光彩陸離たる君の
諏訪 剱
プロローグ
世間には、一般的に見えないとされるものが見えてしまう人が少なからずいて、見えないことを基準に構築された社会環境の中で苦労しながら生きている。それでももし、見ようとしたときにだけ見えるのであれば占いとかオーラ鑑定とかそういった所でその能力を活用することができるかもしれない。しかし、恵莉の様に自分の意思とは無関係に見えたり、そうかと思えば瞬時に消えたりする場合、活用するどころかその不都合さを人に理解してもらうことさえ至難の業であり、結局のところ人知れず普通ではない自分に苦悩することになるのである。
松岡家の次女として生まれた恵莉は、この世に飛び出す前から人一倍大きく、その産声は産院内で最も力強かった。その逞しさたるや、取り上げた産科医が性別を見るに「この子は腹の中に<忘れ物>をした」と表現したとかで、その女児らしからぬ恵莉の人生最初にして最大の<忘れ物>は父を大いに落胆させた。
父は極めて普通のサラリーマンだったが毎日の様に酒を飲んでは深夜に帰り、週末は趣味の登山三昧と、総じてあまり家に居なかった。五歳で父親を亡くした彼は<男だから>という呪縛によって母、姉、妹を束ねる一家の長に据えられて育ったというから、男子のいる家庭に強い憧れを持っていることに不思議はないし、結婚後も母、妻、長女の暮らす家から自分を遠ざけたい衝動を抱いたことには同情の余地もあった。家庭内に次女が加わったことで一層趣味に勤しむようなった父に苛立つ母は「あの人はあんたが生まれた時、産院に一度も来やしなかった。」としばしば恵莉に愚痴を言った。
無邪気な頃の恵莉が稀に家にいる父を捕まえては「女の中に男が一人」と家庭内仲間はずれ発言を連発したらしいことはだいぶ後になって明るみになった話で、このときの心情がはたして父に構って欲しくて言ったものなのか、自分とにだけ距離を取る父への反発だったのかは恵莉本人にもわからないままだ。
体が縦にも横にも少しばかり平均を上回る以外は至って普通の子どもだった恵莉が、どことなく他の子と違う反応をする様になったのは幼稚園に通い始めてからだった。人の背後をぼんやりと見たり、急に避けるような仕草をしたり、突然怯える態度をとったりすることで大人達から情緒不安定気味な子だと見なされた恵莉は、<それ>が自分にだけ見えているのだと理解する様になった。女児は可愛らしくお人形遊びが好きであるべきで、男児はやんちゃでお庭を駆け回るべきだと刷り込まれたのもこの頃だ。いかにも女児らしい子達はこの頃から容姿を武器に媚びて甘えることを習得し始めたが、恵莉は他の子と同様に振る舞っても結果が伴わないことに困惑した。いかにも男児らしく漲る生命力で騒ぎ甘える術を身に付けた子らに紛れて駆け回ったなら、父も少しは目を向けたかもしれなかったが、運動神経が鈍い恵莉は懸命に走っても彼らに追いつけなかった。
小学校に上がると一年生の内から読書ばかりする様になった恵莉は、図書室のカラフルな絵本を手当たり次第に開くうち、ふと<それ>の色が表しているものに思い当たった。絵本を含めた児童書は<それ>のバリエーションを知るのに役立ち、恵莉が観察力を鍛えるのを助けてくれた。やがて、父が自分に向けるモスグリーンの<それ>の意味を知ったときから、恵莉は髪を短くし、姉からのおさがりであるリボン付きの服もピンク色のスカートも頑なに着るのを拒んだ。その理由を知る由もない母が、「おさがりを着ないなら、最初から男の子に生まれてくれば良かったじゃないの。」とこぼしながらも渋々、恵莉を男児服売り場へと連れて行く様になったのは三年生になってすぐのことだった。
中学生になると、それまで恵莉が意図的に避けていたスカートを着用して通学しなければならなくなった。恵莉にとって制服は、人から外見上の優劣をごまかすメリットと、男か女かの区別のみを強制的に表明させるというデメリットを併せ持つアイテムだった。家で父に自分の制服姿を晒すたび後ろめたい苦しさを感じ、学校では気付くと男子の姿を目で追っていた。それは特定の異性を見つめていたわけではなく、単に男子達が着ている制服を見ているのであり、父がずっと求めているのであろう姿に向けた説明のつかない感情がそうさせているらしかった。一人で謎だらけのモヤモヤした感情を抑えるのに苦労することもあったが、そんな思春期特有の情緒の乱れは同級生達にも現れていた。そして、複雑に入り乱れて突発性を増した<それ>の出現は、予想もしないおかしなタイミングで雷の如く恵莉を打ったり、静かに滔々と湧き出して恵莉の足下を覆いつくしたりした。必然的に、恵莉は<それ>から身を守るべく自分を自分の中に匿った。学校にいる間は独り班を決め込んでひたすら本を読み、ひたすら勉強に打ち込んでいるフリをする様になった結果、周囲からも勉強がそこそこできる陰気な奴、という称号を得て中学時代を乗り切り、その副産物として第一志望の高校に進学することができた。
高校は制服のない公立の進学校で、割と頭の回転が速い人が多かった。入学してすぐに、<それ>の荒々しさが中学と比べて格段に弱いことに気付いた恵莉は心の底から安堵し、客観的に同級生達の様子に目を向けることができる様になった。恵莉自身、まず喜びや楽しみを振りまくようなタイプの人間ではないし、どちらかというとその劣った容姿と閉鎖的な態度によって陰湿な雰囲気作りに特化していると言って相違ないのだが、それでも、いやむしろそうだからこそ、快活で笑顔を振りまき周囲を陽気にさせるクラスの人気者の様子を観察することが多くなった。改めて眺めてみると陽気な人は陽気な蒸気で人を和ませている。楽しい人は楽しい煙で雰囲気を軽くする。それは傍から見ていても、けっして嫌な気分にはならないのだ、ということがわかってきた。
恵莉は高校に入ってようやく少しだけ顔をあげて歩く様になった。
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