一ノ2

 一学期の期末試験が終わると、学園祭に向けた作品の仕上げに掛かるよう顧問から指示があったが、恵莉は入部以来ひたすらパステルの基本練習をしていただけだったので、改めて作品を求められると困ってしまった。

「瀬川君は、何を出すの?」

 既に木を彫り始めている薫に話しかけると、薫は恵莉の顔を見ることなく答えた。

「このレリーフを仕上げるけど。」

「え、それって入部直後から学祭向けのつもりだったの?」

「そうだよ。入部説明会でそういう話あったでしょ。」

「え…記憶にない。」

 薫は背筋を伸ばしながら木くずをフッと払う。

「松岡さんは、パステル画?」

 そう言いながら顔を上げた。

「う、ん…。何か描いてみたいとは思うけど。」

 恵莉の視線がまっすぐ自分に向けられていることで、ようやく薫は自分が相談されていることを察したらしい。

「基本練習の成果を絵にすれば?」

「それが…絵にはしたいけど何を描いたらいいのかわからなくて。」

「そう。…じゃあ、具体的なものか抽象的なものか、の二択だったら?」

 薫は彫刻刀を置いて、右腕をストレッチしながら質問した。

「ん…具体的、かなあ。」

「なら、少し意識して周りを見渡せば、描きたいものとか場面とか、いくらでもあると思うよ。」

 今度は左腕を右手で抱えて肩をほぐしながら言った。恵莉はそんな薫の言葉を逃すまいと聞いている。

「描きたいもの…え、場面って?」

「静物画とか、風景画とか、人物画とか、いくらでも。」

「ああ…なるほど…。」

「昔、美術教室の先生が言ってたんだけど、題材は絶対に自分で決めろって。人に与えられた題材だとすぐに行き詰るから。」

「…ふうん。」

 恵莉は、納得と混乱が入り混じった表情で考え込んだ。その様子を遠巻きに見ていた今井が近寄ってきて優しく言った。

「そういう時は、頭で考えてもだめなんだよ。」

 その言葉に恵莉は驚いて今井に尋ねる。

「え、でも、頭でなかったら、どこで考えるんですか?」

「それにはちょっとしたコツがあってね。要は、理屈じゃないところで自分のセンスが反応した瞬間を捉えればいいんだ。」

 今井がそう言いながら恵莉の傍らに座ると、つられて腰を下ろした恵莉の太い眉の間に皺が寄っている。

「センスを…捉える?」

「わかりにくいか…えっとね。じゃあ、今、瀬川君の顔を見て。」

「はい。」

 二人は同時に薫の顔を見る。見られた薫は一瞬だけ身構えたが、あえてその場を動かずに彫刻刀の刃の具合を確認し始めた。

「今、俺らは二人とも瀬川君を見ているよね。…今日も変わらずのイケメンだな。」

「はい。変わらずの綺麗な顔です。」

「ほら。今、綺麗だなって、思ったでしょ。それが、センスの反応。」

「ああ、はい…ん?どういうこと?」

「それでね、今、松岡さんと俺は同じものを見ているけど、見えているものは違うんだ。」

「え?瀬川君を見ているんですよね?」

 薫は、今井の言わんとすることを察したらしく大袈裟な笑顔を作り、今井もふふっと笑って続けた。

「松岡さんの目が捉えた瀬川君を、松岡さんの脳が映像化して松岡さんが見ている。だから、俺が今見ている映像は、松岡さんとは同じじゃない。わかる?松岡さんの見る世界は、松岡さんだけが見ている世界。だから、松岡さんのセンスが反応したときの場面は、松岡さんにしか描けない。そういうこと。」

 薫の顔を凝視したまま今井の言葉を幾度となく反芻した恵莉は、やがて眉間の皺が徐々に消え去り、つぶらな目は通常よりも一.五倍に大きくなっていった。今井はその顔の変化を見て微笑んだ。

「おお、わかってくれたっぽい。良かった。」

 薫が恵莉と今井の顔を交互に見ながら言った。

「あの、もう動いても?」

 今井が頷くと、薫は両腕を前に突き出して恵莉の視線を遮った。

「さすがに、二人に見つめられたら照れますって。」

「はは。ごめんごめん。」

 薫と今井が笑い合う中、恵莉は頭の中が激しく動いていることを感じた。そして、今井がセンス、と表現した内なる感覚を理解したことを体中で喜んだ。

「…わかった感じがする。今井先輩、すごいです…。ありがとうございます。」

 恵莉が言葉を絞り出して感動に浸っている内に、薫は彫刻刀を砥石で研ぎ始めていた。すると

「…あ。」

 と小さい声が薫の口から洩れ出た。今井がその声に反応してちらっと薫の方を向き、一瞬の間があって、

「おい!」

 と叫んだ。今井の声に驚いて恵莉が振り向くと、鮮やかな血が妙に艶めかしくぽたり、と落ちた。薫は何故か、己の血が滴る様をぼんやりと見ている。今井は俊敏な動きで薫に駆け寄り、無傷の右手で切れた指の根元を握らせた。

「手を心臓より上に。」

 と今井は小さい声で言い、されるがままの薫の両腕を顔の高さまで持ち上げた。恵莉が慌てて差し出したティッシュ受け取ると、流血する指を包み込んでぎゅっと握った。

「血が止まるまで、そのままな。」

 と今井は優しく言ったが、薫は動揺したのか反応しない。

「彫刻刀で指切るなんて、小学生かよ。」

 今井が意図的に表情を緩めながらもう一度薫に話しかけた。その意図が通じたのか薫はようやく

「す…すみません。砥石ごとスルッと滑って。」

 と小さい声で答えて顔を赤らめた。恵莉は、救急箱を出してきて

「傷口、大きいですか?広いか、深いか…。」

 と絆創膏のサイズを選ぼうとしている。今井はそっとティッシュをめくり傷口を確認した。

「ああ、普通のサイズで大丈夫そうだよ。突いた感じだね、えぐってないから、良かった。」

 と言うと少しホッとした様子で、新しいティッシュを小さく畳んで再び傷口に静かに押し当てた。恵莉は絆創膏を取り出し今井に渡す。

「お、サンキュ。」

 今井はティッシュをめくって、

「もうちょっとだけ、抑えるか。」

 と再び薫の指を握りしめた。

「彫刻刀はバカにできないんだぜ。切り方悪いと、こう、えぐっちゃうこともあるから。ほんとに、気を付けろ。な。」

 今井は手を握り続け、紅潮した薫の顔を覗き込みながら話した。

「はい、すみません…。」

 と呟く様に薫が答えると、複雑な緊張感が漂う室内は静まり返り、恵莉は一瞬時が止まったのかと錯覚した。そんな緊張感に一人気付いていない今井が

「もう、大丈夫かな。」

 とティッシュを除けて傷口の具合を見てから、絆創膏をしっかりと貼ってやった。指の付け根を握らせていた薫の右手を静かに下ろさせ、巻いた絆創膏に優しく触れると

「痛むか?」

 と確認する。薫が首を横に振ったので今井は安堵した顔で笑った。

「良かった。」

「あ…ありがとうございました。俺…なんかびっくりしちゃって…。」

 恵莉は、数枚のティッシュを濡らしてきて今井に渡した。

「血がついちゃってるから、拭いてください。」

 今井は、おう、と言って顔の高さから下げさせない様にしている薫の左手の血痕を拭き取りながら、絆創膏に滲み出てくる血の様子を見る。

「まだ完全には止まってないな。血が止まるまでは左手そのままにしとけ。」

 と言うと、今度は薫の右手を引いて流し場まで連れていき、右手についていた血を洗ってやってから、自分の手も洗った。

 恵莉はそんな二人の様子を窺いつつも、なるべく見ない様にして血の付いたティッシュをゴミ箱に押し込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る