一ノ5

 翌日、朝から自宅の部屋で部から借りたままの「パステル画の基本」をペラペラとめくっていた恵莉は、ふと思い立ちスケッチブックを広げた。鉛筆で描いたラフな線と、少しだけ色鉛筆で色を乗せた下絵を眺め、そして昨日撮った写真と見比べる。しばらく、本とスケッチブックと写真とを順々に見ていたが、はらりと新しい頁を開くと鉛筆を軽く握り、澱むことなく何やら描き始めた。二時間ほど経っただろうか、外気温はぐんぐんと高くなって灼熱の酷暑日となる中、恵莉は美術部ご用達の画材店に向かった。

 目当ては作品本番用の紙と必要な色のパステル、新しい筆数本だけのはずだったが、画材店には誘惑が多く、筆一本選ぶだけでも目移りしてしまう。所狭しと並ぶ道具達は、どういう風に使うものかとポップを読むだけで一日過ごせてしまいそうだったが、気付くとどうも空腹感があり、立ちくらみを起こしかけた。時計を見ると一時を過ぎたところだったので、財布と相談しながらかごの中を厳選し、レジに向かった。

 購入した画材を脇に抱え、おつりとレシートを財布に押し込みながら店を出ようとすると、

「よう。」

 と知っている声がした。顔を上げると、今井とその後ろに少しだけ隠れる様にした由佳里がいた。

「ああ、先輩。こんにちは。」

 恵莉が財布を鞄にしまいながら答えた。

「恵莉ちゃん。買い物?」

 由佳里が可愛らしい笑顔で今井の肩越しに声をかける。

「はい。やっと下絵ができたんで、本番用の紙を買いに。」

「おお、そうなんだ。どんな感じの絵になった?」

 と今井も続けたが、恵莉は他の客を避けながら

「あ、えっとおかげさまなんですが話すと長いので…。あ、そうだ先輩、フィキサチーフって部のやつを使っていいんでしたよね?」

「ああ、大丈夫。まだ二本はストックあったと思うし。」

「わかりました。ありがとうございます。」

 恵莉が礼を言うと、由佳里が言った。

「明後日は私も行くから。じゃあね。」

 恵莉も、はい、と言って二人と入れ替わる様にして店を出た。表に出ると、今一度財布の中身を思い出して残金を自分に言い聞かせながら、通りの少し先にある大型書店へと向かった。

 書店のすぐ近くで、恵莉はハッとして立ち止まった。

「あ、重大なことを忘れてた。」

 そう呟きながら道の端に寄り、塀に手をついてしばらく途方に暮れていた。すると、すぐそこに見慣れた長身の人が歩いている。

「あ。」

 と、恵莉が声を出したのとほぼ同時に、薫も、あ、と言って立ち止まった。

「あれ、松岡さん、こんちわ。」

「瀬川君、こんちわ。」

「何してんの?」

「え、いや…。」

「本屋?」

「に、行こうと思ったけど、重大なことを忘れていて。」

「重大なこと…?」

「うん…いや、その…腹、減ってた。」

「は?」

「いや、腹減ってること、忘れてて…。」

「何か食べなよ。」

「それが金欠で…注文していた本があるから。」

「でも何か、顔色悪いよ?」

「うん…腹減りすぎて貧血っぽい…。」

 薫は呆れ顔で、近くのファストフードでよければおごると申し出た。

「おごってもらうなんて悪いよ。」

「いいよ。ここで倒れたりしたら、俺、安眠できなくなる。」

 少しの問答の末、薫の厚意に甘えることになったが、ファストフード店への足取りもふらついていた。薫は

「ふらふらなのに、忘れてたとか言うか、普通…。」

 などと言いながら恵莉の腕を支えて店まで行くとセットメニューを頼み、自分は昼食を済ませて来たからと飲み物だけ頼んだ。

「飲み物は?」

「コーヒー氷なしで、お願いしま…。」

 言い終える前に店員にオーダーを済ませた薫が、先に二階席へ行って座る様に指示をしたので、恵莉は手すりにすがりながら二階へと昇って行った。

 夏休みの平日昼間の一時半ともなると客はまばらで、恵莉は取りあえず目に入った窓側のカウンター席に座り込んだ。抱えていた画材店の袋をテーブルに置き、肘をついて頭を抱えていると、薫がトレーを持って隣に座った。

「大丈夫?熱中症じゃないの?」

 さすがに少し心配そうに声をかける。

「ううん。ただの空腹…。」

「じゃあ、とにかく、食べな。」

「ありがとう。いただきます。」

 そう言うと、恵莉は力なくハンバーガーにかじりついた。薫は黙って窓の外に視線をやったままときどき飲み物を口に含んだ。恵莉は、一口を少な目に口に入れ、咀嚼を多くゆっくりと食事をする。ハンバーガーが半分になったころ、ようやく言葉を発した。

「なんか、ありがとう。ごめんね。買い物に来たんだよね?」

 そう言いながらも、懸命に口の中の食べ物を咀嚼し、少しずつ体へと流し込んでいく。

「別に…半分暇つぶしで本屋に来ただけ。」

 薫は恵莉の顔を横目で見ながら言ったが、必死に食べていることを確認すると再び窓の外を見て、また沈黙が続いた。

 ようやく全てのハンバーガーを口に突っ込み、頬を膨らませて懸命に咀嚼していると、薫は改めて恵莉の顔を見た。

「顔色、少し戻ったな。」

 恵莉は、もぐもぐしたまま頷くと、指でOKサインをした。

「…朝飯食わなかった?」

 と聞かれた恵莉は小さく首を横に振った。まだ口に食べ物が入っていて話ができない。薫は、ふと机の上に置かれた画材店の袋に気が付いた。

「あ、画材屋、行ったんだ。」

 恵莉は頷くと、少なくなった口の中の食べ物をコーヒーで流し込む。

「そう。下絵ができた。」

 恵莉がもう一度コーヒーを飲み、口の中が整ったところでようやく二人の会話が再開した。

「おお、良かったね。」

「うん。それで本番用の紙と、パステルと筆を買いに来た。」

 そう言いながら恵莉は鞄から何やら薬を取り出し、コーヒーで飲み込んだ。

「お、おい、薬をコーヒーで飲んだ?」

 薫が少し慌てたが、恵莉は平気な顔で

「大丈夫。ただの鎮痛剤だし。」

 と言った。

「空腹に鎮痛剤って…。」

「ああ、大丈夫。ただの人でなしだから。」

「人でなし?…何それ。」

「あ、生理二日目ってこと。人間的でなくなるから。」

 薫は少し驚いた顔で聞いた。

「そういうのって、人間的でなくなるもの、なの?」

「私の場合はね。頭も動作も鈍くなって通常の人間でなくなる感じ。だから、人でなし。」

「…はあ。」

「あ、ごめん、男子に変な話して…。ああなんか、血糖値が上がってきた。人に戻ってきた。」

 恵莉が微笑むと、薫も

「人に戻ったなら、良かった。…大変だな、女子って。」

 と少し安心した様子で言った。

「うん。男に生まれなかったことが人生最初にして最大の失敗。男だったらどれほど楽だか…。ご迷惑おかけしました。来週にはちゃんと返すから。」

 恵莉はトレーを少し薫に寄せて、残りのポテトを勧めた。薫も自然と手を伸ばしながら聞き返す。

「え、返す?何を?」

「ここの食事代。」

「いいよ。おごるって。食事代ってほどの金額でもないし。」

 と言い、ポテトを一本口に放り込む。

「ううん。それじゃ岡田さんに対して気が引ける。」

「…ん?」

 恵莉が再びポテトを口に入れたので、薫はそれを飲み込むまで待ってから聞いた。

「岡田さんって?」

「岡田さん、瀬川君のこと狙ってるんだって。頑張るから応援してねって言われた。だから、おごってもらったらなんか、気まずい。」

 恵莉は平然とした顔で言ったが、薫は少し考えるような顔をして、

「俺、岡田さんに狙われてるの?」

 と確認した。恵莉は

「そうらしいよ。他の名ばかり部員の女子もみんなそうなんだって。」

 と答える。

「え、そうなの?」

「うん。私も知らなかったから、へえって思ったけど。」

 薫は、少しだけ眉間に皺を寄せて窓の外に顔を向けた。少しの間があって恵莉が言った。

「でも、狙うとか頑張るとか応援してとか、良くわかんない。つまりどういうことなんだろうか。」

 恵莉は、ポテトをかじりながら言葉を続けた。

「瀬川君は綺麗な顔をしてるから、女子からモテるのはわかるけど。」

 薫は恵莉の言葉に少々不機嫌な顔を傾ける。

「モテる…。」

「私ほどのブサイクだとライバル視されずに済むからいいけど、たぶん私を味方につけて狙い打とうってことかと。」

「狙い打つって、なんか、こわ。」

「うん、恐いよね、女子的戦略感…。しかも、瀬川君、好きな人がいるのに。」

 その言葉に薫が二度観したことなど気付かないまま恵莉は続ける。

「それでも狙うのを頑張るのかなあ。私は何を応援するんだろう。…よくわかんないんだよね、そういうの。」

 何気なく薫の顔を見ると、明らかに動揺していて逆に恵莉が驚いた。

「あれ?」

「…松岡さん…」

「ん?」

「えっと…あの。」

「…ん?」

「その…俺に、好きな人がいるって、思ってる?」

「うん。」

 薫は、こわばった顔で恵莉の目を見つめた。恵莉は平然とした顔でその目を見つめ返す。

「俺、松岡さんにそんな話、した?」

「ううん。」

 恵莉は、あえて目線を外さずに、ストローを咥えコーヒーを一口飲んだ。

「じゃあ、なんで…ていうか、え、誰だと思っているの?」

 すると、恵莉は急に何かを思い出した様に言った。

「あ、そっか。言っちゃった、やばい。ごめん。言ったらだめなやつだ。ちょっと人でなしになっていて制御緩んだ。ごめん。」

 話を切り上げようとポテトを食べたので、薫が慌てる。

「ちょっと、そこまで言っておいて、なんか…。」

「うん。もう言わない。大丈夫。ごめん。忘れてもらいたい。」

「いやいや、あの。」

 恵莉は、ポテトの袋を持って中を覗くと、残り二本のうちの短い方を自分の口に入れた。

「うん…私、瀬川君のこと好きだよ。」

「…は?」

 ぽっかり空いた薫の口に、恵莉は最後のポテトを放り込んだ。やむを得ず口が閉じたのを見てから恵莉は言った。

「えっと、岡田さんみたいな好きじゃなくて、完全に、人として、好き。恋してるんじゃないよ、そういうんじゃないんだけど…。」

 ポテトの袋をクシャッと丸めて続ける。

「瀬川君の光がね、素敵なんだ。一緒に部活してて、楽しい。そういうこと。」

 手を合わせてごちそうさまと呟くと、少し混乱した薫が落ち着きを取り戻した頃合いを見計らって、報告した。

「午前中、画材店で今井先輩と由佳里先輩に会ったんだけど、明後日の部活には由佳里先輩も来るって言ってた。」

 薫は、少し目を泳がせながら軽く頷いた。

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