一ノ4
夏休みに入り、部活は週に三日ペースで美術室での活動ができることになっていた。パステル画を描くことに決めた恵莉だったが、下絵の直しに苦戦していた。蝉がこれでもかと喚く中を汗だくで登校した恵莉が美術室に行くと、今井がちょうど部屋の鍵を開けるところだった。
「今井先輩、こんにちは。」
「よう、こんちわ。早いね。」
「先輩こそ。部長って毎回来るものなんですか?」
「いや、部長だからっていうか、超大作仕上げる必要があるから結局ほぼ毎日だよね。」
引き戸を開けて美術室の中に入る。
「そっか。受験もあるし大変ですね。」
「他人事みたいに言うけど、三年になるのなんてあっという間だよ。」
今井が電気をつけて荷物や鍵を置く隙に、恵莉はカーテンを開けて回った。
「松岡さんは、志望校とかもう決めてるの?」
「一応、工学部目指してます。」
「理系なんだ。へえ。」
「でも物理の先生に笑われました。どの成績でそれを言うんだって。」
それぞれ作業着に着替え、いつもの通りに作業のセッティングに取り掛かった。
「物理の成績、良くないの?」
「はい。中間で五十八点。期末で六十五点。」
「へえ…なかなか、だね。」
出来る限りの手伝いする恵莉に
「ありがとう、助かるよ。今日は、薫君来ないの?」
と今井が尋ねる。いつのまにか薫君呼びになっていることに何故だか嬉しい気持ちがちらついた恵莉だったが
「知りません。」
とだけ答えた。
少し経った頃、今井は肩をほぐす様に腕を動かしながら恵莉に声をかけた。
「下絵がうまくいってない?」
「そうなんです。なんか、これって感じにならなくて…。ダシの薄い味噌汁みたい。」
「ほう。それは独特な表現だね。」
今井が笑う。恵莉はしばらく机の上のスケッチブックを睨みつけていたが、
「少し、気晴らしてきます。」
と言い残し、スケッチブックを脇に抱えて校内を散歩しに出た。しばらくして美術室に戻ると、今井の傍らで薫が少し丸めた背中をこちらに向けていた。恵莉は、その様子を見ると、その場でスケッチブックを広げて少し線を描き加えたのだが、ふと思い立ってその様子を二人に気付かれない様に撮影した。撮った写真を確認すると、満足げに室内に入った。
「瀬川君、こんちわ。」
薫は体を少し浮かせて振り返った。
「おう。びっくりした。こんちわ。」
その後、一年生の部員が二人、二年生が一人、美術室に来たが、めったに顔を出さない部員達は兼部しているとかで、結局、学園祭へは出品しない、と言い放って帰って行き、最後まで作業していたのは今井と薫、恵莉、そして一年生部員の岡田理子(りこ)だけだった。掃除をしながら、岡田が薫に声をかけた。
「瀬川君、もしよかったら、駅まで一緒に帰らない?」
薫は、少し驚いた顔で
「ごめん、今日はちょっと、担任のとこに寄ることになってて。」
と言った。そのやり取りを聞いた今井は
「なんだよ薫君、駅まで送って行ってあげなよ。」
と炊きつけた。薫は、慌てて岡田に
「え、あ、送って行った方がいい?」
と尋ねたが、戸惑う薫に遠慮したのか
「ううん、いいの。また今度ね。じゃあ、お先に失礼します。」
と、その場を逃げる様にして帰って行った。
薫の気の利かない対応に呆れ顔の今井だったが、流し場で恵莉が絞った雑巾をぱんぱんと広げたのをちらっと見ると、それ以上何も言わずに作業着を脱いで帰り支度を始めた。薫はどこか釈然としない様子のまま手にしていた箒を片付け、恵莉は何も言わずにカーテンを閉めて回る。
「さ、鍵閉めるよ。忘れ物ない?次回は明々後日だからね。」
と今井が室内を一周して見回る。薫が慌てて作業着を脱ぎ始めたときには、荷物を持って廊下に出ていた恵莉が
「じゃあ、お疲れさまでした。一足お先です。さよなら。」
と言い残して帰って行った。今井は、「さよなら。」と返事をしながら部屋の戸の前で今一度指さし点検をした。薫が荷物を抱えて廊下に飛び出すと、今井は鍵を閉めた。
「担任のとこ、ホントに寄って行くんだったの?」
「ホントにってなんですか。」
「あ、いや…職員室に行くんなら、この鍵、返しておいてくれるか。」
「いいですけど、返す場所がわかんないです。」
「そうか。じゃあ、今後のために鍵の借り方と返し方、教えるわ。」
今井と薫は二人で職員室へ向かった。
恵莉が校門を出ると、少し前を岡田が歩いていた。声をかけるほど近くはないが、走り寄って一緒に帰るほど仲が良いわけでもない。できれば声をかけずに過ごしたいと恵莉が思ったとき、岡田の背中から、紡がれる糸の如き細い光がうっすらと見えたがすぐに消えた。
<きっと、瀬川君が後ろから追いついて声をかけてくれるのを期待しているんだな。>
と、恵莉は思った。恐らくだが、意図的に少しゆっくりと歩いている。このペースだと駅の手前で追いついてしまう。
<どうしよう。途中の店にでも寄ってくれないかな。いっそ瀬川君が追いついてくれたら助かるのに。>
恵莉が困っていると、突然岡田が振り返った。思いっきり恵莉と目が合うと、岡田も期待した人ではないことの落胆とともに、知っている人だったという安心感がよぎった複雑極まりない表情で作り笑いをした。仕方なく恵莉は小走りで岡田の横に並んだ。
「お疲れさま。」
恵莉がそう言うと、岡田も
「うん。お疲れ。」
と言った。二人はこれまで必要以上に会話を交わしたことがなかった。絶妙に不自然な会話のテンポに恵莉が心の中で溜息をついたとき、岡田が先に口を開いた。
「松岡さんは、部活の出席率高いよね。」
「え…うん。」
「最初は名ばかり部員になるって言ってなかった?」
「あ…うん。そのつもりで入ったんだけどね。」
「なんで?」
「え…なんか、パステルが面白くて。」
「…そう。」
恵莉は、こういう時の会話の続け方を知っている。「岡田さんは、なんで美術部に?」と聞けば会話が続くことを承知したうえで、恵莉はあえての沈黙を選択した。岡田は、人並みに女子的魅力をアピールするファッションを心がけており、ごく一般的な女子高校生だ、というのが恵莉の見立てだ。そんな岡田は自分に興味など持つはずがなかったし、恵莉もまた、今以上に親しくなるつもりはさらさらなかった。しばらくの間があって再び岡田が口を開いた。
「私は、正直言って、瀬川君狙いなの。」
恵莉は、前を向いたまま少し首を傾げた。
<なぜ、今このタイミングで、自分にそんな告白を…?>
「名ばかり部員の女子はみんな瀬川君狙いで、男子はみんな由佳里先輩ファンでしょ?」
「え?ああ…そうなんだ。へえ。」
恵莉は素直に驚いた。既に一学期が終わって、名ばかり部員達とは三度と顔を合わせていない。狙いやファンなら、逆に部活に顔だけでも出しそうなものなのに。
「あれ?じゃあ、松岡さんは違うの?」
わざとらしく岡田が言う。
「あ、うん。だって部活始めるまで瀬川君のことも知らなかったし。由佳里先輩もそんな人気者だとは…。」
「先輩はどっちかっていうと委員会の方で人気みたいだけどね。」
由佳里は放送委員会の副委員長もやっている。明るくてあか抜けた感じと飾らない性格だから、人気があると言われてもなんら不思議ではない。
「…へえ。」
「でも、入部説明会のときに、自宅で描くからほとんど部活には顔出さないって言っちゃってたじゃん。それでもう男子は顔出さないってわけ。」
「あ…私、説明会の記憶が無くて…そう。知らなかった。」
恵莉は、自分がやりたいことではなく一緒にいる人で部活を選ぶ、という人種がいることを初めて知った。
<なるほど、物事を選ぶのにそういう基準もあるのか。>
と、素直に感心していると、いつの間にか駅前に来ていた。岡田は立ち止まると恵莉に向き直って言った。
「私、瀬川君のこと、頑張るつもり。松岡さん、応援してくれる?」
「あ、うん…え、応援?」
「ありがとう。じゃあ、私コンビニに寄るから。」
足早にコンビニに向かう女子高生の後ろ姿を見送ってから、恵莉は駅へ向かった。
駅のホームで電車を待つ間、岡田が頭の中を賑やかしていた。
<岡田さんは、学園祭に出す作品の題材をどうやって決めたのだろう。私なんか今井先輩に助けてもらって、ようやく題材の見つけ方を知ったというのに。普通はそんなところで苦労なんてしないものなのだろうか。…「頑張るつもり」…あれ?さっきの頑張るって、何だ?…瀬川君狙い、頑張る…えっと、それはつまり、付き合いたいってこと、なんだろうけど、でも…あれ、応援って何?つまり、私にどうしろと…? >
ホームに入ってきた電車が巻き上げる風に煽られたとき、ふと脳裏に今井と由佳里のじゃれあう光景が浮かんだ。
<付き合うって、ああいうこと?…でも、友達同士とは何が違うんだ?>
扉が開くと条件反射の様に電車に乗り込んだが、答えを知らない問いが脳内をぐるぐると巡っていて、無意識に目で追っていた車窓の流れる景色にめまいがした恵莉は、吊り革を握る自分の手に視線を移して呼吸を整えながら、努めて夕飯のメニュー予想を始めた。
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