第十二夜:玄武の式神がまるこげた
「やれやれ、まさか簡単な結界すら張っておらぬとは……」
さっそく鞍馬の屋敷の庭に忍び込んだ清明は、空を振り仰いでため息をついた。
清明が陰陽師として活躍していた時代では、それなりの家であれば、魔除けの結界は施して当然のものだった。結界自体は特別な術を必要とするものではない。自らの領域を定義して外に示すだけでも魔は入り込みづらくなるものだ。
例えば、塩を皿に盛って戸口に置いておくだけで十分な効果がある。
「昨今は随分と不用心になったものよ。門構えばかり立派にして、心の備えを疎かにするとは情けない。ましてや、鞍馬ほどの名家がな。どおりで九尾に取り憑かれるわけよ。この国の行く末が思いやられるな」
広い庭を堂々と歩きながらも、念のために指を立てて印を結んでいる。ここはすでに敵地であることは明白だった。目の前の大きな屋敷から妖力が漏れ出ているのが見てとれた。
「憑依体がいるとすれば……、ふむ。二階のあの部屋あたりか」と清明が目を細めた時。
「誰だ!」
背後から鋭い声がして、清明は足を止めた。
「これは驚いた。私の背後をとるか」
振り向いて見ると、なお驚いた。そこにいたのは、年端のいかない少女だったからだ。
清明には面識がないが、短髪でジャージ姿の彼女こそ、麗子の親友である藪隠まよひだった。
「お前も、レッコのストーカーか?」
「ふむ」
「最近、レッコにつきまとう馬鹿な男が増えて困ってんだ。追い返したってゾンビみたい次から次へとわいてくる」
「ゾンビね」
その話を聞いて清明は思った以上に事態が進行しているのでは、と懸念を深めた。九尾はその術で男どもを魅了し、自らの信奉者にしてしまう。どうやら、着実に周囲に影響をおよぼしはじめたようだ。
「だから、お前みたいのはもう慣れっこさ。適当にやっつけて、さっさと追い返してやる」
「ふむ。その身のこなし。よもや、忍びの者か」
「むっ」
藪隠は眉をひそめた。
「何者だ。おっさん」
「おっさんではない。こう見えて、お前の爺さんよりも年を食っているぞ」
「お前こそ人を食った言い方して。あやしい奴」
「察するにそのレッコというのが憑依体だろう」
清明は立てた指を横に、さっと払った。
すると足元の地面が、むくり、と盛り上がり、土くれが固まって虎の姿になった。その鼻先のあたりに清明が息を吹きかけると、土虎がまるで生命を得たように動きはじめる。
藪隠は異変に驚く様子もなく身構えた。
「ははぁん。分かったぞ。お前も妖怪のたぐいか。だったら、用事があるのはキュウ助の方だろう」
「キュウスケ?」
「レッコに取り憑いた妖怪さ」
「ほう……、それは白き狐か?」
「教えないよ」
「尾はいくつある?」
「数えたことないね」
清明は虎の頭を撫でながら眉をひそめた。
伝説の大妖怪、九尾の狐は復活の度に世を乱し、多くを死にいたらしめてきた。あれは人の性欲と権勢欲から生まれた存在で、人を魅了し堕落させるのだ。
しかし、やはり今回の九尾には不可解なところが多い。その側にいるはずのこの女忍者は正気を保っているのだ。まぁ女が相手では影響が弱いだけなのかもしれないが。
それにしても、あの九尾はキュウスケなどと呼ばれるのか。そこに一番の違和感がある。
「あれは危険ゆえな。退治しにきたのよ」
「ああ、そうかい」
「まだ、復活して間もないのだろう。それほど被害は出ておらん。今のうちに封じてしまおう、とここに来た。手間をかけるが、レッコとやらのところに案内してくれるか」
「残念だが、それは出来ないね」
土から生み出された大虎を目の前にしても、藪隠は不敵に笑う。
「キュウスケの奴が、昔は相当なワルだったのは知ってるよ。だけど、それは出来ない」
「なぜだ」
「それは私がレッコの忍びだからさ」
清明は、ふむ、と眉をしかめた。一見、正気に見えているが、すでに洗脳されているのかもしれない。いずれにせよ、この少女に道理を説いている時間はなさそうだ。
「やはり、さっさと封じておくのがよかろう」
「動くな。痛い目にあわせるぞ」
「数万の民草の命がかかっておるのだ」
清明が土からつくった虎の額を、ぽん、と叩く。
すると、虎は唸り声を上げて藪隠に飛びかかった。大人の数倍はある大虎だ。それが頭上に飛び上がり、その丸太のような前足で彼女を掻きむしろうとした。
その刹那。藪隠の体がつむじ風の旋回し、虎の前足を肩に抱え込んだかと思うと、そのまま背後に投げ飛ばす。
虎は背中から地面に叩きつけられ、キャン、と猫のように鳴いて庭に転がった。その四つ足を天に向かって泳がせ、やっとの思いで起き上がった時、虎は炎に包まれる。
その炎は藪隠が口から吹きつけたものだった。
「これは驚いた。火遁を使うか」
藪隠は火を吹き終えると「使いたくないけどね、猫舌だから」と清明に向き直った。その背後には良い具合に土を焼き固められて、立派な置物になってしまった虎がある。
「忍術のたぐいは徳川のあたりで、すでに失伝したはずだが」
「遅れてるねぇ、おっさん。近頃の忍者は火吹きや水芸の一つや二つは当たり前なんだよ。いくらレッコの家のお庭番といってもね、さすがに暗殺とか護衛とかの仕事は減ってんだ。だから、サーカスに宴会芸まで何でもやる」
「さて、困った。まさか、
「東郷?」
藪隠が聞き覚えのある名に眉をしかめた時、上から「マヨなの?」と声がした。
「ねぇ、大きな音がしたのだけど、大丈夫?」
「レッコ。部屋に引っ込んでな。いつものストーカーさ。今、やっつけてやるから」
「あの、隼人くんの名前が聞こえたのだけど」
二階の窓から、鞍馬麗子が顔を覗かせる。
それを見た清明は戦慄した。
月明かりが陰りそうなほどに美しい少女にあの九尾が取り憑いていた。そして、その体からは膨大な霊気が渦巻いている。その力は数百年前とは桁違いで、もはや妖怪が持ちうるものではない。神の領域に達していた。
「九尾!」
清明は思わず叫んだ。
「その娘で何をするつもりだ」
「お前さんは、もしや清明かいな」
麗子にまとわりついていた九尾が、その鼻先をむける。
「それほどの力を蓄えて、何を企んでおる」
「あいや」
「この国を、いや、世界をも陥れるつもりか」
「ちょい、待ちなんし。その前にやることがありんす」
「なに?」
九尾は窓辺から、ぴょん、と飛び降り、こんがりと焼き上がった虎の頭の上に降り立った。そして月に向かって、コーン、と鳴いた。
「まずは、兎にも角にも、麗子の初恋を成し遂げんといかんえ」
「は? 麗子とは、その娘のことか」
「ゆえに、今はお前なんぞにかまってやる暇はないでありんす。さっさと、いね」
九つの尻尾がひるがえって、凄まじい霊気が突風となって清明を襲った。
千年を生きる陰陽師の秘術の印を四方に切って結界で防ごうとしたが、その霊気ははるかに凄まじく、清明は遠くへと吹き飛ばしてしまった。
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