第二夜:俺はゲイなんだ事件

 その事件が起きたのは、せみすらも汗をかき、木から滑り落ちそうな、そんな夏の日だった。


 その時の隼人は、学校の男子生徒たちに追い回されていた。

 背後を振り返れば、暴徒化した生徒たち数百名が「ハヤトを殺セ」と怒声をあげて走ってくる。校内を逃げ回ったが、ついに地獄の釜風呂のように熱気むせかえる体育館の舞台の上へと追い詰められた。周囲を取り囲んだ男子生徒たちは、まるで脳がとろけたようにこちらに手を伸ばし、「ヨクモ、レイコ様ヲ、キズツケタナ」と口々に唱えていた。

 絶体絶命に追いやられた隼人が手に触れたのは、メガホン型のスピーカーだった。体育の教師が置き忘れたのだろう。彼はそれを掴み取ると、意を決し、そして叫んだ。


「お、俺は、ゲイなんだ!」


 それは蝉すらも耳をふさぐ大音量だったらしい。

 これが、巣鴨千石高校につたわる大騒動「俺はゲイなんだ事件」のあらましである。



 ◇


 その事件から半年が経過し、あの日、耳を塞いだ蝉が一夏一生の恋ではぐくんだ幼虫が、地面の中でやすらかに眠る、そう、冬になった。

 その日の授業を終えた隼人はノートを眺め、シャーペンで頭を掻いていた。頭の中では昨夜のことがぐるぐると回っている。あの親父が自分のことをお面ライダーなのだと言い出したあげく、定食屋を閉めると宣言したことだ。

 その行くあてのない思考はしだいに寄り道をはじめ、駄菓子を買い食いするかのように、どうでもよい場所にたどり着く。

 仮に親父が正義のヒーローだとしよう。そしたら、その息子がゲイなのだから、遺伝というのもいいかげんなものに違いない。もしかしたら、禿げの遺伝についても心配しなくてもいいかもしれない。


「ねぇ、隼人」


 バン! と目の前の机の上に拳が振り降ろされた。

 目を上げると髪を短くしていかにも元気一杯な様子の女生徒が、こちらを睨んでいる。


藪隠やぶがくれ、机が壊れちまう」

「定食屋さん、閉めちゃうんだって? なんでよ」


 彼女の目は飢えた獣のように鋭く、その声色は腹の虫のように低かった。

 隼人は、しまったな、とおもわず目を閉じた。定食屋の大常連にしてアルバイト、食欲に青春を捧げたこの良き友人に、事の次第を知らせなかったのは配慮にかけていたかもしれない。


「まぁ、落ち着けよ。俺だって、分けが分からねぇんだ」

「大変なのはこっちよ。これから私は何を楽しみに生きていけばいいっていうのよ!?」

「そんな大げさな。色々あるだろう。その、まぁ、青春なんだし。クリスマスとか近ぇし」


 バン! と今度は肩を掴まれた。

 隼人は驚いた。身動きがまったく取れない。女とは思えない力が肩の骨を掴み、椅子に固定されてしまっている。流石は、柔道日本一の実力は伊達じゃない。


「いい加減にして。そんな色恋沙汰で私のお腹が満たされると思うの?」


 恋を煩って食事も喉に通らない、というのが少女マンガ的な青春だと思っていたのだが、そんな安易なラベルを彼女に張ることは、瞬間接着剤を使っても無理だろう。

 今、目の前にいるのは最強の女子高生だ。しかも飢えによって極めて凶暴な状態だと言える。このままでは、自分が食べられてしまうかもしれない。栄養摂取的な意味合いで。

 このままではマズい。


「なぁ、藪隠」

「なによ?」

「一度、ケーキを作ってみたかったんだ」


 その瞬間、肩の掴み手がわずかにゆるむ。活路を見出した隼人は一気にたたみかける。


「それに、ミートパイ、タンドリーチキン、それとストロガノフにも挑戦してみたい。クリスマス近ぇし」

「……定食屋さん、閉めちゃったのに?」

「逆にいい機会なんだよ。常連にジジババが多いから、うちの定食屋はどうしても和風に偏る。前から洋食も作ってみたかったんだ。ちょうどいい機会、そう思わないか」

「食べていいの?」

「大食らいのお前なら、作り甲斐がある」


 肩の圧が消えて無くなり、飢えた獣は子犬のようにつぶらな瞳をして、すとん、と向かいの椅子に腰を落ち着けた。


「本当に?」

「そう言ってんだろ。腹いっぱい食えよ。あの事件で最後まで俺をかばってくれた恩もある。そいつを飢えさせてしまったら、定食屋の息子の名折れだ」

「うへへ、そうかぁ。隼人のクリスマス料理かぁ。お腹いっぱいかぁ」


 隼人は言い切った手前、急に不安になった。

 はたして、彼女の胃袋を満たすにはどれほどの材料が必要になるだろうか。店の在庫が残っているはずだが、いくらかは自分の小遣いから捻出する必要があるかもしれない。

 そんな勘定をしていると、藪隠が急に声を潜めてこちらを覗き込む。


「ねぇ、隼人」

「なんだよ」

「あのさ、落ち着いて聞いてね。これはあくまでも提案なんだけど……」

「なんだ? 他に食いたいものでもあるのか」

「レッコも誘っていい?」


 隼人は黙り込んだ。

 藪隠がレッコと呼ぶのは、鞍馬麗子くらまれいこという女生徒だ。この高校の全男子生徒の信奉を集めるアイドルで、ほんの数ヶ月しか続かなかったが隼人の彼女だった。

 そして、俺はゲイなんだ事件————通称、ゲイ事件は、二人の破局をきっかけに、激昂した男子生徒たちによって引き起こされたものだった。

 その時のことを思い出して、隼人の頬がゆがむ。


「……」

「ダメ、かな?」

「ちょっと、難しいな。鞍馬さんは俺のこと許さないと思うし、俺だって自分のこと、まだ良く分からないんだ」

「でも、それって。レッコの取り巻きが勝手に暴れたせいじゃない? あんな奴らに邪魔されたら、誰だって上手くいくわけないよ。あ〜、思い出したらまた腹が立ってきた。今度、あいつらが暴れたら、私が全員ぶっ飛ばしてやる」


 藪隠が腕を振り回すのを見ながら、隼人は悩む。

 はたして、原因は鞍馬さんの取り巻きをしている奴らにあるのだろうか。ゲイなのに付き合った自分が悪い、と思われてもしょうがない。確かに、初めから付き合うべきではなかったとは思うのだが、自分の性的指向に気がついたのは、付き合った後のことだった。

 ある日突然、鞍馬さんに告白をされた。

 彼女は本当に美しい人で、廊下を歩けば生徒たちは左右に分かれて道を開け、男子生徒はそのまま後ろに付き従って列をなすほどの美少女だ。名家のお嬢様でもあり、人当たりもよいからか女子からの悪評も聞いたことはない。いわゆる学校のアイドルのそれ以上、偶像的崇拝をその一身に集めていると言っても過言ではない。

 そんな彼女から告白をされて、驚きつつも、単純に嬉しくもあり、訳もわからずOKをしてしまった。この時は、自分がゲイだなんて思ってもみなかった。


 そして、何回目かのデートの時だ。


 二人きりのカラオケボックスで、彼女は俺にキスをした。

 驚いて頭の中が真っ白になった。咄嗟に思った事は、どうして、だった。どうして、この人はこんなことをするのだろう? 

 すん、と独特な匂いがした。

 果物がすえたような、生々しくてくどい匂い。それが発情した女の体臭だと気がついたとき、吐きそうなほどの嫌悪感に襲われた。まるで腐った桃を口に含まされているような、そんな感じ。

 目を閉じ、じっと耐えた。だけど、気の遠くなるほどの長い時間、鞍馬さんは唇を重ね続けてなかなか放してくれなかった。

 それが自分のファーストキス。


 後日、鞍馬さんに別れを告げ、そして、あの事件が起きたのだ。

 当時の記憶を思い巡らせた隼人は、改めて藪隠にむかって手刀をきる。


「やっぱり、勘弁してくれ」

「わたしはさ、隼人とレッコはお似合いだと思うんだけどな」

「俺はゲイだから」

「むぅ」と藪隠が口を曲げる。

「もう、いいだろ。それよりもお前の飯の話をしようぜ」

「う〜ん。レッコを差し置いて隼人の料理を独り占めするなんて、親友としてあるまじき裏切りなんだけど」

「たのむ」


 藪隠は深いため息をついて「そういえばさ」と首をかしげる。


「どうして定食屋閉めちゃうのさ? おじさんは?」

「あ〜」


 そろそろ帰ろうか、と隼人は教科書やノートを鞄にしまいながら言葉に迷う。まったく、この友人は次から次へと答えにくいことばかりを聞いてくる。


「その前にちょっとスマホいいか? パーラ先生に予定のキャンセル伝えなきゃ」

「ああ、そう言えばカウンセリング受けてるんだっけ? あの金髪の先生に」


 隼人は頷き、スマホを取り出す。


「実際、どんな感じなのさ? スクールカウンセリングって」

「悪くねぇよ。ゲイとか同性愛者のこととか、知らなかったこといっぱい教えてくれるし。だけど、本当は今日も相談にのってもらう予定だったんだけど、店じまいがあるからな」

「隼人ってさ、そういうところ、あけっぴろだよね」

「もう全校生徒の前でカムアウトしちまっているからな」と笑った後、真剣な表情に変える。「それにゲイならもっと自分のこと調べないと。世界中の奴らの7%くらいは俺みたいな少数派なんだ。少数派って言っても、それは左利きの奴と同じくらいの割合で、そう言われるとけっこう多い気もする。そういうことを知らなきゃ、無駄に不安になっちまうだけだろ」

「はぁ〜。なんか、すっかり大人だねぇ。一皮むけちゃったの?」

「ばかやろ。全部パーラ先生の受け売りだ」


 隼人はスマホの画面を叩いて、カウンセリングのキャンセルを送信した。


「で、おじさんはどうしたのよ?」

「……熱海に行ったんだよ」

「旅行?」

「まぁな。昔の友達と集まるそうだ」

「ふーん」


 まさか、本当のことを教えるわけにもいかない。

 少なくとも熱海に行ったのは間違いないし、そこで友人たちが待っているのも聞いた通りだ。ただし、目的は旅行ではなく悪と戦うためで、友達はかつての戦友だったらしい。

 うん。今度、パーラ先生に親父のことも相談してみようかな。


「あ〜、それにしても。しばらくあの定食屋がお預けなんて、残酷よ」


 藪隠は片腕で頬杖をついて、頬をふくらませた。


「なんだ。俺の料理じゃあ不満か」

「そんなことはないけどさ。でも、やっぱりあの定食屋で食べるから美味しい、ってところもあるじゃないか」

「それな」


 思わず、膝を叩いて藪隠を指差す。


「やっぱり、店の味ってのは料理だけじゃねぇからな。常連のみんなで親父の料理を食うから旨いんだ」

「まあね〜。だって、隼人の親父さん、雰囲気あるもん。黙って何にも言わないけどさ。カウンター向こうで親父さんが料理しているのを見ているだけで、もうお腹が鳴り出しちゃう」

「だろ。味は真似できても、俺にはああいう風にはいかない」

「……隼人って、本当に相変わらずだよね」


 どこか得意気な様子の隼人を見て、藪隠の口の端がゆがんだ。

 思春期の男子といえば、父親のことをまるで親のかたきのようにうっとうしいと思うものだ。ところが、彼の場合は父親のことを話す時は自慢げですらある。

 隼人って、ゲイじゃなくて単なるファザコンなんじゃない? と彼女が疑問を投げかけようとする前に、隼人が口を挟んだ。


「ところでよ。しばらくアマヤドリ荘に住むことになったからさ」

「んっ」

「飯を食いたきゃ、そこに来てくれよ」

「アマヤドリ荘って、あのでっかくてボロい?」

「ああ、そこだ」

「住んでたんだ。あそこに、人が」

「ああ。うちの仕出し弁当を入れてるからよ、配達するときに受付に小さな女の子がいつもいるんだ。ちょっと無愛想な感じの子。他にも何人か住んでいるはずだぜ。で、親父がそこに入ってろ、って言われてさ」

「へ〜。だったら、柔道部の帰りとかに寄ってく感じになるのかな」

「そんな感じだな」


 隼人は鞄を取り上げて「じゃあな。俺、今日は店の掃除と入居の手続きがあるから。明日から来いよ」と席を立った。


「わかった」と藪隠まよひは手を振って、その背中を見送った。

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