第六話:恋についての研究論文

 中臣マツリは十三歳の女の子なのだが、アマヤドリ荘の管理人兼受付を任されている。

 彼女は、受付の事務机にちょこんと座ってぷらぷらと足を遊ばせながら、じっと手元の入居許可書を眺めている。もうかれこれ数時間ほど、そうやって悩み続けていた。


 マツリにとって悩むという事は珍しいことだ。


 彼女は世界で最高の知能を持っていた。天才といっても過言ではない。だから、この世にあまねく存在する謎や問題は即座に解を導くことが出来た。彼女が過去に受けさせられていたIQテストの結果は、測定上限値である200だった。しかし、毎回、解答時間が大幅に余っていたので本当は200以上の可能性が高い。

 そんな優秀な頭脳を持つはずの彼女が、入居許可書を眺めて何度も思案を行ったり来たりさせても答えが出ず、溜息を積み重ねているのだった。

 手元の氏名欄には東郷隼人と書かれていて、すぐ横には顔写真が張り付けられていた。


 年齢は十七歳、高等学校の二年生、実家は定食屋を経営、犯罪歴等の素行に問題なし。


 その普通で健全で無難な個人情報は、アマヤドリ荘の入居者としては問題だらけだった。ここは彼のような人間が入居する場所ではなかったはずだ。

 それなのに、このような異例な入居が許可されたのは、ここのオーナー姉弟がマツリの事を想ってのことだ。マツリはそのご好意を嬉しく思う反面、ここに居場所を頂いているだけでも感謝し切れないのに、と非常に申し訳なく思っていた。

 彼女の視線は、やがて入居許可書の一番下に記入された保護者氏名欄に落ちる。もう何度となくその名前を見ては、何度も溜息をついてきた。

 そこには力強い文字で『東郷武』と記入されていた。


 東郷武……マツリにとって、その名前を聞いて平静でいることは非常に困難だ。

 彼女はこの三年間の内の半分くらいは東郷武のことを考えて過ごしていた。まだ幼く、成長期でもある彼女の一日は、三分の一くらいは睡眠に充てられる。であるから、二分の一も東郷武のことに費やされてしまっては、残りはたったの六分の一しかない。

 もしも、彼女の優秀な頭脳が武のことではなく、例えば数学の問題に使っていれば、学会が100万ドルの懸賞金をかけているミレニアム懸賞問題くらいは解けてしまったかもしれない。そうなればアマヤドリ荘の財政問題を解決することも出来たはずだ。

(ふと思い立って、試しに解いてみたら三日で解けてしまった。しかし、アマヤドリ荘はあまり世間に目立つわけにはいかないので、泣く泣く100万ドルをあきらめるしかなかった)

 

 時は三年ほどさかのぼって、彼女が十歳のころ。

 彼女が東郷武のことを考え続けてしまうようになったのはこの頃からだった。心臓の奥底から脳へと刺激があり、東郷武のことを強制的に考えさせられる作用を感じた。

 彼女は、これを脳に生じた不調であると考えた。

 合理的に考えて、この症状は時間という貴重なリソースの浪費であるのは明白であった。武のことを思い浮かべると、マツリは心臓付近の大動脈を糸で締め付けられるような苦痛を覚え、時には呼吸困難にもなったことがある。しかし、脳は勝手に武のことを思い浮かべるので対処は不可能に近かった。


 なんとかしないと、私はもう長くないかもしれない……。


 脳だけではなく心機能不全の合併症だ。そう思いながらマツリは脳科学書と最新の医学論文を調査した。結果、同様の症例は見つけることすらできず、これは前例のない奇病であるという結論に至った。その際、いくつかの論文に間違いを見つけたので、著者に修正を匿名メールで送付しておいた。

 次に、マツリはこの奇病は自身の特殊な生まれに起因するものだと考えた。マツリは遺伝子操作によって人工的につくられたデザインチャイルドだ。かつて、悪の組織によって産み出された天才児たち。知能を偏重して強化された遺伝子が、前例のない健康障害を発症させている可能性は高い。

 そこで、自分と同じように武によって救い出された兄弟たちに連絡をとった。


「こちら、マツリ。兄弟たちよ、緊急連絡です」

「はい、マツリお姉さま。全員オンラインです。どうされました。まさか、お面ライダーの新たな危機でしょうか」

「いえ、違います。武さんは無事です。問題は私たちの遺伝子にあります」

「そうですか。詳しく教えてください」

「実は、循環性の妄想を引き起こす脳障害と心機能の合併症を発症してしまいました。特有の症状として、強制的に武さんのことを想起してしまいます。世間では前例のない症例であり、私たちの遺伝子に起因する固有の病気である可能性が高い」

「なるほど、かなり特殊な症例ですね」

「ですので、悪の組織が私たちの遺伝子に刻んだ症状だと思うのです。彼らなら、お面ライダーを倒すために何でもやるでしょう」

「かなり限定された作戦ですが、悪の組織ならやるかもしれません」

「ですので、同様の症状を罹患りかんした兄弟を確認したいのです」

「ふむ」「なるほど」「お面ライダーの妄想を強制的に循環させられる」


 通信の向こうにいる兄弟達がざわついている。しばらく、待っていると、兄弟のひとりが「マツリお姉さま」と質問を求めた。


「なんでしょうか?」

「具体的にどのような妄想を強制されるのでしょうか」

「そうですね。例えば、最近では抱っこです」

「だっこ、とは?」

「武さんの太い腕で、抱き上げられてしまうのです。背中に長い腕が回り込んで肩を大きな手が掴みます。足は宙ぶらりん。顔を寄せれば、胸一杯に武さんの匂いがするのです」

「匂いとはどのような?」

「これは妄想ですので、具体的な匂いはしません。脳がもたらす異常なのです」

「汗臭いですか?」

「良い匂いでした」


 またもや、ざわざわと兄弟達が議論をはじめる。「抱っこは誤認で、新しいチョーク技を検討していたのでは?」「だとしたら汗臭いだろう」「良い匂いとはなんだ?」しばらくして、他の兄弟が「マツリお姉さま」と質問をもとめた。


「なんでしょうか?」

「お面ライダーは私たちの恩人です。その戦いを支援するのが私たちの役目ですから、ある程度は必要性の範囲だと思います。もちろん、マツリお姉さま自身が、お面ライダーの新技の試験台になるのは非合理的だと思いますが」

「しかし、先ほど報告したとおり、この症状は強制的で循環性があるのです。実際の生活に支障をきたすレベルです。心不全を併発し、時には呼吸困難に陥ります。生命活動の限界にまで至った経験もあるのです」

「なるほど、肺機能にも影響が出ましたか。それは問題です。しかし、それこそチョークによる頸部けいぶ圧迫の可能性があるのでは?」

「あり得ません。何度も繰り返しますが、これは妄想なのです。あと、武さんがしてくれるのは抱っこであって、絞め技ではありません」

「そうでしたか」

「あなたには同じ症状の経験はありますか」

「私は特にありません。みんなは?」

「私も特にありません」

「私も」「私も」「私も」


 ——かくして、この奇病が遺伝子操作されたデザインチャイルド特有の病気であるという仮説は棄却されてしまい、調査は振り出しに戻ってしまった。

 マツリはとりあえず医学に特に秀でている姉弟の一人に、自身の血液検査や脳波測定を依頼し、オーナー姉弟の姉である雨ノ中イナミにこの奇病の件を報告する事にした。

 現状、この奇病はマツリの管理人業務にネガティブな影響を与えているのは間違いない。症状が悪化すれば業務自体に支障をきたす可能性があった。万が一のために、後任となる姉弟について相談させて頂こうと思ったのだ。


 マツリから相談を受けた雨ノ中イナミは、瞳をキラキラと輝かせて笑った。


「つまり、東郷のおじ様のことを想って、胸が苦しくて、もしかしたら死んじゃうかもしれないから、管理人を代わって欲しいってことかしら」

「はい」


 イナミは何かに耐えかねるように、くぅ~と声を漏らして頭を揺らす。すると、その艶やかな黒髪が左右になびいて良い匂いがあたりに立ちこめた。

 やがて、イナミはマツリに向かって両手を広げると「マツリちゃん、抱っこさせて」と笑った。


「はい」とマツリがそれに応じて近寄るとギュッと抱きしめられた。

「どうして、抱きしめるのですか?」

「マツリちゃんが、とぉ~ても可愛いからよ」

「容姿的な魅力は、マツリはイナミ様の方が優れていると思います」


 マツリは率直な感想を伝えた。

 悪の組織が産み出したデザインチャイルドは、現代社会の価値観において美しいとされている容姿的特徴になるよう調整されている。美しさとは主観的なものであるが、それでも自分達よりもイナミの方が美しいと思っている。

 神の領域に踏み込もうとしたデザインチャイルド計画も、結局のところ神以上のモノは生み出せなかったのだとマツリは考えていた。


「あら、ありがとう。でもちょっと意味が違うのよ。そうね……最近の言葉では『萌え』って言うらしいわ。マツリちゃんは萌えるのよ」

「萌え……ですか。マツリは植物でないので萌え芽吹くことはできませんよ」

「きゃ~、マツリちゃん萌え~」

「イナミ様、苦しいです」

「きゃ~」


 こういったイナミの前後の脈絡がない言動はいつもマツリを混乱させるので、あまり深く考え過ぎないようにしている。それに最近になってイナミが好んで読むようになったマンガの影響も見られる。非現実的で荒唐無稽なそれからの影響に、合理的に対応しても無意味だと判断した。

 イナミが満足するまで、抱きしめられたり頭を撫でられたりするのに任せたまま、頃合いを見計らって本題を切り出した。


「イナミ様、私の病気についてなのですが、よろしいですか」

「ああ、そうね。このまま抱っこしたままでいい?」

「問題ありません」


 イナミはマツリを膝に乗せ、その小さな体を後ろから抱き寄せ、頬をすり合わせながら続ける。


「マツリちゃん、実は私、その病気のこと良く知っているのよ」

「そうなのですか?」

「ええ、その病気のせいで、多くの人が苦しんで、多くの人が幸せになるわ。そういう病気なの」

「苦しんだり、幸せになったりする病気……」


 それは病気の定義として矛盾するのではないか、とマツリは怪訝に思った。しかし、イナミの言う事はいつも割と矛盾していることが多かった。だから、あまり深く考えない事にする。

 それに人を幸せにする病気、という言葉には妙に説得力があった。マツリは武の事を考えると胸が苦しくなるが、同時に気分が高揚するのを思い出した。あれには、麻薬のような常習性がある。となると依存症候群のたぐいだろう。ふむ、病名をつけるなら武さん依存症候群だろうか。


「病名はなんというのですか?」

「ずばり、恋というのです」

「コイですか? 変わった呼び名の症状ですね。正式名称はなんというのですか」

「恋は恋よ、お魚の鯉でもないわよ。二人の人間の複雑な関係を表す言葉なの」

「もしかして恋ですか? それは病名ではなく、男女が性行為を行う際に生じる心理状況のことを言うのではないですか?」

「まぁ、マツリちゃん、なんてこと言うのかしら、おませさんねぇ」


 イナミは声を上げて笑って、めっ、と言ってマツリの頭を軽く小突いた。マツリは頭を抑えて見上げる。そこにはとても優しい目で自分を見つめる笑顔があった。


「恋を治す必要はないのよ。それはじっくり時間をかけて悩むものらしいわ。マンガにもそう書いてあった」

「でも管理人としての業務に支障があるのです」

「あら、アマヤドリ荘の管理人の業務よりもマツリちゃんの恋の方が大切よ。きっと弟のイザギも同じ事をいうわ」


 ふふ、と小さく鼻を鳴らしてイナミはそう請け負う。


「お気持ちは嬉しいのですが……私はどうすれば」

「あら、あのマツリちゃんに分からない事があるなんて、お姉さんは頼られてとっても嬉しい。がんばっちゃいますよ」


 イナミはそう言って本当に嬉しそうに笑って腕をまくって見せる。

 マツリは少しだけ恨めしい気持ちになった。人の気持ちも知らないで、どうしてイナミ様はこんなにご機嫌なのだろうか。


「……そうね、マツリちゃんの恋は少し難しい恋だと思うの。お相手はもうお年を召したおじ様だし、マツリちゃんはまだ十歳。千年くらい前なら問題なかったのよ。光源氏と紫の上みたいな感じで、だけど今は犯罪になるらしいわ。でも、禁断の恋っていうのはやっぱり萌えるわね。お姉さん応援しちゃう」

「はぁ、ありがとうございます」


 どうにも要領を得なかったが、とりあえずイナミは、自分の恋という問題について前向きに取り組んでくれるらしい。いささか不安に感じないでもない。マンガで得たであろう知識に振り回されている懸念もあった。

 しかし、マツリはイナミの事が大好きだったので黙ってお任せすることにした。


「私、決めたわ。マツリちゃん、今日からあなたを管理人兼受付に任命します」

「受付ですか」


 マツリは首を傾げる。

 アマヤドリ荘の玄関近くには受付用の窓口がたしかにある。しかし、ほとんど訪問者が来ることがないので使用されていなかった。

 たまの訪問者には玄関から中に声をかけてもらうか、呼び鈴の音を聞きつけた者が用件をうかがうことにしている。今のところ、それで問題は起きていない。


「午前中だけでいいわ、東郷のおじ様は毎日お弁当を配達してくれるでしょ、マツリちゃんが受付ならおじ様と自然とお話が出来るじゃない」

「でも……私は、武さんのことを考えるだけでおかしくなってしまうのですよ」


 おかしくなるどころではない、とマツリは内心で付け加えた。

 体温は上昇し脈拍が倍以上に速まる。武を目の前にすると頭の中がグチャグチャになって、まともに話すことすらままならないのだ。簡単な(普段の彼女であれば本当に簡単な)受付業務ですら満足に対応できる自信はない。


「逃げちゃだめよ。恋から逃げては何時まで経っても解決しない。まずは出来る事から少しずつ積み重ねるの。相手と毎日会って、ご挨拶して、出来ればお話をして……そうしなければ恋は進まないわ。もちろん、良い結果になるとは限らないけど、恋で一番怖いのは止まったまま終わってしまうことよ」


 マツリは青ざめた。

 今でも十分に苦しいのに、何もしないでいるともっと酷い事になるという。それはマンガが得た知識なのだろうか。あれの厄介なことは事実と虚構をごちゃ混ぜにして、何が本当か分からなくなってしまうことだと思う。


「安心しなさい、おじ様は良い人だわ。良い人過ぎて周りを困らせてしまうくらい。マツリちゃん、おじ様のことは大好きでしょう?」


 マツリはこくりとうなずく。大好きなのにお会いするとおかしくなってしまうから困っているのだ。武さんは私と姉弟を悪の組織から救い出してくれた恩人だというのに……。


「始めは弟のイザギに付き添ってもらいましょう。私からイザギに言っておくわ」

「そんな! 畏れ多い事です。イザギ様にまでお手伝い頂くなんて……」

「いいえ、イザギはきっと喜んでやるわ。だってイザギもマツリちゃんのこと大好きですからね」


 ……かくして、マツリはアマヤドリ荘の管理人兼受付になり、東郷武から配達弁当を受け取る平日午前十時は彼女の最も幸せな時間となった。


 マツリのその幸せは、三年間続いた。


 当初こそ、満足に武の顔を見ることも出来ずにいたが、姉からの依頼を快諾したイザギのフォローもあり、少しずつ自分で対応出来るようになっていった。三か月後には一人でも対応することが出来るようになり、武と簡単な世間話をかわすようになった。


 マツリは武について少しずつ理解を深めていった。


 例えば、武はおそろしく時間に正確だった。

 配達の午前十時より早くに来ることはあっても遅れることはまずなかった。それに気づいたマツリは三十分前には必ず受付で待機するように気をつけた。

 またある時、マツリは武に、弁当がとても美味しかったと伝えてみた。

 これはイナミとイザギの助言によるものだ。結果、武の普段は閉じられた口元がほころんだ時の笑顔が、とても素敵だということを発見した。

 はたまたある時、受取票を差し出す武の手が、大きくて節くれだってゴツゴツしている事に気がついた。勇気をふりしぼって受取票を手渡すとき、その手にちょんと触ってみた。すると、途端にこみ上げた恥ずかしさで頭の中がパンクしてしまい、逃げるように自分の部屋に駆け込んでしまったこともある。

 私にはまだ早すぎたのだ、とマツリは反省した。

 マツリはそうやって武のことを少しずつ発見していった。定食屋を営んで二十年になること、隼人という息子がよく手伝ってくれること、出来の良い息子で自慢に思っていること、妻とは随分前に離婚していること(これは大発見だった)。


 一方で、マツリは武について発見があると、また新たな謎が生まれる事に呆然とした。

 まるで原子を励起させて電子を取り除くと、すぐに新しい電子が流れ込んで元の状態に戻るように、武の謎を取り除くとすぐ新しい謎が補給されて彼のことをもっと知りたいと思うのだ。

 これまでの発見と新たな謎をまとめて論文にすると、おそらく十冊くらいになるだろう。一度内容を整理するためにも執筆してみようと思い立ち、実際に要旨と序論まで書き進めている。

 イナミにその研究進捗を報告すると、イナミ両手で口を抑え、とうとう笑い転げてしまい「完成したら、是非、読ませてちょうだい」と言われた。

 その頃になると、かつてマツリを悩ませていた心臓を糸で締め付けられるような苦しみは和らいで、毎日の新しい発見に対する高揚はさらに高く積み重なっていた。マツリは将来、武についての研究者になりたいと思いはじめた。お面ライダーの研究はいずれ誰かがやらねばならない。それは、正義とは何かを問う難題でもある。であれば、恋の病にかかってしまった自分がもっとも適しているはずだ。

 しかし、そんな幸せな妄想を積み重ねる日々は唐突に終わった。それはマツリが十三歳になった冬。武が隼人に自分の正体を打ち明ける三日前のことだった。

 

 いつもより早い午前十時の十五分前に、アマヤドリ荘の玄関がトントンと鳴った。

 受付で待ち構えていたマツリは、出来るだけ大きな声で「はい」と声かけながら、扉の前でお弁当を抱えて待っている武を気にかけてそっと扉を押し開ける。

 扉の隙間から外を覗くと武がわずかに笑っていて「ありがとう、マツリちゃん」と言う。玄関に招き入れて受付近くにお弁当を置いてもらうと、マツリはいつものように受取票にサインした。

 指が触れ合わないように慎重に受取票を返すと、それを受け取った武が「ごめんな、マツリちゃん、もう来られないんだ」と申し訳なさそうに言った。


 その瞬間、マツリの幸せな時間が止った。


 治ったはずの心不全が再発し、呼吸を乱して酸素の供給が絶える。

 しかし、彼女の優秀な頭脳はそんな状態にも関わらず状況を正確に判断した。それは彼女が以前からずっと懸念に感じていたことでもあった。武がいずれここから遠いところに行ってしまう可能性は、彼が正義のヒーローである限り常に存在していた。

 ただ、マツリはそれをずっと考えないようにしていた。なぜかと言われると、彼女にも良く分からない。

 きっと、自分の遺伝子操作をした研究者が、正常な判断力に必要な遺伝配列に失敗したに違いない。


「また、誰かを、助けにいくのですか?」


 かすれた声を絞り出すのがやっとだった。

 何て馬鹿な質問だろうと、マツリは悲しくなった。お面ライダーなのだから当たり前ではないか。他に聞くべきことは、聞きたいと思っていることは沢山あるはずなのに、何一つそれを言語化することが出来なかった。


「いいや、今度は自分のためだ」


 武のその穏やかな口調の裏にある断固とした意思は、マツリに絶望を予感させた。


「……戻ってきてくれますか」


 武は口を引き結んで、答えてくれなかった。

 マツリは泣きたいと思った。子どものように泣き喚きたいと思った。よく考えたら自分は十三歳の子どもだった。泣いても許してもらえるはずだ。

 泣こうと思って息を吸おうとした時、すでに頬を伝っているものが涙であると気がつく。後は、赤子のように声を上げて泣きわめいた。とめどなくあふれる涙はもう制御不能で、再発した心不全は肺機能にも影響し、呼吸すらもままならない。

 武が座り込んでマツリの頭を撫でると、マツリは抱きついて泣き続けた。


「マツリちゃんを泣かせる奴は誰じゃ!」


 マツリの背後からオーナー姉弟の弟、雨ノ中イザギの鋭い声がする。


「……なんだ、武か」

「イザギ、すまない」

「ふむ」とこぼしながらイザギは二人の様子を眺めた。


 イザギはその太陽のように明るい髪を左右に振った。

 姉イナミの闇に溶け込むような黒髪と対照的ではあるが、顔の造形はうり二つだ。年齢はマツリよりも少し幼い男の子。しかし、眼光は鋭く威厳に満ち、その声には年不相応の尊大さがあった。


「どうした?」

「以前に話した通りだ。行くことにした」

「正義とやらか?」とイザギは小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「己の正義を確かめに」


 はっ、とイザギは息をはく。


「子どもを泣かしておいて正義も何もあるまいて」

「すまない」


 と頭を下げる武に対して、イザギはうんざりとした様子でため息をはく。


「いつ帰ってくる?」

「分からん」

「分からんで許されようか。それこそ、子どもの家出ではあるまい」

「あてのない戦いになる」

「馬鹿を極めよってからに。負けるつもりか?」

「いや、勝つつもりだ」

「だったら帰ってこれるじゃろう」

「……」


 押し黙ってしまった岩のような顔を、イザギは、はぁ、とため息をついて頭をふる。


「……おい、武。ここでやくを結べ」

「約?」

「ここに帰ってくるという約じゃ。かわりに前に頼まれたことを引き受けてやろう。お前の息子をここの住人として受け入れてやる」

「いいのか?」

「約を果たすのであればな。ただし、のたれ死んだと分かればお前の息子はどうなるか? なぶり殺しにしてやろうぞ」


 ふふ、とイザギは笑って「あっ、そういえば」と手を叩く。


「お前の息子は料理が出来るのか?」

「料理か?」

「お前と比べて、どうだ?」

「俺と比べて……いや、俺以上だ。まだ十七だが俺なんぞより美味い物を作る」と東郷は自慢げな様子を隠さずに答えた。

 ほう、とイザギは嬉しげに甲高い声をこぼしてニヤリと笑う。


「なら、決まりじゃ。さっさと約を結ぶぞ……。愚か者、我に対してではない、お前は本当に馬鹿者よな。マツリちゃんに対して誓いを立てよ。指切りげんまんじゃ」


 そうイザギに言い渡され、武は戸惑いながらもマツリの前に屈み込んだ。

 マツリは泣きべそかいた顔を袖で拭いながら、差し出した太い小指に自分の小指を絡めてキュッと結ぶ。武の指に触れてもかつてのような動揺はない。ただ、胸いっぱいに広がっていた想いが堰をきって溢れだすように口をついた。


「きっと、戻ってきて下さい」吐き出したその願いを、

「神に誓って」武が受け取り、

「神が承った」イザギが封じる。


 ゆびきりげんまん、うそついたら、おまえのむすこをこーろす。

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