第十六夜:イヌ科の狐なのに猫に憑依してる
その夜、アマヤドリ荘は群衆に取り囲まれてしまった。
群衆たちはシャベルやバットなどを持ち込んでアマヤドリ荘の外壁を叩き壊そうとしていた。本来であれば、そのような暴動を止めるはずの警察でさえ、その群衆に混じって破壊活動に加わっている。虚ろな目をした彼らは、呻くように「ハヤト、ハヤトをダセ。オンナをコロセ」と口々にわめいていた。
清明は廊下を駆けながら、窓からその外の様子を確認していた。
人垣が幾重にも折り重なって虫が蠢いているように見える。希有なことだが、女も相当な数が混じっているようだ。九尾の妖力は性欲に訴えかけるものであるから、憑依体と同性が洗脳される可能性は低いのだが。
「それだけに、今回の憑依体は強力だということか」
今は張り巡らした結界でなんとか押しとどめているが、じきに限界に達するだろう。急がねばなるまい。目的の部屋にたどり着くと声を張り上げる。
「安倍清明、参上つかまつりました。イナミ様、お目通りをお願いします」
「どうぞ、お入りになって」
扉の向こうからイナミの柔らかい声が返ってくる。
「失礼いたします」と部屋に入ると、イナミとマツリの二人だけだった。すぐに部屋の四方に塩を盛って結界を構築する。これで話の内容が他に漏れることも無いし、魔除けにもなる。
「随分と警戒しているのね。何か良くないお話かしら」
イナミは清明の様子を眺めながら、あっけらかんとした様子で問いかけた。入浴したばかりなのだろう、髪が濡れて艶やかに光っている。その傍らにはマツリがイナミの髪を団扇であおいで乾かしていた。
「姉君もお人が悪い。今がどういった状況なのかご存知でしょうに」
「狐さんのお話?」
「左様でございます」
清明は顔をしかめた。イナミの優し気でおっとりとした気質は普段であれば好ましいものだが、今は危急の時だ。神である彼女に人の常識が通じないのは承知しているが、それでも歯がゆく思う。
「外は九尾の信奉者によって囲まれております。憑依体が覚醒したようです」
「となると、やっぱりあの娘が今回の
イナミは指でこめかみの辺りをおさせて目を閉じた。
「とても可愛い娘でした。ほら千年前に憑代になってしまった玉藻前さんも綺麗な人だったけど、今回はもっと魅力的ね。唐土の国のことはあまり知らないけど、妲己さんとどちらが美しいのかしら」
「姉君、要点から申し上げてもよろしいでしょうか」
清明が話を遮るように言葉を挟んだので、イナミは少し驚いたようだが「どうぞ、お気になさらないで」と頷いた。
「
「そう。そんなにすごい力なのね」
「はい。千年前の比ではありませぬ。此度の憑依体の力、底が知れません」
「鞍馬麗子さん、だったかしら」
「恐れていた事が現実となりました。昨日の晩、鞍馬の屋敷に忍び込んだ時は、まだ正気を保っておりましたが、どうやら魔に引きずりこまれたようです」
あの時のことを思い出して、清明は拳を握りしめた。
俺もやきが回ったらしい。普通の憑依体は取り憑かれた途端に心の闇につけ込まれて墜ちるものだ。確かに、あの娘は正気を保っていた。しかし、それが長続きする保証などなかった。
「狐退治の専門家として、清明さんのご意見を聞かせてください」
「此度の九尾には、我が陰陽術では太刀打ち出来ません」
「あら、珍しい。いつも不敵なあなたがそんな弱気をいうなんて」
「今、ここには東郷がおりませぬ」
マツリの手が、ぴたりと止まった。
イナミはマツリの手を握ってやると「マツリちゃん、今度はあなたの番よ」と言ってマツリを目の前に引き寄せ膝の上に座らせた。そして今度はイナミがマツリの髪をすきながら団扇であおいで乾かしはじめた。
「あの男が、今ここにおりませぬ」
「そうね。東郷のおじ様がいれば安心でしょうね。なんて言ったかしら、ほら、おじ様が変身した時のお名前」
「お面ライダーです」
マツリがすぐに答えて見上げてきた。その瞳はまるで星空を眺めているかのように輝いている。
「正義のヒーローです」
「そう。マツリちゃんを助けてくれたヒーロー。困った人がいれば自転車でかけつけてくる。正体不明のお面ライダー。そういえば、あの方はイザギと喧嘩したこともあったわね」
「武さんとイザギ様が喧嘩ですか?」
イナミは、ふふ、と笑う。
「そういえばマツリちゃんにはまだ話してなかったわね。そうよ、二人が初めて出会った時のこと。大喧嘩だった。それも殴り合いよ。その衝撃で地殻が歪んで富士山が噴火するのじゃないかとハラハラだったのよ」
「それ、すごく聞きたいです」
「後で話してあげる。今は清明さんが、ほら、やきもきしているでしょう、まずはあっちを先に済ませてから」
イナミはマツリの頬を撫でて前を向かせると、その髪の手入れを再開した。
「それで、清明さんのおっしゃりたい事は?」
「相手の目的が隼人少年であるのは間違いありません。しかし、群衆は女を殺せ、とも叫んでおります。パーラ嬢のことでしょうか」
「いいえ、それは私でしょう」
「姉君が? 一体、なにがあったのです」
「それは秘密です。恥ずかしいわ」
イナミは手で頬を押さえて顔を赤らめ、数時間前のことを思い出した。
あれはなかなか素敵なキスだったと思う。弟を好きになってくれた男性から、強引に唇を奪われたのだ。最近はまっている少女マンガでもなかなか見ない展開だ。そういえば、十万年ほど生きてきたけれどキスは初めてだ。とても素敵なファーストキスだった。
だけど、間が悪かった。
それを目撃してしまっていた麗子さんが魔に墜ちてしまうなんて。
「でも、だいたいは清明さんの予測通り」
「お戯れを、子どもであれば火遊びですみますが、今回の件では国が燃えますぞ」
「あらあら、やはり恋とは燃えるようなものなのですね」
「……」
「それにしても、麗子さんは本当に可愛い方。想い人を思って、魔に身を委ねてしまうなんて、絵に描いたような純愛じゃなくて? 私、彼女のこと好きになりそう」
クスクスと笑うイナミを見て、一体どこまで本気なのかと清明は頭をかかえた。多くの人の命がかかっている一方で、個人の心の在り方を愉しんで笑う。千年を生き長らえた清明ですら、人を超越した存在の感性にはついていけないところがある。
しかし、原因があの少年にあるなら、取りうる現実的な策は一つしかない。
「姉君、隼人少年をここから追い出してください」
その言葉を聞いて、イナミは形の良い眉を寄せて顔をしかめた。いつも穏やかな彼女が見せたことがない嫌悪感を見て取って、清明はそれに気圧されたが、何とか言葉を続ける。
「彼を追い出せば、九尾がここを襲う理由がなくなります。おそらく信奉者に少年を捕まえさせて、あの膨大な妖力で虜にするつもりでしょう。それで憑依体が満たされれば力は弱まります」
「本当に?」
「おそらく」
「稀代の俊英、安倍清明のお言葉とは思えないわ。魔によって想いを遂げた人間が、自身の内に巣食った魔を
「……ごもっともでございます」
平服し、額をこすりつけながらも、清明は説得をあきらめなかった。
「されど鞍馬麗子は憑依されても正気を保っていた傑物です。加えて、あの鞍馬の血筋にある娘なのです。一時の負の感情がおさまれば、自力で魔を払うこともできるやもしれません」
「いかにその娘に見込みがあろうと、」とイナミの目が細くなる。「それだけに、その判断は世に暗い影を落とすことになるのではなくて? 鞍馬麗子に見込みがあるのであれば、陰陽を共によく知るよう、彼女を助けることが先達の本分。なにゆえ彼女をことさら妖しき魔の道におとしめるのかしら?」
「返す言葉もございません。……されど、もはやこの手しか」
清明は額を床につけた。
そのひれ伏した姿を見下ろしたイナミは、ふぅ、と深く息をついた。まるでイザギみたいなことを言ってしまった、と後悔が沸いてくる。弟の領分を侵すつもりはなかった。
「どちらにせよ、イザギが判断することです。日の出を待って、イザギに言い聞かせてやってくださいな。申し訳ないですが、それまで結界を維持してくださる?」
「……承りました」
清明は難しい表情のまま、もう一度深く礼をして部屋を退出した。
マツリと二人だけになると、イナミは膝上に座らせていた彼女を立たせる。
「さて、マツリちゃん、東郷のおじ様の話はもう少しだけ待ってね」
「はい」
イナミは部屋の隅々へと歩き、清明が盛った塩を指で押し潰してまわった。
そうやって部屋の結界が崩壊したのを確認すると、部屋の窓を少しだけ開ける。外の冷気が部屋の中へと染みこんでくる。ひざ掛けを取り出して、マツリの小さな肩に掛けてやり、窓の外に向かって声をかけた。
「狐さん、お入りなさいな。お話があるのでしょう」
すると、窓の空いた隙間から三毛猫が頭を出してミャアと鳴いた。そのまま部屋の床に滑り下りてイナミに向かって頭を下げると、流暢な人語を語りだした。
「お招きいただき恐縮でありんす。わっちは狐の妖怪。憑代からは事情あって離れられぬゆえ、分体を猫に憑依させて参りました。何卒、ご容赦おくんなんし」
「あら、分体も出来るようになったのね。もはや妖怪というより神みたいなものね」
「
「ふふ、思ったよりも丁寧で面白い方。よろしくでありんす」
イナミは可笑しそうにクスクスと笑うと、猫(に憑依した九尾)は恐縮してより深く平伏する。神も妖怪も人の想いから生まれる存在。そこに大きな違いはないが、格の違いというものがある。数千年を生き、中国、インド、日本で畏れられた大妖怪である九尾とはいえ、相手は天地開闢から存在していた神だ。自然と頭が下がる。
「それにしても、狐さん。随分と強い力を持つようになったのね。これほどの妖力は、そう何度も見られるものではないわ」
「ありがとうござんす……。イナミ様。実は、その事についてお願いがありんす」
「麗子さんのこと?」
猫は目を見開いて顔を上げたが、すぐに目を伏せて平伏し直した。
「……左様でありんす」
「遠慮なく、おっしゃってくださいな。私、彼女のことをもっと知りたいのです」
九尾は緊張のせいか尻尾をぴんと立て、慎重に語りはじめた。
「はじめに知っておいておくんなんし。麗子はほんに善良なよい娘で、かつて、わちきが憑依してきた女とは違いなんす。それはもう、秋晴れの満月と肥だめに溺れるスッポンほどに違いなんす。そこんところ、よーく、おくんなんし。本来はわちきのような下衆が憑依するような娘ではありんせんて」
あらあら、とイナミは頷きながら耳を傾けている。
「それを、わちきが目を付けて憑依してしまったものだから、あの娘の本来は清い恋心さえも卑しい妖力の糧となりんした。もとよりあれに悪しき感情などありゃんせん。どうか麗子だけは助けてやっておくんなし」
「もちろん、お手伝いさせていただくつもりよ」
両手をあわせて、イナミは請け負った。
「それで、私はどのようにしたらいいの?」
「畏れ多いことでありんす。ほんに、ほんに、わちきのような木っ端妖怪にはありがたいことでありんす。イナミ様、後生でござんす。わちきの変わりに麗子の心臓を動かしておくんなんし」
「心臓?」
「麗子は幼いころの病のせいで心臓が悪く、わちきがいなくなると死んでしまいんす」
「まぁ」とイナミは不意に立ち上がった。
そのまま、かしこまっている九尾の側に歩み寄るなり、猫に憑依したそれを抱き上げて、その瞳を覗き込む。
「イ、イナミさま?」
「それは、お断りさせていただくわ」
「後生でござんす。貴方様ほどの御方にふさわしゅうない安い願いで申し訳なんし。されども、ほに後生でござんす。わちきがいなくなれば、麗子を堕とした妖力はなくなりんす。それで、この騒動も元通りざんす。後は心臓のことだけざんす」
「麗子さんの心臓を動かす。その天命は狐さん、あなたのものよ」
元の位置に戻るとイナミは九尾を膝の上にのせて座り、その顎下を愛撫した。
「今、そう決めました。雨ノ中イナミの名において、あなたに天命を下しましょう。ちゃんとまっとうしてくださいね。じゃないと、私の弟が天罰を下しに行きます。あの子は加減を知りませんから、恐ろしいですよ」
「イナミさま。しかし、このままでは麗子は」
「あなたは麗子さんの側にいなければなりません。あなたは気がついている。妖怪であるはずなのに、人を想いはじめた。だからこそ、神に近づいたのね」
「後生でござんす。わちきは人を堕とすしか能のない妖怪でござんす。麗子の側にいてはいけなんし」
「嫌よ」
イナミは即答する。これまでの柔らかなものとはかけ離れた断固としたものだった。
「今回の件は、隼人さんを私に取られたと勘違いしたことが原因でしょう? だったら原因は私にもある。それなのに、あなた達を引き裂くなんて残酷なお願い、私は聞くのも嫌」
そう言って、プイと顔を横に向けて見せたイナミは横目で九尾を流しみる。仕草こそ大げさで冗談めかしたものだが、その瞳に宿る光は真剣だった。
「どちらかと言えば、悪いのは私ではなくて? 麗子さんの想い人を私が取ってしまったのだから」
「まさか、あの少年がイナミ様のご愛人とは知らず、大変失礼なことでござんした。麗子も知らなかったことでござんす。お許しておくんなし」
「あら、狐さんは勘違いされているわ。いいこと、これはとても大切なことで、もしかしたら、すべての原因になっていることだと思うの。隼人さんは私の……ああ、言葉って難しいわ。それが恋に関する言葉ならなおさらね。そうねぇ、え~と、どの言霊が一番しっくりくるかしら……」
イナミはそう言いながら、曲げた指を唇にあててしばらく思案していた。そして何か思いついたように、大きく頷く。
「うん、この言霊が一番ね。隼人さんは私の初恋なのよ」
「うにゃ?」
九尾が憑依した猫の喉がなる。
「しかもよ、聞いて下さるかしら? 隼人さんには他に好きな人がいるの。それは私の愛しい弟。私達も恋は初めてですから、年甲斐もなくドキドキよ。とっても刺激的なの」
「はぁ、そうで、ありんすか」と九尾は茫然として、そう応えるのが精一杯だった。
「なので、狐さん。私はここに誓います」
その言葉に、九尾の尻尾がピタリととまる。
イナミは男女が完全に分化する以前の古き神だ。当然、その言葉と魂もやはり分化しておらず、一体であり、すなわち言霊だ。ゆえにイナミの誓約とは実行であり、その実現までを徹底したものだ。
「我が名において、鞍馬麗子が落ちたるその暗き魔を祓い、かの者を救い上げることを誓いましょう。九尾の狐よ。そなたは常に麗子の傍らにいなさい。今、絶望の中にある彼女が最も頼りにしているのが、常に傍らにあったそなたであることを、九尾の名に刻みなさい」
「……はい」
九尾は頭を下げた。まさに神託が下ったのだ、もはや覆すことなどできない。頭をさげたまま後にさがり、開いていた窓から外に出ていった。
マツリがそれを見送るとそっと窓をしめると、イナミは一息ついた。
「慣れないことをすると疲れちゃうわね」
「お疲れ様です」
「ねぇ、マツリちゃん。お願いがあるの」
イナミはマツリを膝の上に招き寄せて、その顔を覗き込んだ。
「あの変身ベルトを、隼人さんに返してあげてほしいの」
「……はい」
マツリが一瞬だけためらったのを、イナミは見逃さなかった。
「ごめんなさいね。あれはマツリちゃんの大切な思い出なのに」
「いえ。あれは武さんが隼人さんに渡したものです」
「きっと、おじ様はマツリちゃんが修理してくれると期待していたのよ」
「そうだとしたら……、うれしいです」
イナミはマツリをぎゅっと抱きしめて、頬をすり寄せた。そして、急に明るい声になって語り出す。
「それでは、お待たせいたしました。おじ様とイザギの喧嘩のお話をしましょう。あれはもう随分前のこと。初めて会った二人は、全然噛み合わなかったの。ほら、イザギはいいかげんな性格しているでしょう。おじ様は真面目で頑固な方ですからね」
「はい、武さんは真面目で頑固で」マツリは目を伏せてつぶやく。「素敵な人です」
「ええ、ええ、分かっているわ。それでね、そもそもの喧嘩の発端がね……」
そのイナミとマツリの楽しそうな声は、夜がふけるまでずっと続いていた。
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