第十九夜:人前で言うのに勇気がいること

 気がついた時、隼人は学校の机に座っていた。

 教室の後ろから二番目のいつもの自分の席。見覚えのある同級生たちも制服を着て席に座っていた。これは夢だろうか。授業中でもないのに誰もしゃべらない。ただ座って前を向いて、じっと動かない。いつも、おしゃべりでうるさくしているはずなのに。今日は学校が無いはずなのに。

 体のあちこちが痛んでいた。

 それで思い出した。群衆に捕まって、あちこちを殴られ蹴られた。口内に血の味がして、唇に手をあてると、自分がダウンを着ていることに気がついた。これは夢なんかじゃない。周りは制服なのに、自分だけが私服だった。


「隼人くん、お話があるの」


 廊下から声がした瞬間、同級生たちは一斉に立ち上がった。そして、まるで機械仕掛けの兵隊のように、机を持ち上げて行進し、あたりに散開する。そして、その声がした方から自分の席への道を開けた。


「鞍馬さん?」


 声の方角、開け放たれた教室のドア、その向こうには制服姿の鞍馬麗子がいた。亜麻色の髪は艶めいて、唇は赤みを差し、輝くように潤んだ瞳はそっと伏せられて、彼女はそこに佇んでいる。

 隼人は思わず息を呑んだ。

 彼女はこれほどまでに、美しい人だっただろうか。


「レイコサマだ。レイコサマがドウシテ」

「クラスがチガウのに、ドウシテ、ワザワザ」

「ハヤトだ。ハヤトにハナシがアルンダ」

「イッタイ、ナンのハナシ?」

「ナンのハナシ、カシラ?」


 録音した音声を再生したかのように、周りの同級生たちが順番にしゃべっていく。

 みんな、どうしちまったんだ。


「鞍馬さん、これはどういう」


 と立ち上がろうとした瞬間、周りの生徒たちに体のあちこちを掴まれて席に戻されてしまう。冗談では済まないほどの強い力で、身動きがとれない。


「ダメよ。そうじゃなかったでしょ。あの時、隼人くんは座ったままだった」

「これは」と隼人は鞍馬を見返した。

「もう一度、やり直すのよ」


 麗子が隼人に近づいてくる。


「やり直すって、何を」

「酷いわ。忘れちゃったの? 私は一度たりとも忘れたことなかったのに。いつもいつも、この時のことを思い返しては、胸をいためて、自分を責めていたのよ」


 鞍馬さんがすぐ側まで近づくと、その目線が横にそれた。そして、まるで別人のような低く恐ろしい、ドスの効いた声で言った。


「そこの女、隼人くんにふれるな」


 その視線の先には、自分を抑え込んでいた女子がいた。彼女はすぐに手を離して平服したが、他の生徒たちに引きずられて教室の外へと連れ出されてしまった。


「これはどういう」

「やり直すの。告白を」と指を伸ばして隼人の頬に触れ「キスも」と唇を撫で「セックスも」と微笑んだ。

「……セックスなんて、してない」

「あら、じゃあ、誰としたの。もしかして、あの女と」

「誰とって、まだ誰とも、」

「嘘よ!」


 彼女は叫んだ。目を険しくとがらせ、その形のよい唇を歪めて、関節が白くなるまで拳を握りしめていた。


「隼人くんは、したのよ。あの女と。だから、私をふったの」

「鞍馬さん」

「私もさっさとしておけばよかった。キュウちゃんの言うとおりだった。所詮は男と女。何度も何度も体を重ねていれば、心も馴染んでくるものらしいわ。他の女に先を越されるくらいなら、恥ずかしがってないで、さっさとやっておけばよかった」


 隼人は、目の前で暴れ回る狂気を直視できなかった。

 目を逸らしたところで記憶がよみがえる。確かに、俺はこの教室で彼女から告白をされた。

 授業が終わった後、教室に突然現れた彼女に教室のみんながざわついていた。あの時の彼女は俺の机の前まで来て「ずっと前から、好きでした」と言ったのだ。


 あの時は、彼女が振り絞ったその勇気が分からなかった。

 今は、彼女の胸の痛みを知っている。

 自分は最低だった。


「ずっと前から、好きでした」


 彼女はまた、あの時と同じ告白を繰り返した。

 こんなになるまで、どうして俺を好きになってくれたのだろう。こんな勇気を俺なんかのために振り絞ってくれるのだろう。

 今なら、彼女のことをもっと知りたいと思う。


「ありがとう」と口をついた。

「それは、OKということかしら」


 彼女は首を傾ける。


「どうして、俺なんかを」

「どうして、私じゃだめなの」


 ——どうしてだろう?


「どうしても、隼人くんじゃなきゃ、だめなの」


 彼女の両手が肩にかかって、押さえつけられていた同級生の腕が引っ込んでいく。

 もはや抵抗するつもりはなかった。彼女の瞳がじっとこちらを見つめて、その唇が震えていた。彼女がふりしぼった勇気が伝わってくる。自分がイザギくんを前にして、曖昧にしてしまったものを、彼女はこんなになるまでやり遂げている。

 ああ、俺は本当にガキだった。

 みずから手を伸ばして、彼女の頬にそえる。

 すると、驚いた彼女は俺の肩から手を離した。その隙に立ち上がって、今度は彼女の肩を抱き寄せて、その潤んだ瞳を覗き込むように顔を寄せた。

 さっきまで扇情的だった様子はなりを潜めて、彼女はおびえたようにギュッと目を閉じた。

 それに、そっと唇を重ねる。

 素敵なキスってなんだろう?

 これは素敵なキスだと思う。

 女が発情した、すえたようなあの匂いがする。だけど、もう嫌な匂いとは思わない。甘い香りがした。


「ねぇ、隼人くん」

「なに」

「キスをしてくれたのは、キュウちゃんの力のおかげなのかな」


 そこにいるのは、いつもの鞍馬さんだった。そうだ、彼女はこんなにも可愛らしい人だった。


「分からない。分からないことばかりなんだ」

「こういうキスをしたかっただけだったのにね」


 彼女は泣いていた。その涙のあとを見て、自分がやってしまったことを思い出す。


「私ね」と彼女が笑った。「自分のことが嫌いなの」

「鞍馬さん」

「こんなことして。無理矢理、隼人くんを思い通りにしようとする自分が大嫌いなの。みんなに迷惑をかけて、あなたに無理をさせて。本当に、死んじゃったらよかった。あなたと出会ったあの後に、死ぬべきだったのよ。キュウちゃんに助けてもらうんじゃなかった」


 見ていられなくなって、彼女を抱きしめる。

 俺だって自分が大っ嫌いだ。何も知らないで、人を傷つけて、全然、親父みたいになれない。そんな自分が本当に大っ嫌いだ。


「ねぇ、隼人くん」と彼女の息が鼓膜をなでる。「お願いがあるの」

「なんだ」

「セックスして」

「……」

「ねぇ、セックスしてよ。ここでしましょう。きっと楽しいわ」


 突然、ケラケラと笑う甲高い声が耳元で鳴る。それは次第に大きくなっていき、腕の中の彼女が、少しずつ狂気に侵されていくのが分かった。


「私、綺麗な女でしょ。隼人くんだってきっと楽しめるはずよ。本当はずっとやりたかったの。お嬢様と思われていたから、口にはしなかったけど興味津々だったのよ。やりましょうよ、セックス。ねぇ、どうして黙っているの」


 鞍馬さんだった何者かが、耳の中に吐息を吹き込んで、舌で中を舐めまわしてくる。くちゃぴちゃ、と音を立てて、生ぬるい感触が前後に這い回るのだ。


「ねぇ、どうしたの。セックスよ。はやくしましょう。セックス」

「……しない」


 ぴたり、と腕の中でうごめいていた何者かが止まった。


「あの女じゃないと嫌?」

「ちがう」

「私のこと、そんなに嫌い?」

「ちがう!」

「……だったら、死になさいよ!」


 腕の中で何かが爆発して吹き飛ばされる。

 そのまま教室のガラス窓を突き破って、宙に放り出された。教室は二階、途中で木にぶつかって、落下したのはアスファルトの上。全身を強打した激痛に呼吸すら忘れてしまう。

 そのまま地面を這いつくばりながら、霞すむ目を上に向けると、鞍馬さんだった何者かが空に浮いてこちらを見下ろしていた。


「たっぷりとなぶり殺しにしてあげる」


 目の前に降りてきたそれが手をあげると、四方八方から大勢の生徒たちが走り出てきて、あっという間に周りを囲まれてしまった。


「なぁ、鞍馬さん」

「なに? やっぱり、セックスする? そうしましょう。みんなに私たちの関係を見せつけてやるのよ」

「俺の夢、知ってるか?」

「知ってるわ。定食屋でしょ。あなたのことは何でも知ってる」

「ちょっと、ちがうんだ」

「そうなの? もっと知りたいわ。あなたのこと」

「ただ親父みたいに、なりたかったんだ」


 幼いころから見続けていた定食屋の風景。

 笑顔が咲く定食屋。日だまりのランチタイム。岩みたいに動かない表情ともくもくと働く大きな背中。笑顔工場のエンジン。


「そうだったの」

「最近知ったんだけどさ、俺の親父、正義のヒーローだったみたいなんだ」


 起き上がってダウンを脱ぎ捨てる。

 腰に巻いていたそれが、ぐるぐる、と回り、ぺかぺか、と辺りを照らしはじめる。


「だったらなるしかないだろ。俺も、正義のヒーローに」


 大きく吸って肺に呼吸をためる。

 マツリちゃんが教えてくれた魔法の言葉。自分を変えるためには、そいつを80デシベル以上で叫ばないといけないらしい。ちょっと恥ずかしいけれど、同級生の前でセックスをするよりかはマシなはずだ。全校生徒の前でゲイなんだとカムアウトするよりも楽なはずだ。

 隼人は叫んだ。


「変ッ身!」

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