ぎを終えたらしい今井と由佳里が揃って三人に声をかけた。

「じゃあ、俺らはこれで帰ります。」

「今日の戸締りは、薫君お願いね。」

 と由佳里が鍵を薫に渡す。

「明日、顧問が来るから、そしたら準備室にあれ、入れておいてくれるか?」

 と作品を指さして今井が薫に頼む。

「はい。わかりました。」

 と鍵を受け取りながら、薫が答えた。

「今井先輩、受験頑張ってください。」

 と恵莉が言うと、今井は笑顔で、おう、と答え、ロッカーの中身が詰まっているらしい紙袋を両手に持ち、深々と頭を下げた。

「今までありがとう。これからも励んでください。俺も励みます。」

 キッと口を一文字にした顔で頭をあげると、今井はやや広い歩幅で美術室を去っていった。由佳里は自分の鞄と今井の鞄を肩にかけて、じゃ、と手を振りながら今井の後について教室を出た。

 今井と由佳里がいなくなった美術室は急に賑やかさが失われ、宙に舞う埃にさえ質量を感じるほど重たい空気に包まれた。照明が一つ消えたのかと思わず恵莉が天井を見上げたとき、岡田が誰に言うでもなく口を開いた。

「あの二人、絶対付き合ってるよね。」

 その言葉を聞いた恵莉は心の中で舌打ちをした。

 <どうして、どうでもいいことを口にするのだろう。同意して欲しいのか?仮に私が同意したとして、それが何だ。仮に私が否定したとして、それがどうした…?>

 恵莉は、盗み見た薫の背中に深海を思わせる雲が見えた気がして慌てて作業を再開した。ほどなくして手元が人影で暗くなったことに驚いて顔をあげた。

「ああ、びっくりした。瀬川君か。」

「松岡さん、今日は最後まで作業していく?」

「え、あ、うん。そのつもり。」

「そう…。俺、ちょっと早く帰ろうかと…。」

 戸惑う様に言う言葉を遮って恵莉が言った。

「あ、じゃあ、戸締りは私がするよ。」

 すると、薫は少し迷ってから、言った。

「…じゃあ、頼む。鍵の返却場所って…。」

「知ってる。職員室の壁の、あそこだよね。日誌、書いておけばいいんでしょ。」

「うん…なんだ。松岡さんが副部長でも良かったじゃん。」

 恵莉は弱々しく無理に笑う薫の心情に首を傾げながら鍵を受け取った。すると薫の後ろにいた岡田がすかさず口を挟む。

「え、瀬川君帰るの?じゃあ、私も一緒に帰る。」

 その言葉を受けて一瞬、薫の美しい顔に嫌悪感が漲ったのだが、その顔が岡田からは見えていないことに恵莉はなぜかホッとした。

「あ、でもまだ、帰らないけど。もうちょっとやってくけど…。」

 と薫が振り返ると、岡田もめげずに言う。

「合わせるよ。今日こそは一緒に帰りたい。」

 うまく断れない様に誘導するもんだな、と恵莉は岡田の言葉に感心した。薫が自分の席に戻ると、岡田は薫に再び水彩の相談を投げかけた。恵莉は、部屋の中に三人しかいないにもかかわらず、二人の会話をほとんど耳に入れずに作業に集中した。どのくらい時間が経ったのか、どのくらい二人が話をしていて、その後どのくらいの沈黙があったのか全く知らないうちに、薫と岡田がすっかり帰り支度を済ませて恵莉に声をかけた。

「じゃあ、俺ら帰るけど。」

「うん。お疲れ。私も作業がキリになったら、帰るかも。」

 と言うと、岡田は八割の嬉しさと二割の攻撃性を持った笑顔で

「じゃあ、さよなら。」

 と言った。恵莉は表情を変えずに二人にさよなら、と言って、作業を続けた。

 一人になったことで、恵莉は少し気持ちを緩めて下絵を眺めると、我ながら自分の絵が気に入っていることに気付き、一人でニヤけている自分に慌てた。本番用の紙を眺め、そして新たに買った桜色のパステルをそっと触り、ふと緩衝シートに包まれた今井の作品に目をやった。覆われているのにもかかわらず、ほんのりとした赤い光がかすかにハレーションの様に見えた。溶かした鉄を流し込んだ直後の鋳造品の様に、今井の作品に込められた情熱や真剣さの余韻が漂っているのだろう、と解釈した恵莉は、ゆっくりと立ち上がって恐る恐る作品に近づき、そしてかすかな赤いハレーションに手をかざしてみた。ハレーションは恵莉の手には一切反応せずに同じ形を保っている。時々、人の感情が激しすぎてどっと自分の中に流れ込んでくることがあるが、これはそんなことは全くなかった。安心して手を下ろし、まじまじとハレーションを眺めた。もっとも、ハレーションなので凝視することはできないのだが。降ろした掌がほんのり暖かいような感触であることに気付き、こんな風に情熱を込められるものがあるというのは素晴らしいな、と素直に感心した。そしてまた、そういう作品に触れることができ、そういうものを作り出すことのできる人に出会えたことにも喜びを感じた。

 <シンプルに、本当に嬉しい。人と交流するってこんなにいい気分だったなんて。人を避けてきたのが、少しもったいないことだったのかもしれない。人をすべて避けていたら、近づきたくない人との距離は保てるけれど、その分、素敵な人、素晴らしい人、自分にはない輝きを持つ人との出会いも逃してしまう。入部当初は帰宅部のつもりだったけど、そのままだったらこの美しい赤のハレーションには出会えなかったし、こんな至近距離で感じる機会もなかったはずだ。そう思えば、ここに入部して、初心者ながら活動することができて良かった。本当に良かった。この嬉しい感じが少しでも絵に込められたら、今井先輩への恩返しにもなるだろうか。そうだ、やっぱり自分で納得いくものに仕上げたい。>

 そんな思いを胸に下絵を描いて物思いにふけり、瞑想と現実を気ままに行き来しながら作業をした。ちょうど意識が美術室の日常状態へと戻ったときに鳴ったチャイムが活動の終了時刻を知らせた。

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