第十五夜:姉上の許可が必要だ
日が地平線に消えそうな
楽しみだな、とイザギは頬をゆるめた。
姉上は自分が作ったハンバーグなるものをきっと喜んでくれるだろう。自分は頑張って作ったし、隼人の指南は丁寧だった。ああ、姉上の喜ぶのをはやく感じたいものだ。そうとなれば、パーラとの約束を済ませなければなるまい。
庭の辺りを探してみると、さっそく見つけた。隼人は並木に背に佇んでいた。
「やぁ」
と、片手をあげてみると、返ってきたのは虚ろな顔だ。
イザギは困ってしまった。
慰めるといってもやり方が分からぬ。そもそも、なんで男を愛することで悩むのかが分からぬ。男を愛せぬから悩むのならまだ分かるのだが……。まったく、分からぬことばかりで言葉のかけようもない。やはり、こういうのは姉上のほうが適任だろう。
上げてしまった手は空気を掴んで落ち、とりあえず隼人と同じ木に背中を預ける。奴の顔を見上げても日が落ちて見分けにくい。だが、浮かない感じのしかめっ面をしているのだろう。いつもの無遠慮な軽口もなく、ずっと無言のままだ。
「今日のハンバーグ。我の分も残しておいて欲しいのだが……」
むぅ、また無言か。さて、いよいよ困ったぞ。
まぁ良い。このまま時間が経てば姉上に変わる。後は上手いようにやってくれるだろう。我は我なりにやったつもりだ。パーラの願いには応えたことになるだろう。
「……イザギくんは、知らないだけなんだ」
「ふむ」と見上げると、隼人は虚ろな目をしていた。
なんだ。ようやく口を開いたかと思えば決めつけてきおる。
「男を愛することか?」
「まだ十歳だろ。だから、分からないんだ」
「違うぞ。十万歳くらいだ」
隼人の気配に怒気が滲み出したのを感じて、面倒な奴だな、と可笑しくなった。
無遠慮だったり、陰気になったり、勝手に怒ったり。本当に忙しいやつだ。まぁ、隼人が悪いわけではない。武のやつめ。どうやら十分な説明を省いたとみえる。あれは愚鈍なやつだからな。
「みんな、俺を馬鹿にしてる」
「そうか」
「鞍馬さんのことは、本当は悪いと思っているんだ。酷い別れ方をしたと思ってる。だけど、しょうがないじゃないか。何も感じなかったんだ。キスされても、気持ち悪いだけだったんだ。それがひどい言い方なんて分かっているさ。だけど、本当のことなんだ」
「ほぅ。キスとな」
ちょっと、興味がある。
ここ数百年、人はキスなる行為を交わすようになった。単なる唇を密着させる行為なのだが、なぜか愛する二人にしか許されない神聖な儀式となっている。姉上もマンガという読み物を嗜むようになったせいか「私も素敵なキスがしてみたい」とつぶやいていた。
ふむ。というと、隼人はすでにキスをしたことがあるのか。なるほど、確かに我の知らないことを知っている。少し見直したぞ。
「キスは素敵なものではないのか?」
「……」
隼人の怒気がゆるみ、情けない表情に変わった。
「違ったんだ。俺がゲイだから」
「ゲイとは何だ。もしや、男を愛することを最近ではそう言うのか?」
「男しか愛せない男のことだ」
「だったら、男とキスしてみたらよかろう」
そう言ってやると、隼人は驚いた顔でこちらを見る。
「男と?」
「そう。女とキスして素敵ではなかったのだろ。だったら、男とキスして素敵かどうかを試せばよい。それで素敵ではなかったら、パーラの言うことことにも一理あるというもの。また考えれば良かろう」
隼人の唇が震えている。
「……誰と?」
「もちろん、愛する男とだ。素敵なキスとはそういうものなのであろう。姉上がそう言っておった」
「例えば、」
隼人の声が固くなり、こちらを見下ろしてくる。
「例えば……。例えば、だよ」
「なんだ。言いたいことがあるなら、はようせい」
もう少し話してやりたいが、時間がない。
「君と」と隼人が絞り出した声が「キスをしてみる、とか」とかすれた。
◇
「あっ、ここって隼人が住むことになった寄宿舎だ」
公園の散歩が長引いて、日没に追われるように帰宅していた藪隠まよひと鞍馬麗子は、ちょうど、アマヤドリ荘の正面玄関に差し掛かったところだった。
「えっ、隼人くんが?」
麗子は思わずその玄関のほうを見る。鉄格子に
「そうなんだよ。どうやら親父さんが旅行に行ったみたいで、ここにいるんだって」
「あら、そうだったの」
「ちょい。まちなんし」
突然、九尾が姿を現した。
「ここは神域でありんす。それも相当に格の高い」
「なんだ。キュウスケ、知ってんのか」
「隼人がこんな場所に招かれるなんぞありゃせん。きっと、藪隠流の藪から棒のでまかせでござんしょう」
「なんだと。日本一の藪隠流忍術に藪から棒とはよく言ってくれるね」
藪隠が腕をまくって九尾を睨みつけるのを横目に、麗子は門のほうに引き寄せられていく。
「そうだったんだ。隼人くんがここに」
「そう言っていたけどなぁ」
「そうだったの」
もしかしたら、隼人の姿が見られるかもしれない。そんな期待が抑えきれずに、麗子は玄関の鉄格子から庭を覗き込んだ。
そして、息をのむ。
黄昏のわずかな明かりに照らされた隼人の背中を見つけたのだった。
◇
胸がえぐり取られたかのように痛い。
イザギくんが、ふふ、と笑っている。
自分の言ったことが、信じられなかった。
——例えば、君とキスをしてみる、とか。
例えば、ってなんだよ。
胸にせまったものを必死になって吐き出したのに、それは仮定の話になっていた。これじゃあ何も伝わらない。悪い冗談みたいになっちまう。もっとちゃんとした言い方があったはずだ。例えば、
——隼人くんのこと、ずっと好きでした。
脳裏に浮かび上がってきたのは、鞍馬さんの声だった。
彼女は今の自分と同じように、胸を押さえつけ、声を震わせし、必死な顔で、告白をしてくれた。カラオケボックスでキスをしてくれた時だって、まるで兎がライオンに立ち向かうみたいに震えていた。
それなのに、俺は……。
「つまり、隼人は我のことを愛しておるのか」
「あ、ああ。うん」
「ふむ、姉上のことは?」
イナミさんのこと?
「姉上のことを愛しておるのか、と聞いておる」
「そんなの、関係あるのか」
「おおいにある。お主が姉上を愛し、姉上もそれを承知すれば、素敵なキスとやらをしてみようぞ。なに、恐れることはなかろう。姉上も隼人のことを気に入っておった」
ああ、そうか……。はぐらかそうとしているのか。
よく考えれば当たり前だ。迷惑だと、思われているのだ。気持ち悪いと思っているに違いない。だって、しょうがないじゃないか。俺はゲイなんだから。好きになってしまったんだから。
鞍馬さんみたいに、ちゃんと告白なんてできるわけない。
「はぐらかさなくていい」
「そんなことはない。我はお主のことを好きじゃぞ」
「嘘だ」
思わずイザギくんの両肩を掴んで、正面に引き寄せていた。
小さくて柔らかい男の子の感触。こんなのに興奮して勃起する。俺はゲイのロリコンだ。こんなのが親父みたいになれるわけがなかったのに。
「俺のこと、気持ち悪いって思ってるだろ」
「愚か者、そんな事あるか」
「俺が好きなのは君さ。お姉さんなんかじゃない!」
「だから、我は問題ない。後は姉上が判断することぞ」
「嘘だ」
「愚弄するな。我が嘘などつくか!」
浴びせられた怒声に、自分の中の何かがはじけた。
気がつくと、力任せにイザギくんの唇を奪っていた。
腕のなかで、彼がもがいて抵抗している。拍子であいた隙間から「やめっ」と言いかけたのを、頭の後ろに手を回し、逃がさないようにして唇を押しつける。
んっ、と二人の唾液が混じわる。あたためたミルクのような、いい匂いをむさぼるように吸い込む。素敵とは言い難い、乱暴なキス。
そして、日が完全に落ち。空は闇に変わった。
すん、と匂いが変わったことに隼人は驚いた。
匂いがすえていく。熟成された果物のような濃厚な匂いへと変わっていく。頭を抑えつけていた手から、指に絡めた髪が長くのびていく感触がした。腕の中で抵抗していた小さい体の四肢も徐々にのびていき、大人しくなる。交わっていた吐息に、女の声が混じった。
その異変に気がついて、隼人は唇を離す。
「ふふ」と笑い方は同じ。
目の前には、指を唇にあてて微笑んでいる姉のイナミがいた。
「隼人さん」
「なっ」
「弟のことを、愛していただきありがとうございます。強引なキスだったけど、素敵だったわ。私、どきどきしちゃいました」
イナミは両腕を隼人の背中に回し、その目を覗き込んだ。
「だけど、イザギと私は二心同体なのです。願わくば、弟と同じように私のことも愛してくださいませ」
ふふ、とまた笑い、今度はイナミの方から隼人へと唇を重ねた。
◇
麗子はその光景を、質の悪い映画を見ているような気分で、眺めていた。
全てに整合性がなかった。リアリティもない。展開もめちゃくちゃだったし、見ているだけで不愉快になった。どうしてこんな事ができるのか理解ができない。ただただ無性に吐き気がする。
そこで、二人がキスをしていた。
一人は自分が大好きな人で、もう一人は女だった。
私と同じ女。
どうして?
隼人くんはゲイじゃなかったの?
ゲイだから、私のこと……。
……嘘だったの?
麗子は溢れてくる涙をそのままにして、玄関の鉄格子をかたく握りしめた。
ねぇ、私、がんばったのよ。キュウちゃんにもマヨにも、何度も何度も相談してがんばったのよ。告白する時だって、デートの準備だってがんばった。必死になって調べたのよ。
まずは、映画を一緒にみる。その後に近くの喫茶店で感想を言い合って、お互いのことをもっと理解する。帰り道は手を繋いで、別れ際には次のデートを約束するのだ。
そういう計画だったの。だけど、隼人くんは、映画を見終わったら、定食屋があるから、と言ってすぐに帰ってしまった。
私ね、怖かったの。私と一緒にいても、隼人くんは全然楽しそうじゃなかったから。
だから、キュウちゃんの提案にのったの。キュウちゃんが、男女が二人きりになればどうにかなると教えてくれたから。一緒にカラオケに行くことにして、いつもは絶対に着ないミニスカートをはいて、キュウちゃんにお願いして体をあずけた。
あそこでキスをしたよね。私たち。
あれはキスだったのかな? 分からないよ。その後の隼人くんの言葉、覚えている? キスが終わった後、あなたはこう言ったんだよ。今日はもう帰ろうか、って。それしか言ってくれなかったのよ。
馬鹿よね。私ね、もっとがんばるつもりだったの。
「ばかね。私って、本当にばかな女」
「レッコ、これは何かの間違いだよ」
藪隠が麗子の肩に手をかける。
「ううん。違うの。多分、全然違ったのよ。私が勘違いしていた」
麗子の肩が震えている。沸き上がってくるのは、彼女が生まれて初めて経験する感情。目の前の理不尽な光景に対する、そして自分自身の愚かさに対する、怒りだった。
「私ね。心のどこかで、がんばれば愛されるものだと思っていた。私は多分そういう女なんだって思っていた。自分は特別な人間なんだって。思い込んでいた。でも、ただの勘違いだった」
「麗子、やめなんし! お前さんの心が曇れば、わちきの本性が」
九尾がするどく叫んでも、麗子は耳を貸さなかった。
「私ね。ただの嫌な女だったの」と声がうわずる。「隼人くんは、私のこと嫌いなだけだった」
麗子が振り返る。その姿を見た藪隠は息をのんだ。
「レッコなの?」
そこには一人の異様に美しい女がいた。涙で濡れた頬に、妖艶な笑みを浮かべて、まるで食虫花のような、すえた甘い匂いを周りにただよわせている。
それを見ているだけで、藪隠は頭がくらくらとした。
脳がとろけそうになる。彼女の美しい姿をずっと側で見ていたい。それだけで幸福な気持ちになる。それ以外は何もいらなくなる。ずっと、レッコのそばに、レッコの言うことだけを、きいていたい。
「マヨ、私はね」
その声は甘い香りとともに命令となって、藪隠の脳に溶け込んだ。
「隼人くんを絶対に許さない」
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