第七話:我が名は雨ノ中イザギ
隼人は大きな門を前にして立ち尽くしていた。
ツタが絡みついた鉄格子の門にはアマヤドリ荘と書かれた表札がかけられている。入居することになったこの寄宿舎を前に、隼人はもう数分間も冷たい風に吹きさらしになっていた。
もやもやとした億劫な気持ちが彼の足を止めていた。
その原因は色々と思い当たる。父親が意味不明なことを言い出したこと。定食屋を自分に任せてくれなかったこと。
それに、ゲイ事件以降の学校でのごたごたもだ。あいつホモなんだってさ、と聞こえてくる陰口とか。パーラ先生のところに鞍馬さんがいたことも。
なんで、鞍馬さんは俺みたいなのを……。
思わず「よく分かんねぇよ」と吐きこぼした。
もっと単純なら良かったのに、といつも思う。学校のアイドルに告白に有頂天になって、土日のデートとかキスとかに猿みたいに小躍りして、平日は定食屋を手伝って、親父が俺をもっと頼ってくれて、少しずつでいいから色々と任せてくれる。
そういうので良かったのに、どうしてこんなにグチャグチャなんだろう。
アマヤドリ荘の玄関を見上げる。
親父に言われるがままにこの門をくぐることが、なんとなく嫌になる。いつもなら何か言われる前に率先して親父の仕事を手伝おうとしていた。
でも、今は違う。このままだと、自分がわけも分からないままにずるずるになってすまう。そんな気がしてしょうがなかった。
だったら、こういうのはどうだ?
親父の言うことなんて無視して、店を再開するんだ。それを自分の力だけでやってみる。常連は驚くだろうが、話せば分かってくれるはずだ。藪隠だって手伝ってくれるだろう。不安もあるが、自信がないわけじゃない。テーブルとメニューを減らしさえすれば……。
「何を人の門を睨みつけておる」
はっ、と声がしたほうに視線を下げる。鉄格子の向こうから小さな男の子がこちらを見上げていた。
「あ、いや。実は……ここの入居者で」
そう口をついた瞬間、しまった、と頭を掻きむしった。さっきまで練っていた計画があるのに、ここに入居してしまえば実現できなくなってしまう。
「ほう。するとお主が、
男の子は、その小さな指で顎をつまみ、大きな瞳を見開いてこちらを覗き込んでくる。確かに、武は自分の父親の名だ。しかし、こんな小さな子どもに呼び捨てにされるとは。
「似ておらんな」と男の子はしゃべり続ける。「あやつの息子だというから、
「……隼人」
男の子から耳慣れない古くさい言葉が次々と飛び出てきたせいで、隼人は面食らってしまい、つい答えてしまった。
「ふふ」と可愛いらしい鼻がなる。「これはまた、武も随分と雄々しい名をつけたな」
「なぁ」
「なんぞ」
「さっきから、その。武、武ってさ。それって、俺の親父のことか?」
「そう言うたのはお主だったと思うたが、違うのか? 隼人とやら」
逆に聞き返されてしまって、隼人は口をつぐんだ。
また、ふふっ、と笑う。どうやら馬鹿にされているらしい。
「あんまり、子どもが大人をからかうもんじゃないぜ」
「子ども?」と男の子は指を自分の鼻先にあてて、口の端を三日月に歪めた。
「そう、お前だよ」
「ふむ。まぁ、この
男の子はくるりと背後を向くと同時に、大きな門が勝手に開いた。
隼人は驚いて左右を見渡した。誰かが隠れていて門を開けたのかと疑ったが、どこにも見当たらなかった。自動ドアのような装置があるわけもない鉄格子の古びた門なのに。
「どうした? 入らないのか?」
背中をむけた男の子が、顔だけこちらを向けて手招きをしている。
「あ、ああ」
言われるがままに、足を踏み入れる。
そこには、落ち葉が敷き詰められた大きな庭が広がっていた。左右に銀杏の木が並んでいて、その向こうに母屋らしき大きな建物がみえる。その壁は色あせた赤いレンガだが、屋根は瓦でできている。歴史を感じる和洋折衷の建築で、びっしりとツタに覆われていた。
古風といえなくもないが単に手入れをサボっている、というほうが正確だろう。足で落ち葉をかき分けながら、男の子の背中を追いかける。
「歩きづらかろう?」と男の子が立ち止まる。
「別に、そんなことは」
「
「これだけ広いと大変だ」
「さてな」と男の子が、ぱん、と手を叩いた。
すると目の前につむじ風が巻き始めて、落ち葉を絡めてまき取っていく。
そのまま、すーと庭の隅に向かい、そのあたりで落ち葉の山を作ったところで、ぴたりと風が止んだ。
さっきまで、足元を埋めるほどに敷き詰められていた落ち葉が綺麗に庭の片隅に寄せられてしまい、本来の並木道らしい石畳が露わになっていた。
「な、え」と隼人がその光景に驚いていると、
「いい風が吹くではないか」と男の子が笑う。
彼はそのまま正面を指差して「向こうが母屋だ」といい、そのまま横にある離れの小屋に指を振り向けた。
「あっちが食堂よ」
「食堂? 食堂があるのか」
「いや。食堂だった、と言うべきか?」
男の子は振り返って隼人をみる。
「ここしばらくは、
「ほうちょうにん?」
「今風に言えば、板前じゃ」
「もしかして、料理人のことか」
「それよ。それよ」
くるりと回って、男の子がこちらを向き直る。
「前はちゃんといたのよ。ほれ、
「はなやよへえ?」
「知らないのか。遅れてるの〜」
また、ふふっ、と馬鹿にしたように笑う。
「江戸で人気だった、にぎり寿司を考案したやつよ。百年くらい前だったかの。あれは旨かった。それが最近は、武のやつが弁当を奉納するじゃろう?」
「ああ、たまに俺もここに仕出しに来てた」
「そうそれよ。あの美味なる極上の箱詰め」
男の子が、またくるりと回ると、どこから取り出したのか仕出しの弁当箱を両手で差し出す。それはうちの定食屋の弁当だ。
「こんな美味を食べさせられては、他のものが喉を通る道理なし。つめていた庖丁人にこの弁当を下賜して、同じものを作れと命じてみたことがあった。しかし、天命にあたわずかな。自らの非才を嘆いていなくなってしまった」
男の子は「あれは、酷なことをしたな」と声を落として、弁当箱をなでる。
「なんだ。親父の弁当、好きなのか?」
「うん、大好きだ」と大きな瞳が輝く。
その輝きがあまりに美しかったので、隼人は共感した。
「武と
「やく?」
「武が言っておったぞ、息子の料理は自分以上に美味い、と」
「あの親父が、本当にか?」
「親の欲目は、月夜の色目に同じ。ぼやけて見誤るもの、というがのぉ」
ぽん、と男の子が弁当の蓋を叩いた。そして、その上に耳をのせ、ガサゴソと揺らす。音を確かめると、満足げに口の端を引き上げる。
「よって、息子のお主に拒否権はない。愚かな武の可愛そうな息子。ああ、罪深きはいとうまき箱詰めかな」
「さっきから、なに言ってんだ」
「今日よりお主をアマヤドリ荘の料理人に任ずる。これは天命よ」
男の子が弁当の蓋を開けると、その中には大きな
「安心せい。
「おいおい、……なぁ。聞きたいことがあるんだけどさ」
「なんぞ、お主には拒否権はないと言った」
「君の名前は?」
「ほう、我か?」
いつの間にか弁当箱はなくなっていて、男の子の両手には大きな盃だけがのせられている。
甘い香りを漂わせるその白濁の液体がこぼれそうになったのを、おとと、とその小さな唇をよせて舐めとり、桜色の唇を白くよごしたままで笑う。
「我が名は雨ノ中イザギ。ほれ、今度は隼人の番じゃ。よもや、我の酒が飲めぬとは言わせんぞ」
盃が差し出される。
目の前で白い液体がゆれていた。
「俺は、東郷隼人だ」
隼人は渡された盃を受け取って、その甘い汁に口をつけた。
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