一ノ1

 高校では全員が部活に所属する決まりになっていたため、恵莉は別名「名ばかり部」と聞いた美術部に入部届を提出した。部活の時間の美術室には、時間潰しに名ばかり部員もたまには顔を出すらしかったが、ちゃんとした作品に取り組んでいるのは美大進学を目指す三年生の部長と二年生の副部長、それと少しだけ美術の経験があるという一年生の三人だけだった。それまで授業でしか美術に関わったことのない超初心者の恵莉だったが、黙々と作業に集中する先輩と、物静かな一年生しかいない放課後の美術室は妙に落ち着く感じがして、自分もそこに居たいと思った。部には、油絵具や石膏、ノミなど初めて見るアイテムがたくさんあり、中でもパステルに興味をもった恵莉は、実動部員になることを決めた。

 同じ一年生の瀬川薫は長身で線が細く、美しい顔立ちをした男子生徒だった。歩くだけで誰しもつい見とれてしまうような美少年と呼ぶにふさわしい薫は、その恵まれた容姿を持て余しているのか表情は硬くて口数も少なく、女子の熱視線にも不愛想だが、部活の時だけは楽しそうな顔を見せることがある様だった。

 部活に行くと、恵莉はスケッチブックにパステルの画法を試すだけの時間を過ごした。パステルの感触や質感、ぼかしの濃淡を単純に試すだけだったが、真っ白い紙の上に淡いグラデーションを描く間は、気持ちを無防備にして集中することができ何とも心地が良かった。何よりパステルは、<それ>を見えたままに近い感じで表現できる。<それ>が見えてしまうことに関して誰かに理解してもらおうと試みたことなどなかったが、実際に紙の上に描いてみると、これまでずっと抱えて隠して閉じ込めてきたことに対するフラストレーションが少しばかり解消される気がした。

 その日も、部所蔵の「パステル画の基本」という本を脇に置き、白と黄色のパステルを削るとその粉を筆でやんわりと紙の上に滑らせた。

 <もし、自分がユキちゃんのような女の子だったら…。姉の様に女の子として見るからに可愛らしい子どもだったら…。居るだけで自然と視線を惹きつける美しい子どもだったら、たとえ男の子でなかったとしても父はこんな蒸気を自分に向けただろうか…?>

 ユキちゃんとは、幼稚園で出会った同級生だ。サラサラな長い髪をおさげに編み、色白で頬をすぐに桃色に染める恥ずかしがり屋の女の子だった。絵本に描かれたお姫様にも似た可愛いいユキちゃんが恥じらいながらフフッと微笑んだ時、その場に居合わせた人達の肩の辺りから透明感のある乳白色と蜂蜜色の入り混じる蒸気のような<それ>が一斉に湧き上がったのを見た恵莉は、美しい人がその容姿で見る者を魅了し得ることを知った。そして、集合写真に写った自分が、まとまらないくせ毛髪に太いゲジ眉を寄せ気味にし、威嚇するかのような睨み一重の小さな両目とへの字口の下膨れた顔であることに愕然としたのはそのすぐ後の事だった。

 ユキちゃんによる<それ>を紙の上に再現させながら自分の世界に入り込んでいた恵莉は、いつのまにか薫が斜め前の席で作業を始めていたことに気付いて驚くと同時に、こんなにすぐ近くに人が居ても自分が作業に集中できていたことにちょっとした喜びを感じた。

 木彫レリーフの下絵を描いては消して修正をする薫は、やはり周囲に人が居ることなど忘れて作業に集中している様だった。

 <整った顔立ちで背は高くスタイルも良い。私に備わっていない要素の権化そのもの。この人は、姉やユキちゃんみたいに別次元の人間のはずなのに…。>

 と、恵莉は手を止めて薫の横顔を眺めた。

 <この、ほのかに漂う親近感は、気のせいか?それとも…>

 すると、視線に気付いた薫が顔を向けた。

「ん?」

「あ、いや。」

 そう答えつつも視線を外さない恵莉の顔を薫は不思議そうに見返している。少しの間があって、恵莉が口を開いた。

「瀬川君って、綺麗な顔してるのに。」

「してる…のに?」

 恵莉は視線を自分の手元に戻して呟いた。

「何か…抑える癖があるのかな…。」

 薫はその言葉の意味を少し考えた様だが、恵莉がもう会話を続ける気が無いのを見て取ったらしく、自分の作業を再開した。すると、部長の今井悦人(よしと)が部屋に入ってきた。

「こんにちは。」

 と薫と恵莉が挨拶をする。入部してから美術教師でもある顧問が「美術部は、体育系の様に縦の関係を重んじはしない。その分、実力勝負だ。先輩も後輩も関係なく、素晴らしい作品を創造する人には敬意と賛辞を惜しまないこと、それがこの部のルールだからな。」と言っていたが、この言葉に素直に従いたくなるほどに、今井は部長としても実力でも敬意を払うべき相手だった。

「よう、こんちわ。励んでるか。」

 今井は荷物を置いて、作業着替わりの白衣に袖を通す。白衣と呼ばれるその服は既に様々な色に汚れているが、恵莉のような素人からみればそれがまた美大生のようで格好良く見えた。

「今井先輩、昨日の続きでいいんですよね?」

 と言いながら薫が席を立った。今井と薫は小学生の時に同じ美術教室に通っていたというが、そのころから頭角を現していた今井とは違い薫は二年程通って辞めてしまったらしい。そんな昔の好もあってか、薫は進んで今井の手伝いをする。

「いつもありがとうな。こんなでかい彫刻、瀬川君が居なかったらどうするんだったんだろうな、俺。」

 今井は自嘲気味に笑いながら、薫と力を合わせて慎重に作品を作業できる場所まで動かす。

「先輩にしか作れない超大作のお手伝いができるだけで、俺、光栄です。」

 薫は今井の近くに移動するため自分の作業道具をまとめ始めた。そんな薫と目が合った恵莉はつい、ニマッと微笑んだ。

「ん?何?」

 と薫が尋ねたが、恵莉は何も言わずに首を振る。

「…松岡さんって、面白いね。」

 と薫が言った。

「え、何が?」

「いや、なんかそう思った。」

 と笑顔を見せ、そのまま今井の傍らへと移動した薫の様子を恵莉もまた微笑んだままで見守った。

 恵莉は、薫の背中が今井と居る時にだけほんのりと光ることを知っていた。


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