第九話:お面ライダーは環境に優しい

「起きるがよい」


 幼さが残るハスキーボイスが鼓膜をさわり、頬をぺちぺちと叩かれて、隼人は目を覚ました。


「んっ、あ〜」


 ぼやけた視界が輪郭を取りもどすにつれ、男の子が覗き込んでくるのが見て取れた。

 畳にしいた布団に寝転んだまま、手だけを上げて、覗き込んでくるその顔のほうに伸ばす。柔らかい頬の感触が指にふれる。イザギくんだ。しかし、どうやって……。


「部屋の鍵は、」

「ここは我の領域ぞ」


 つまり、この寄宿舎の持ち主として、合い鍵を持っているということだろうか。


「勝手に入ってきちゃ、だめだろ」

「秘め事があるならば、戸口に塩を盛ることだな。さすれば、見て見ぬふりをしてやる」


 ふふ、とあの独特な笑いを浮かべている。


「……今、何時だよ」

「午前の七時ごろだ」

「まぁ、いいや。起きるか」


 隼人は頭を振りながら、起き上がって畳に敷いていた布団を隅によせる。あてがわれた部屋は典型的な畳敷きのワンルームだ。台所が備え付けなのが、個人的にはうれしい。


「やあやあ、隼人よ」


 パジャマの裾を掴まれて後ろから引っ張られる。


「なんだよ」

「我は朝餉あさげを所望だ」

「あさげぇ?」

「姉上から自慢されたのだ。昨晩は魚を甘辛く焼いた物をふるまったそうではないか」

「ああ、腹減ったのか」


 まだ眠たい目をこすり、もう片方の手でイザギの頭を探り当てると、ぐりぐりとなで回してやる。


「何をする」


 と、イザギがそれを払いのけようとパジャマを放した隙に、備え付けの台所へ向かう。


「お前は我の庖丁人ほうちょうにんぞ」

「あ〜」と生返事をこぼし、顔をばしゃばしゃと洗う。「冷てぇ」

「聞いておるのか」

「飯だろ。分かってるよ。いちいち難しい言葉使うな。で、何が食いたいんだ?」


 タオルで顔を拭き取って、あくびを噛み殺す。


「美味なるものなら何でもよい。我のためにこさえた物であれば文句などない」

「嫌いなもんは?」

「ない」

「そいつは偉いな。大きくなるぞ」


 隼人は濡れた手をイザギの頭にのせて、その髪で水気を拭き取った。


「やめろと言っておろうが。目が回る」

「ちょうど買い出しに行くつもりだったんだ」頭から手を離して、隼人はイザギと同じ目線までかがみ込んだ。「どうだ、一緒にいくか?」

「ほう、我に市井しせいに降りろ、とな」

「友達にクリスマス料理を作ってやらなきゃならねぇ。そうだ。ちょうどいい。お前にもケーキを作ってやろう。ハンバーグにパスタにグラタンもだ」

「むぅ、聞き慣れぬ言葉ばかり。それは美味いのか?」

「もちろんだ」


 ほほう、とイザギは息をもらた後に「いく」と言った。


「だったら、そこで待ってろ。着替えるから」

「はよせい」


 家からもちこんできた鞄にかがみ込んで中をあさる。

 適当なジーンズに適当な上着、それに靴下を探り当てていると、底のほうで固いものに指があたった。何だっけな? と思って引っ張り出してみると、それはあのオモチャの変身ベルトだった。


「おう、それは変身ベルトじゃないか」


 声を高くして、イザギが背中ごしに覗き込んでくる。


「知っているのか、これ」

「知らないのか? お面ライダーの変身ベルト」

「へ〜、お面ライダー」


 そう言えば、親父は自分のことをお面ライダーだ、とか言ってたっけ。


「有名なのか」

「当たり前だ。お面ライダーは環境にも優しい正義のヒーロー。悪事を見つければ、ママチャリで駆けつける。昔のようなバイクでブイブイ言わせるようなライダーではないぞ。そこが、あやつの渋いところ」


 昔は、自分も楽しみにしてテレビにかじりついていたな。変身ヒーローの特撮番組。

 それにしても、お面ライダーとはひどい名前じゃないか。俺が子どもの時はヒーローはモーターバイクに乗っていたはずだが、最近のはママチャリか。環境問題とか世間がうるさくなったせいなのかもしれない。


「いいな。いいな〜。変身ベルト」


 耳元でイザギの声が弾んでいるので「欲しいのか?」と聞いてやる。


「おお、良いのか? それは大変に貴重なものだぞ」

「別に。ほら、やるよ」


 そのまま押しつけるように渡すと、イザギはそれを胸に抱いて目を輝かせた。子どもらしく喜怒哀楽がはっきりしている。見ているだけで、こちらも嬉しくなってきた。


「おお。これはマツリちゃんにあげないとならんな」

「マツリちゃん?」


 あのしっかりした感じの受付の女の子だ。そういえば、イザギくんよりかは年上だが、まだせいぜい中学生くらいの子だった。


「マツリちゃんも、お面ライダーが大好きだからな」

「ああ、そうか。あの子にあげるのか」


 ちょっと残念な気持ちになった。


「このベルトは少し壊れているからな」

「そうか?」

「ああ、使いすぎたせいだな。これを直せるのは天才のマツリちゃんだけだ」



 そっか、使いすぎて壊れていたのか。

 もしかしたら、親父はこれを腰に巻いて遊びつづけていたのかもしれない。

 自分が学校に行っている間に、家でオモチャのベルトをしめて「変身!」と叫んでポーズを決める父親の姿を思い浮かべてみる。笑ったらよいのか、泣いたらよいのか、よく分からなかった。


「ほれ、我はこれをマツリちゃんに渡してくる。玄関で集合ぞ。急げよ」


 イザギはそう言うと、部屋から飛び出てしまった。




 二人が買い出しに向かったのは定食屋のある商店街。アマヤドリ荘から近い上に、隼人にとっては馴染みの八百屋や肉屋が並んでいるので都合がよい。

 慣れた道を歩きながら隼人は、横に並んだイザギの頭に視線を落とした。


「食いたいもの、本当にないのか?」

「隼人が作りたいものが、我の食べたいものよ」

「変な気を使うんじゃねぇよ。子どものくせに」

「我を子ども扱いとはな。まぁ、考えてみよ」


 イザギがこちらを見上げて指をさす。


「お主が作りたくもないのに、作らせたものを、食べたくはない。これは分かるか」

「あ、ああ。まぁな」

「それを逆にしてみよ。お主が作りたいものを、作ってもらって、食べてみたい。うむ、見事な三段論法だと思わんか。裏の道理も通っておる」

「……お前、いくつだよ」

「十万歳くらい?」

「氷河期より前だぞ。お前が生まれたの」

「どうりで寒かったわけじゃ。マンモスを追いかけて氷の海を渡った時の話、してやろうか?」

「いらねぇよ」

「なんじゃ、つまらん。日本列島が大陸から分断されるまでの一大叙事詩ぞ。古事記にも曖昧にしか書かれておらん」


 またややこしい事を言い出した、と隼人は口元を歪める。


「まぁ、いいや。じゃあ、お言葉に甘えて作りたいものを作りますか」

「そうそう、くりすます料理とやらか」

「どちらかというと、洋食全般かな。定食屋ではあまり機会なかったから。せっかく、カルボナーラ、ミネストローネ、キッシュ、それにアヒージョとかも作りたいな」

「我からすれば、隼人のほうが難しい言葉ばかり使いよる」

「そうか? まぁ、せっかく自分の食堂を、」と言いかけたところで、ふと気がつくことがあった。


 心が軽い。

 すこしワクワクしている。

 こんな気持ちは、本当に久しぶりだった。

 ずっと億劫でイライラしていたのに。自分はゲイで、みんなとは違っていて、シンプルじゃなく、複雑でややこしい存在。それが分かってから、ずっと億劫だったのに。

 それなのに、今は、楽しい。


「……お前が任せてくれた食堂だからな」


 ほらよ、と隼人はイザギを抱き上げた。そのまま頭上に持ち上げて、肩車にしてやる。


「おお、高い高い。頭が高いぞ」とイザギがはしゃぐ。

「昔、親父がよく肩車してくれたんだ。自分がでかくなったみたいで、いいだろう?」

「いいぞいいぞ。やはり大男はええのう。やはり今度は、武みたいな大男に化身けしんしよう。筋骨ましましじゃー」

「いっぱい食えば、なれるかもな」


 二人は、まるで兄弟のようにはしゃぎながら、商店街を駆け抜けていった。

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