第十夜:キュウちゃんは大妖怪
鞍馬麗子は、自宅の部屋から夜空を見あげていた。
彼女のため息で窓が白く曇る。ようやく、消えたころにまたため息をつく。それを何度も繰り返していると、水滴が浮き上がり、窓にうつりこむ自分の顔をゆがめる。
「ねぇ、キュウちゃん。私、ひどい顔してるよね?」
すると、彼女の右肩あたりの空間が歪みはじめる。何もなかったはずのそこに、ぽんっ、と小さな白い狐が出現した。そして、その狐は首を傾げると言葉を発しはじめた。
「あれだけ泣きわめけば、ひどい顔にもなりんす」
キュウちゃんと呼ばれたその狐は、九本もあるふわふわの尻尾を垂らし、彼女の頬を舐めた。
「ねぇ、キュウちゃんは恋愛経験が豊富でしょう? 私どうしたら良いの」
「麗子、ごめんなんし。わちきではどうしようもありゃんせんかった。ややこしうなっただけに。ほんに、かんにんな」
「違うわ。キュウちゃんがいなければ、隼人くんに告白することも出来なかった。私がいつも怯えて、うじうじとしているのがいけないの」
「せやけど……」
麗子に指先で額をなでられると、その絶妙な刺激に狐の喉がくぅーんと鳴った。
なんとも甘美なる愛撫。この娘に取り憑いてもう随分と経つが、この手つきにはいつも骨抜きにされてしまう。これでも三千年は生き長らえた大妖怪なのだが、もうしばらくはこの娘の憑き霊に甘んじてもいいかもしれない。
「せやけど。あの隼人とかいう小僧。わちきの妖力が通じんとは驚きんした。麗子に憑依したわちきの力はかつて中国大陸をゆるがした
「やっぱり、そんな術とか使うの、良くなかったのよ」
「まぁ、それで魅了されたのは有象無象の男どもだけ。肝心の隼人に効かんとはなぁ」
九尾の狐はふわり浮き上がると、部屋の中を漂いながら思案を巡らし始めた。
大妖怪である自分はかつて、中国や日本などの国を傾け、麻のごとく世を乱したものだった。
その
とは言え、九尾とは性欲の化身。この世に悦楽堕落の思念が溜まれば自然と復活するものだ。ようやく復活できたのがつい数年前。今度はどんな美女に憑依し、快楽堕落をたのしんでやろうか、と空を漂って女を物色していたのだ。
そのとき、大きな屋敷の窓から小さな女の子がベッドに横たわっているのが見えた。九尾はその美しさに目をむいた。三千年間、数多くの女を見たがその中でも随一の器量。
さっそく窓辺に飛び降りて覗き込むと、彼女から「あら、狐さん」と声を掛けてくる。
これには仰天した。
普通、人間は妖怪を視認する事はできない。さては、陰陽師か巫女かと身構えたが、すぐに疑問が解ける。彼女の体から霊魂が半分ほど抜け出ていた。どうやら死にかけらしく、半分ほど幽霊になり、おのずと霊視が備わってきたのだろう。
これはいかん。これほどの逸材をみすみす死なせてなるものか。この娘に憑依できれば、自分を退治した憎き清明への意趣返しも容易なはずだ。
九尾は急いで天へ昇ろうとする霊魂に問いかける。
「そこの死にかけの小娘よ。そんな若さで、なんぞ心残りありゃせんか」
「心残り?」
「やりたかったこと、逢いたかった人、色々ありなんし」
彼女の霊魂をハラハラと見上げながら、必死に未練を引き出そうとまくしたてる。
生前の未練は、霊魂を少しでも長く留めるためにも必要であったし、憑依するためのきっかけにもなる。
「一つだけ、あったなぁ」と霊魂が寂しく笑う。
「それじゃ、なんぞ、いうてみんせ」
「もう一度、隼人くんに逢いたかったな」
「それは、お前さんの想い人か」
「うん、隼人くんのもんじゃ焼き、また食べたいなぁ」
霊魂が悲しそうに震えると少し下に落ちはじめた。九尾はしめたと思った。愛憎恋慕の未練に付け入るのは最も得意とするところだ。
「諦めなんし」と九本の尻尾を伸ばして引き留めにかかる。「わっちは九尾の狐といってな、今まであらゆる男を虜にしてきた。わっちにかかれば、その隼人というのもお前さんの思うがまま」
「本当に? でも、私、病気なの。もうすぐ死んじゃうんだよ」
「わちきを侮るなんし。これでも三千年を生きる大妖怪。お前さんの身体を任せてもらえば、疫病の素なぞすぐに食い殺してやりんす」
「本当に?」
「ほんに」
九尾は後ろ足で立ち上がり、前足をちょいちょいとこいで霊魂に手招きする。
招かれて降りてきた霊魂は、急に声を落とす。
「でも、私にはお返しできること、何もないよ」
「そんなもの、お前の身体を貸してくれるだけでよい。病を追い払って、想い人を虜にして、まずはそれからよ」
「本当に? 狐さんは良い狐さんなのね。なら私の体でよければ使ってください。あっ、でも隼人くんのことはね、自分でなんとかしたいなぁ。狐さん、病気だけでもいい?」
「ああ、構いはせんよ。それじゃ、契約は成立でありんす。わちきは九尾。お前さんは?」
「私は鞍馬麗子」
「それじゃあ麗子よ。その体はわちきのもんわいな」
九尾は麗子の体に飛び込んで憑依すると、さっそくとばかりに胸のあたりあった厄病の素を喰い殺した。
それで原因は絶ったが、麗子の体はもうボロボロで、自力では生きていけないほどに弱っていた。そこで、妖力を細かくわけて血に混ぜこみ、体中に巡らして、あちこちを立て直す。
特に心臓は悲惨だった。脈打つことが出来ないほどに摩耗し、もはや使い物にならなかった。九尾はそれを妖力で包んで鼓動を代わってやることにした。そうやって彼女の体の悪い部分を隅々まで修復し終えたところで、九尾はようやく安堵の息をついた。
まさに、間一髪であった。
あと少しでも遅れていれば、この逸材は死んでしまっただろう。しかし、こうやって憑依し、妖力で心臓を動かし続けるかぎり死ぬことはもうあるまい。憑依の誓約はすでに交わされた。これで、この素晴らしい体は自分のものだ。
しめしめ、と麗子の体の中でほくそ笑んでいたが、すぐに驚愕で凍り付く。
有るはずのものが無かった。
この娘には、人間には必ず有るものが無かったのだ。そんなはずはあるまいと思い、その精神の隅々をくまなく探す。しかし、どこにも見当たらない。妖狐の憑依体となるために絶対に必要なものなのに。
怒りや欲望といった負の感情。それが、麗子にはこれっぽっちも無かったのだ。
九尾は狼狽して問いかける。
「麗子とやら。お前はどうして世を恨まんし」
「わぁ、狐さんの声が体の中から聞こえる。それに……ああ、本当にもう苦しくない、痛くない。こんなに体が楽なのは生まれて初めて。狐さん本当にありがとう」
麗子の感謝の声が、九尾の違和感を煽った。
「感謝なぞやめなんせ。そんなものよりも恨みやつらみ、妬みはどこにやった。お前さんは死にかけじゃった。想い人もいたというのに何もできず。どうして自分だけこんな不幸なのかと、思わんのかえ?」
「でも、私の病気は誰のせいでもないわ」
「理不尽とは思わんし? 悔しいとは思わんし?」
「たしかに、お父様とお母様が悲しむお姿をみるのはつらかったわ。まるで私の痛みをお分けしてしまったようで……でも、それも狐さんのお蔭でこんなに楽になった。お父様もお母様も喜んでくれる、ようやくお二人の笑顔が見られるのね。これもみんな狐さんのお蔭よ」
「ええい、感謝などしなんし!」
かくして、これほどの逸材に憑依したまま、九尾は悪さができずに無聊をかこい続けていた。
何度も憑依を解いて別の体に移ることも考えた。しかし、麗子は数千年に一度の逸材。彼女の心臓は自分の妖力で動かしているため離れれば死んでしまうだろう。それも惜しい気がして、ずるずると続けて今にいたる。
やがて麗子は九尾のことを「キュウちゃん」と呼び、今や、毎晩のおしゃべり相手だ。
「わちきもな、麗子がようやく色恋沙汰に欲が出てきてうれしゅうてな。お前さんの白魚も住みつかん清らかな心も、ようやく人並みの女に育ったのかと、ほに、うれしかったんよ」
「もう、やめてよ。キュウちゃんはいつもそればっか」
「せやかて、おまんも女。あんなに弱かった子が、ちゃんと情欲の炎を燃やせるようになったかと思うと、狐の目にもこみ上げるものがありんす」
「キュウちゃんのお陰だよ」
「しかし、不甲斐ないのはわちきよ……」
九尾は耳を垂れて俯く。
「申し訳なんし。麗子の器量とわちきの妖術が合わされば、小僧一人なんぞイチコロと思うたのよ。それが……」
成長し、隼人に出会った麗子の心には欲が芽生えた。
それは色への欲だった。思春期の誰もがその奔流に呑まれる性欲。つまり、九尾はようやくその力を発揮することができるようになったのだ。
さっそく、九尾は隼人に向かってその妖力を解放した。
その威力は九尾の期待を遥かに上回った。学校にいた男子生徒を全て魅了してしまい、麗子の信奉者にしてしまったのだ。こんな小さな欲望でこれほどの影響を与えたのは初めてだ。もし麗子が世界を望めば、おそらく世界中の人間を魅了することもできるだろう。
しかし、
「肝心の隼人とかいう小僧には通用せんかったわいな」
昔、中国の殷の妲己に憑依していた時のことを思い出した。
結局は、比干は処刑されたのだが、妖力に抗うことのできる人間は稀に存在する。千年前に自分を討伐した安倍清明とそれに従う武者たちもそうであった。
「しかし、いかに妖術が通じずとも所詮は童貞の小僧。麗子の器量をもって色を仕掛ければ……、と考えたが」
「うん」と麗子はうつむく。
この時代にも男女がひそかに乱れる風習は残っていた。
カラオケボックスなる歌会の小部屋があり、デートという逢い引きをそこで致すものだと聞いた時、九尾はこれだと思った。
歌を詠み交わして、
であれば、カラオケボックスなる部屋に誘い込み、歌もそこそこに押し倒すべし。手練手管を知り尽くして三千年。大妖九尾がこの美しき体を借り、淫技の限りを尽くせば、
これぞ、万年必然、男女の
……などと、九尾は大見得をきり、カラオケボックスで麗子の体を借り受けた。
「まさか、ぴくりとも反応せんとはなぁ」
と、九尾はしゅんとなる。
「キュウちゃんは悪くないわ。隼人くんは、その、同性が相手でないとダメだったみたいだし」
「本当は、わちきの秘技で火照り蕩けさせ、体を絡み合わせる。塩梅が万事ととのって、いざ
「えっ?」
「それで、慌てふためいた麗子が、それでも自らの意思で女の道を開通するところをなぁ、宙で漂いながら眺めて楽しむつもりだったのでありんすえ」
「ちょっ、ちょっと、キュウちゃん!?」
「ほんに、難儀なことよなぁ」
九尾は宙から麗子の膝上へと降り立つと、そこに丸まった。すると麗子の指が首下をくすぐって、頭の上へと這いあがり、額のところをこりこりと掻く。
く〜ん。極楽極上、至福の愛撫。
この世の快楽を知り尽くした自分を、ここまで満足させるとは、清楚な見た目に反して麗子には淫技の才があるのやもしれぬ。
「ねぇ、キュウちゃん」
「なんぞ」
「私ね。今度はちゃんと頑張ってみる」
麗子の愛撫に力がこもる。
「今度は、ちゃんと自分で隼人くんに告白する」
「まぁ、それもよかろうわいなぁ」
「隼人くんには迷惑だと思うけど、自分で言って、それで断られたら、ちゃんと諦められると思う。じゃないと、意味がないもの」
九尾は目線を上にむけた。麗子は、まっすぐ前を向いたままだった。
「キュウちゃんに生かしてもらった意味がないもの」
「麗子……」
かつて霊魂が抜け出そうなほどに病弱だった娘は、その瞳に熱い恋の炎をともしていた。
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