第十一夜:ケーキの食べ過ぎダメ絶対

 アマヤドリ荘の受付で帳簿をつけていたマツリに、通りすがりの清明が声をかけた。


「マツリ嬢。弟殿はいずこか」

「イザギ様なら食堂におられると思いますが、」マツリは腕時計を確かめる。「そういえば、そろそろ反転のお時間ですね」

「そろそろ冬至ゆえ、日没がはやくなったな」


 清明は玄関から出て空を振り仰いだ。冬の弱い日が傾いて、空を赤紫色に染め上げている。


「弟殿の時間はつかの間に、姉君が永くなる時期よ。昔は冬至を一年の締めくくりとして暦を転じたものだ。麦の芽が雪の下から頭を出す季節。人の営みに即した優れた暦だったのだよ。それが昨今は単なる数合わせに成り下がりおった」

「イザギ様に用事があるのでしたら、急いだほうがよろしいのでは?」


 マツリは話が長くなりそうな予感を容赦なく断ち切る。


「む、そうだな。食堂だったか」

「私もご一緒します。イナミ様に変わられましたら、すぐにお風呂をご一緒することになっていますので」

「風呂か。江戸のころには冬至になると柚子湯にしたものだ」

「行きますよ」

「まてまて、私も行くと言っておる」


 清明とマツリは玄関から出ると離れの食堂に向かった。

 近づくにつれて楽しげな声と一緒に美味しそうな匂いが漂ってくる。中に入ると、隼人とイザギがテーブルを囲って何かを食べていた。


「それは……ケーキ?」


 清明は愕然とした。

 古今東西の風俗習慣を経験してきた彼だが、未だにケーキを喜んで食べる神など見たことがなかった。いや、最近になって奉られるようになった神なら、カップケーキにカフェオレくらいは神饌しんせんに供えられることもあるやもしれぬ。

 しかし、目の前にいるのは神世七代かみのよななよ天津神あまつかみのはずだ。


「おう。清明にマツリちゃんか。隼人が作ってくれたケーキよ。ふわふわしておもしろい甘味よな」


 その格式の高いはず神は、振り向きながらもケーキを頬張っている。


「イザギ様」とマツリは眉をひそめる。「こんな時間に甘いもの食べてしまいますと、イナミ様に怒られますよ。イナミ様だって隼人さんの料理を楽しみにしていたのですから」

「……あっ」とイザギは顔を凍り付かせて、腹に手をあてる。「しまった。すでに腹一杯まで堪能してしまった」

「そういえば、もう四時になるのか」と隼人が時計に目をやる。「たしかに、おやつには遅かったかな」

「そ、そうではない。これはまずいぞ。しくじった」


 イザギが明らかに動揺しているのを見て、隼人は不思議に思った。姉のイナミさんは優しそうな人に見えたけれど、弟に対しては厳しいのだろうか。ご飯の前に食べ過ぎただけで、ここまで震え上がるとは。


「大丈夫さ。俺からも言っておく。味見を手伝ってもらっただけだって」

「いや。姉上はすでにお見通しじゃ。このケーキなるものがあまりに美味だったゆえ、我が見境無く堪能してしまったことを」

「そうなのか? 確かに、ホールごと食べてしまうとは驚いた」


 作ったのは大きなホールケーキだったが、すでにほとんど無くなってしまっている。これだけ食べっぷりがいいと、作った甲斐があって眺めているだけで愉快だった。のだが、冷静になると明らかに食べ過ぎだろう。


「うう、腹一杯の満足だが……。しかし、姉上が恐ろしい」

「はぁ」

「のう、隼人よ。頼みがある」


 イザギは椅子から降り立って隼人の足元まで駆け寄ってくると、両手を合わせて頭まで下げる。

 隼人は、珍しいな、と目を見開いた。普段は尊大な態度なのにずいぶんと弱ってしまっている。


「姉上にケーキを献上してくれんか。、量は少なくてもよいが、できれば今夜に」

「はぁ。まぁいいけど」

「助かった。恩にきるぞ。願わくば、姉上の怒りを鎮めるほどの極上のケーキを」


 その時、「イザギ様」とマツリちゃんがせかす。


「そろそろ、お時間です。お戻りください」

「頼んだぞ。隼人よ。なにとぞ、な」

「ああ」


 しゅん、と頭をうなだれたまま、イザギは清明とマツリに連れられて食堂を出て行った。


 ◇


 外に出た三人は、まず空を見上げた。


「急ぎましょう。そろそろ日が沈む」と清明はイザギを見て「しかし、神ともあろう御方がケーキなど」と口元を覆った。

「言うな」

「随分とあの少年をご寵愛しているようですな」

「ここの住人じゃ、当然のこと」

「そうは言われますが、彼は他の住人とは違います。あの少年の宿星をなぞりましたが、いたって普通の少年でした。御身が興味をもたれるとは意外でしたな。よもや、あの東郷の息子だから情が移りましたか?」

「勘ぐるな。ケーキなるものが美味かっただけだ」

「左様で」


 清明がこぼした忍び笑いを、イザギは眉をしかめて歩みをはやめる。


「で、何用じゃ? 時間がない」

「例の狐について」と後を追う。

「九尾か」

「すでに復活したのは間違いないかと。しかも、このアマヤドリ荘のお膝元で妖術を使用した形跡が見つかりました。すでに憑依体も見つけていると思われます。前の誅伐ちゅうばつから数百年は経ちましたから、封印がほころびたのでしょう」

「解せんな。そのわりに平穏なものじゃ」

「ええ、不可解なのはそのことです。加えて、気になる事もございます」

「九尾が、隼人に術をかけたことか」

「……気がついておられましたか」

「馬鹿にするでない!」


 本館の玄関をくぐり抜け、靴を脱ぎ終えたところで、イザギは清明のほうを振り返る。


「我が隼人に張り付いていたのは監視のため、あれを守ってやるは東郷とのやく。その隼人にあれほど濃密な妖力の残滓ざんしがこびりついておれば、気にもかけよう」

「なるほど、というとケーキは?」

「あれは別腹じゃ」

「うまいことおっしゃりますな。して、お考えの続きをうかがっても? 世の権力者にならいざ知らず、妖狐が隼人少年に術をかけた理由は?」

「妖狐も隼人のケーキにつられた、とか?」

「……九尾が具現化する欲に食欲はなかったと思いますが」

「む、あくまで可能性の話じゃ」


 考え込みはじめたイザギの袖を、マツリが引く。


「イザギ様。時間がありません。このままお風呂場に行きますよ」

「ああ。すまんすまん。すぐに行く」


 マツリに引っ張られていくイザギについて行きながら、清明はその背中に声をかける。


「狐の妖力を追跡して、奴の根城を見つけました」

「ほう」

「あの鞍馬家の屋敷です。あの一族は古くから政治に深く関わっております。傾国の妖怪が狙うとすればこれ以上はないでしょう。探りを入れてもよろしいでしょうか?」

「任せる」


 マツリとイザギが風呂場に入ると、清明の鼻先で扉が閉まった。

 廊下に一人だけ取り残された清明はそっと耳を壁にあて、中の物音をうかがう。


「まったく、本当にイザギは! 酷いと思わない? マツリちゃん」


 どうやらギリギリだったらしい。すでにイナミに反転している。


「イナミ様。イザギ様の服をお脱ぎなってください」

「あんなに美味しそうなケーキを、ばくばくばくばく食べて、お腹いっぱいにしちゃったのよ。これじゃあ、今日はもう何も食べられないじゃないの!」

「そうですね」

「神罰として、イザギは明日の朝昼ごはん抜きです。明日は、お腹ぺこぺこにして私に変わってもらいます。マツリちゃんも、イザギにそう言っておいてちょうだい」

「イザギ様は、もう聞かれていると思いますよ」


 清明はくくっと笑って身を翻し、その場を立ち去った。

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