第十三夜:狐って実はイヌ科に分類される
かつての宿敵と相まみえ、その強大な力で彼方に吹き飛ばされてしまった清明は、足をひきずりながらもアマヤドリ荘にたどり着く。
その頃には、もう月が頭上に輝く夜更けのころだった。
「姉君、姉君はどちらか。一大事になりましたぞ」
「あら、そんな大声で、そろそろ草木も眠る頃合いですよ」
ちょうど庭を歩いていたイナミは、いつものように傍らにマツリをともなっていた。
「おお、ちょうどよいところに……、こんな夜更けに外へ出られて、いかがされました」
「隼人さんが極上のケーキを作ってくれたらしいのです。イザギが膨らましてしまったお腹もようやく落ち着いてきたところ。パーラさんもお招きして女三人、罪深き夜のケーキを頂こうか、と」
「それは、それは」
どうやら、夕食を食べられなかったことは、まだ根に持っているらしい。
「そんなことよりも」と清明は頭をふる。「大変なことになりましたぞ」
「狐さんのこと?」
「左様で。奴め、恐ろしい娘に憑依しておりました」
「恐ろしい?」
「ええ、やはり鞍馬の娘でした。名は麗子というそうです。凄まじいほどの素質をもった娘ですよ。恥ずかしながら、その力にあてられ、ほうほうのていで逃げ帰ってきた次第です」
「あら、お怪我をなさっているの」と清明の引きずった足を見る。「マツリちゃんに見てもらったら?」
「ええ、負傷してしまいました。なにぶん、恐ろしい相手でしたから」
清明は足をびっこを引いて見せつけた。イナミに言われるがままに、マツリは腰を落としてその足を覗き込み、具合をたしかめる。
「はい。……損傷は表皮まで、ですね。これは
「さっかしょう」
「つまり、すりむいちゃってますね。傷口を水道水でよく洗い流してください。最近の臨床では消毒の必要もないとされています。清潔に保って絆創膏で傷口の保湿をしてください。明日には治っていると思います」
びっこを引いていた足を踏みおろし、清明は背筋を伸ばしてまっすぐに立ちなおす。
「……強敵だったのですよ。あの妖狐はかつてとは比べようもない力を手に入れました。これは本当のことなのです。この目で確かめてきました」
「そうなのですか」
清明の必死な様子に、イナミは口の端をゆるませながらも首をかしげる。
「それにしては、世はいたって平穏なのね。傾国の兆しも耳にしません」
「それです。なんと、憑依されたはずの鞍馬の娘が正気を保っているのですよ。見たところ、あの妖狐を使役しているように見受けられました。まだ年端もいかない少女がです」
「まぁ」
普通であれば、妖怪に取り憑かれた者は正気を失う。心の欲を糧に精神を侵食されてしまうのだ。僧や巫女は精神修行を欠かさないのは、これに対抗するだ。それが極まって逆に妖怪を手なずけるまでになれば、清明のように式神として使役することもできる。
しかし、相手はあの大妖怪である九尾だ。これを使役できる者などいないはずだった。
「そんなこともあるのね」
「しかもです。怨敵であるはずの私を目の前にしたのに、『お前なぞどうでもよい。それよりも麗子の初恋だ』などと言い放つ始末です。おそらく完全に憑依体によって使役されております」
「麗子さんの、初恋」
イナミの目が大きく見開かれ、そして、手を叩いてにっこりと笑う。
「なんてことかしら。私、ぜんぶ分かっちゃったかもしれない」
「といいますと」
「思い出してくださいな。隼人さんには妖狐の術がかけられていた。そして、狐さんは麗子さんの初恋をかなえようとしている。それに、学校で先生をしているパーラさんは、隼人さんがモテる、と言っていたわ」
「まさか。……しかし、そんな数奇がありますか」
「あながち、彼のケーキに狐がつられた、という弟の推理は当たっていたのかも知れません」
両手で口を抑えて、ふふ、とイナミは笑った。
◇
それからほどなく、
アマヤドリ荘の食堂では三人の女がデザートを囲い、
「ああ〜。幸せ」とイナミは頬を抑え、
「このティラミスというのは、たしかイタリア発祥のデザートですね」とマツリは目を丸くし、
「ちょっと、隼人くん。これ、本当に手作りなの」とパーラは台所を振り返った。
隼人は紅茶の用意をしながら「味はどうでした」と返す。
「いや、なんなの、どうやったのよ。この濃厚な苦み、それなのに甘い」
「ケーキスポンジをエスプレッソで漬けたんですよ。それもめちゃくちゃ濃くしたやつで」
「はぁ〜。こしゃくなことをするわね」
ははっ、と隼人は笑いながら、紅茶をテーブルに注いでまわる。
「実はイザギくんから、イナミさんに美味しいケーキを作ってくれって。それで色々と工夫してみたんです」
「あれ? お誕生日かなにか?」
パーラの問いかけに、イナミは頭を振った。
「いいえ。これはイザギの
「あらら、それは重罪ですね」
「お陰で今日の夕食は食べられなかったのよ」
「すみません。俺がイザギくんに味見させてしまったから」
「そんな優しい嘘は、あの子のためになりません」
イナミは二口目をぱくついた。
「私はよく知っているのです。私の半身である弟のことですからね。あの子は隼人さんに遊んでもらって舞い上がり、初めてのケーキが美味しすぎて私を忘れ、ぱくぱく、ばくばく、とお腹いっぱいになるまで詰め込んだ。それだけのことなの」
「はぁ」
「あっ。罰として、弟は明日の朝と昼は抜きですからね。隼人さんからも注意してくださいよ」
「飯抜きですか」
「ええ、これは絶対です」
隼人は思わず眉をしかめた。
私の半身である弟、とは随分な言い方だ。ちょっと異常な感じがする。それに、罰とはいえ、育ち盛りの子どもに飯抜きは間違っている気がした。自分が定食屋だから余計にそう感じるだけなのかもしれないが。
もしかしたら、こういうヒステリックなところが原因で、イザギくんが姉を必要以上に恐れているのかもしれない。
「イナミ様」とマツリが袖を引く。「そろそろ本題に入りましょう」
「そうね。そうだったわ。実はパーラさんに教えて頂きたいことがあったのです」
「あら、私?」
「ええ。鞍馬麗子さん、という女学生のこと」
それを聞いたパーラと隼人は、目を見合わせた。
二人とも互いの驚愕した表情を確認して、どうやら、どちらかが麗子のことを話したわけではないと判断した。
「イナミ様、」と口が開いたのはパーラだった。「どうして鞍馬さんのことをご存じなのですか」
「そうね。う〜ん、聞きたいのは彼女の学校での様子なんですよ。例えば、彼女ってたくさんの男性から言い寄られているのではないかしら? ちょっと異常なくらいに」
「……申し訳ございません。彼女については何もお答えできません。私のポリシーなのです。職務上の責任もあります」
「なるほど、そうでしたか」
イナミは紅茶を一口飲んで、ゆっくりと味わった。
「では、彼女について、ではなく私の相談に乗っていただくことはできますか?」
「イナミ様の相談ですか。……どのような」
「ある女学生が、何か取り憑かれてしまっているようです。どうにかしてあげたいと思っているのですが、その相談です」
「それであれば、私は問題ありませんが、」パーラはちらりと隼人のほうを見る。「隼人くん、ごめんなさい。席を外してもらえないかな」
隼人は紅茶のポットを置いて、イナミに問いかける。
「あの、どうして。鞍馬さんになにが」
「隼人さんは」とイナミがすぅと細くなる。「彼女が困っていたら、助けてあげたいですか?」
「はい。……だけど、俺は」
続きを言い淀む隼人を眺めて、イナミはにっこりと笑う。
「だったら大丈夫ね。今回は正義のヒーローがいませんけど、きっと何とかなるでしょう」
そう言ったイナミは、最後の一切れになったティラミスを美味しそうに頬張った。
◇
次の日の朝。
布団に何者かが潜り込んできた感触がして、隼人は目を覚ました。
「また、勝手に入ってきたのか」
まるで猫のように布団の中にもぐりこみ、顔を出すイザギを見る。
「う〜。ぬくいの」
もぞもぞ、と動いた拍子に布団の中で足が触れた。外気で冷え切ったその足先がふくろはぎのあたりに絡みついてきてひんやりする。
「おい、やめろ。俺の体温を奪うんじゃない」
「隼人の足はあったかいの」
イザギはますますふざけて、隼人にすり寄ってきた。ちょうど脇のあたりに頭をのせた彼は、はぁ、とため息をついた。
「残念じゃなぁ。今日は隼人の料理はお預け」
「イナミさんに叱られたんだって?」
「そうそう。まるで悪鬼羅刹のごとき形相じゃった。食い物の恨みは皿までも。
「朝も昼も抜きだっけ? 大丈夫なのか」
目の前にあるイザギの顔を覗き込む。まだあどけなさが残る十歳くらいの子どもだ。
やっぱり、子どもに食わせないのは可哀想だ。罰だったら他にあるだろう。そういう道理が分からないイナミに対し怒りがわいてきた。
「ああ。だから、今日の
「ちょっと、ひどくないか」
「我と姉上はすべてを分け合う仲ゆえ、大丈夫じゃ」
姉のイナミと同じ、大げさな愛情表現。隼人にはそれをもどかしく、そして不自然に感じた。姉から弟への異常な執着にイザギは囚われているのではないか。姉は十分に成長した大人だが、彼はまだ十歳くらいの子どもなのだ。自分で十分に分別がつかないのを良いことに、好き勝手に言われているだけなのかもしれない。
「そんなに、お姉さんのこと好きなのか」
「もちろん」
「そうか」
その大きくて綺麗な瞳に曇りはなく、桜色の唇は笑みを浮かべていた。
その唇を眺めていた隼人は、不意にある衝動に駆られた。
豆を食べさせたい。甘く煮た黒豆だ。
ぷっくりと水を吸い込んだ黒豆を、この子の口にふくませてやりたい。この透き通った唇を黒く濁った煮汁で汚し、指で押し分けて豆を中に押し込んでやりたい。
口に指を入れられたイザギくんは驚いた顔をする。それでもそのまま、もぐもぐと咀嚼をはじめる。豆ごと自分の指を噛み、そして舐める。しだいに、口の中に黒豆の甘さが広がって、そのこわばった表情が笑顔にかわりはじめるのだ。
そんな妄想を浮かべたら、隼人の下半身は勃起していた。
「なぁ」とイザギの耳元に唇をよせる。
「なんだ、くすぐったいぞ」
「黒豆を食べようか。何も食べないのは良くない。お姉さんには黙ってやるから」
「隼人は優しいの。だが、姉上との約は絶対じゃ」
「……そうか」
——自分はこの子に、恋をしているのか?
自分がおぞましかった。
しかし、勃起した下半身は何かを主張している。それが単なる朝の生理現象なのか、性欲なのかは分からない。だが、ひたすらに、自分の中からおぞましい何かがせせり上がっているのは間違いなかった。無邪気に笑う男の子に妄想し、下半身を硬直させる自分の体。
こんなおぞましいのが自分の体なのか。
「ほら。そろそろ起きるぞ」
勃起がばれるのを恐れて、隼人はイザギを押しのけるようにして身を起こした。
◇
鞍馬麗子と藪隠まよひは、九尾の散歩に公園へ出かけていた。
「しっかし、キュウスケは大妖怪なんだろ。それなのに、散歩に行きたがるなんて、まるで犬みたいじゃないか」
「阿呆のまよひは知りゃんせん。狐はイヌ科の動物でありんす」
尻尾をゆらゆらと揺らしてご機嫌な様子の九尾は、草むら匂いを堪能しつつ、木の根元を前足でせっせと掘り返して遊んでいる。
「おっ、蝉の幼虫を見つけたわいなぁ」
「あ、こら。掘り出すな」
「そうよ、キュウちゃん。可哀想よ」
「わちきは大妖怪ゆえ、幼虫をも殺すほどに残虐でありんすえ」
「まったく」
掘り出された幼虫を、見かねた藪隠が土の中に埋め戻す。残虐なのだと言いながらも、別に噛み殺して食べるわけではないらしい。単に、高級ペットフードを食べ慣れてしまい、すっかりと舌が肥えてしまっただけかもしれないが。
「そんな事よりもさ」と、藪隠は次の標的を探してあたりを嗅ぎ回っている九尾のほうをみる。「昨日のあいつ、誰なんだよ」
「清明のことかいな」
「そうそう。地面から虎を出したあの大道芸人」
「虎って、もしかして、いつの間にかお庭にあったあの大きな焼き物のこと?」
麗子が首を傾げて聞いてきたので、藪隠は「それそれ」と頷く。
「あいつが土から虎を作ったから。私が火遁で焼き固めてやったのさ」
「それで、マヨはお口を火傷していたのね。てっきり、いつもみたいにお味噌汁で火傷したのかと」
「それにしても、なんで火遁って口から出すんだろうな。巻物には、吐しゃ物のごとく吐き出すべし、って書いているんだけど、別に口じゃなくてもいいじゃん。いつも火傷になっちまう」
「多分、辛いものを食べるからじゃない?」
「火遁に辛いものとか必要ないし。第一、それだったら、尻から出るのが普通じゃね」
「そうかしら?」
麗子は思わずお腹に手をあてると「でも、たしかに」と考え込む。
「馬鹿なことを言いなんし。そんなことより、清明のことでありんすぇ」
周辺の木の根元をすべて掘り返したのか、九尾がいつもの定位置である麗子の肩に戻ってくる。
「あの男はわちきの怨敵じゃ。おそらく、また封印しにきたわいな」
「え〜。あの弱っちいのが? キュウスケってさ、いつも自分は大妖怪だ、昔は中国で酒池肉林大虐殺だー、とか吹いているけどさ。実際は大したことなかっただろ」
「なんし。清明は陰陽師ゆえ、お前さんみたいな蛮勇匹夫のたぐいとは相性が悪い。千年前は武者どもを従えておったが、今回は一人じゃったわいな」
「ふーん。なんかゲームの魔法使いみたいな奴だ」
麗子は、マヨも忍者だから本当にゲームみたい、などと思いながら木陰のベンチを見つけて腰を下ろす。
「キュウちゃんが封印されてしまったら、もう会えないの」
彼女の不安そうな声を聞いて、九尾は鼻をすりよせた。
「大丈夫、麗子は強い力をもっておる。心配しなんし。それを借りれば、清明ごときはいかようにもなる。ほれ、昨晩だって、あいつを遠くに吹き飛ばしてもうたろ。もはや相手にならんわいな」
「そうだ。そうだ。陰陽師がなんだか知らないけど、レッコの心臓はキュウスケが動かしてんだろ。やっぱり、今度会ったらぶっ飛ばしてやる」
「ほれ、小娘忍者もこう吹いておる」
「でも」と麗子は九尾を抱き寄せた。「キュウちゃん、何も悪い事していないのに」
九尾は、キュッ、と喉を鳴らして、麗子の胸に頭をうずめる。
「せやかて、わちきは大妖怪。人の世にたまった欲が形を成した妖しいもの。国を傾け、世を乱すのがわちきの
「違うよ。あれは私が、私が……ズルしようとしたから。キュウちゃんの力に頼ろうとしたのがいけないの」
かすむ麗子の声を、九尾は目をほそめ、うっとりと聞いた。
「ほんに難儀なものよな。今回の憑依体は」
コンコン、と狐の鳴き声が公園に響き渡った。
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