アマヤドリ荘の夜間食堂

舛本つたな

第一夜:麻婆あんかけチャーハン

 外では風が荒ぶっていた。

 あおられた店の暖簾のれんが、戸口のガラスを叩いている。

 東郷とうごう隼人はやとはその音に目を向け、外がすっかり暗いことに気がついた。そろそろ夜の九時だ。暖簾をおろさないといけない。

 引き戸を開け外に顔を出した瞬間に、思わず身震いし素手をエプロンの中へと隠す。浅漬けを仕込んでいた濡れ手に冬の冷気が刺したのだ。そろそろ高校も冬休みになる。そうなれば、昼でも店の台所に立つことができるだろう。

 そう思いながら暖簾を取り上げて、さっさと店内に逃げ帰る。手をこすり合わせ、立ちこめる暖房と湯気を堪能していると、


「ごちそうさん」とカウンターから声がした。


 目をやると、最後の客になった八百屋のゲンさんが平らげた皿に向かって、まるで仏壇に拝むように両手を合わせている。


「ゲンさん、おあがりかい」と暖簾をしまいながら声をかける。「今日は冷えるから、気をつけて帰ってよ」


「隼人ちゃん、今日もうまかったよ。ほら、この煮付けの大根なんてな、八百屋のワシでも食ったことねぇくらい、あまーい大根だった」

「うれしいね。そいつは俺が仕込んだんだ。……ああ、皿はそのままでいいから」


 隼人は、皿や小鉢を重ねようとする客の手を止め「ダメダメ、俺の仕事だよ」と歯をみせる。


「偉いねぇ。本当に偉い。まだ高校生だろ。ウチの息子と比べたらよぉ。まったく、タケの野郎が羨ましいや」

「へへ、だってよ。親父」と台所に向かって声をはった。


 すると、カウンター席の向こうから、ぬぅ、と顔が下から現れる。

 皺が刻み込まれた岩のような顔だ。その固く引き結ばれた口が、もぞ、と動いて「そうか」とだけ吐きこぼした。そして、そのまま元の場所へと沈んでいき、カチャカチャと音を立て始める。


 また仕事を取られた、と隼人は嘆息した。

 定食屋として無愛想すぎる父親だが、料理の腕は一流だ。しかも、皿洗いや掃除といった雑用に手を抜くこともなければ自分に押しつけることもしない。こっちが油断していたら、材料の仕込みどころか、皿洗いに台ふきに調味料の補充まで、全部自分でやってしまう。


「相変わらず愛想のねぇ野郎だよ。タケは」とゲンさんは苦笑いを浮かべ「じゃあよ」と外に向かう。隼人はそれを見送ると、急いで店の中に戻り、皿を抱えて台所に駆け込んだ。

 しかし、すでに台所は綺麗に片付けられてしまっていた。

 また一つ、隼人はため息を吐く。

 洗い終わったまな板は立てかけられて水切りにされ、鍋やフライパンの類もすでに乾燥を終えて吊されている。コンロ周りのすすやシンクの残飯も拭き取られてしまい、新品みたいにぴかぴかだった。台所の掃除はもうほとんど残っていない。

 それなのに、台所の奥には父親の背中がもくもくと動いているのが見えた。先ほどまでの皿洗いもすでに終えたのか、今は床にモップをかけている。


「親父ぃ」


 やや非難がましく、隼人はその大きな背中に声をかけた。


「……ん?」と父親が顔だけで振り向く。


 その顔からは何も読み取れなかった。

 その表情が変化するところを、息子の自分でさえめったに見たことがない。一方で、表情と口が動かないのかわりに手と足はよく動きよく働いた。幼い頃から父親の口から文句も弱音も聞いたことはない。ついでに絵本や子守歌もだ。しかし、いつだって、その大きな背中はより確かなものを語り、大切なものだけを教えられてきた。


「新メニューを考えたんだ」隼人の手に力がこもる。「今から作るから、味をみてくれよ」

「ああ」とわずかに頭を縦に動くと、またもくもくと背中が動き始める。


 隼人はきびすを返し、冷蔵庫を開けた。

 そこから取り出したのは、生姜、玉ねぎ、挽肉。そして作り置きの麻婆ソース。

 コンロに火をいれる。

 材料を手早くきざみ、フライパンで一緒に炒める。色合いが良くなった段階で、麻婆ソースを入れて、ふつふつと泡立ちを見て、火を弱め、濃い味に煮詰めていく。

 それを横目に、こんどは中華鍋に火をかけ、そして腕をまくった。


 ここからが腕の見せ所だ。


 作るのはシンプルな卵チャーハン。だが、これが難しい。

 米粒ひとつひとつに卵をまとわせながらパラパラに炒める。タイミング、鍋の振り、火加減、どれをしくじっても、ねちゃり、とした粘り残る残念チャーハンになってしまう。

 中華鍋が熱気を中央に集めて吹き上げはじめた。

 その熱風を顔面にうけ、隼人は固唾をのんだ。チャーハンは剣豪の立ち会いみたいなものだと思う。勝負は一瞬。卵が焼き固まるまでのわずかな間で決着がつく。

 覚悟を決めた。中華鍋の柄を握りこむ。

 さっ、と溶き卵を投入し、すぐさま冷や飯を追加。

 すぐさま、鍋をひと振り。

 卵の半熟を宙に回して、米にまとわせる。そして、また振る。

 よし! 

 はやくも米がぱらつき始めた。ここで一気にたたみかける。

 脇をしめ、全身で鍋を振る。黄金の卵をまとった米たちが、鍋の上で躍りはじめた。それを繰り返し、米の間に空気を入れふんわりと仕上げる。

 頃合いで素早く皿に盛り付けた。チャーハンの上に煮詰めた麻婆ソースをかけと、米のふんわりとした匂いと麻婆のピリっとした匂いが絡まって、思わず喉がおちた。

 麻婆あんかけチャーハンの完成だ。


「親父! できたぜ」


 隼人が振り向くと、そこには、もうすっかりと台所の掃除を終えた父親が「そうか」とエプロンを脱いでいるところだった。そのまま客席のテーブルに行ったので、あわてて皿を持って追いかける。


「味を見てくれ」

「ああ」


 父親のごつい手がレンゲを持ち上げ、麻婆ソースとチャーハンを絡めてすくい、口に運ぶ。その様子を隼人はじっと眺めていた。変化の乏しい父親の表情は、咀嚼そしゃくによって揺れるばかりでその是非は分からない。しかし、一口だけ食べた後、父親の手は止まってしまった。

 隼人の自信は消え失せ、不安が胸に立ちこめる。

 一口目を飲み込んでも、レンゲは皿に置かれたままだ。ただただ時間だけが過ぎていく。壁時計の小さな音が、チッチッ、と鼓膜をつつきはじめた。

 隼人は動かない父親の表情を見ていられなくなって、視線をテーブルに落とした。そこには自信作の麻婆あんかけチャーハンがある。それは間違いなく、今の自分の全力だった。


「……ダメか」

「いや」

「でも、」と視線を上げた直後、隼人は愕然がくぜんとして目を見開いた。


 あの親父が泣いていた。


「お前はよく出来た息子だ」と動かないはず口からかすれた声が出てくる。苦労が刻みこまれた目尻の皺に涙が染みこんで「本当に」と、節くれ立つ大きな手がそれを覆い隠す。


「お前に、黙っていたことがある」

「な、なんだよ。急に」

「俺は……。正義のヒーローだったんだ」


 そう言った父親は、テーブルに両手をついてこちらに頭を下げた。

 隼人はそれを見下ろしてながら疑問に思った。はたして、禿げは遺伝するのであろうか、と。

¬

「正義の、ヒーロー?」

「ああ」

「へ、へぇ〜」


 顔を上げた父親からはいつものように何を考えているのか読み取れない。

 隼人の思考は迷宮に迷い込み、脳の束縛から解放された手は勝手に動きはじめる。ちょうど、腹が減っていたところせいか、自由奔放になった手は目の前にあった麻婆あんかけチャーハンをすくい上げて口に運んだ。

 旨い!

 これはたちまち人気メニューになるだろう。今の看板メニューは親父の生姜焼き定食だったが、もしかしたら世代交代の日は近いのかも知れない。


「つまり、警察だったとか?」


 壮絶な迷宮探索の果てに、隼人の思考は脱出の糸口を見つけ出した。


「お面ライダーだ」


 そうか、お面ライダーか。それは、何と言うか、残念だ。

 せっかく見つけた糸口は、お面ライダーとやらに粉々に砕かれてしまった。脳は失意にうちひしがれる暇もなく、次なる糸口を求めて出発しなければならなくなった。

 そして、脳を見送った手はふたたび自由を得て麻婆あんかけチャーハンを口に運びはじめた。腹が減っては迷宮を攻略することは出来ぬ。ゆっくりと咀嚼しながら、隼人の思考は過去へと出発していった。


 親父は、まさに質実剛健そのものだった。

 母さんと離婚したのはまだ自分が幼い頃で、それからずっと、定食屋を営みながら男手一つでここまで育て上げてくれた。ここの商店街に飲食チェーン店が進出してきた時だって、黙ってもくもくと背中を動かし、どこよりも安く、量もたっぷりで、そして旨い定食を作り続けてきた。

 地元の人たちもそんな親父の定食屋が大好きだった。

 常連たちはチェーン店が配るクーポン券なんか目にもくれず、ここに通い続けてくれた。今日まで、この店の暖簾が垂れ下がることがなかったのは、親父の堅実な仕事っぷりに他ならない。


 この定食屋は、自分の原風景だ。


 ずぅっと、ここの風景を見て育ってきた。

 夕方のオレンジ色になった陽の光が、暖簾の隙間から店内を差し込んでいる。商店街の常連たちがテーブルを囲んで、がやがや、うまいうまい、と忙しく箸を動かす。いつだって笑顔が溢れていた。どんな渋い顔をした客もテーブルにつけば頬を緩めて腹を叩きはじめる。まるで遊園地の子どもみたいに壁にならぶメニューを見渡して、今日は何を食べようか、とよだれを飲み込んで喉を鳴らす。

 幼い頃からずっとその風景を眺めてきた。

 遊園地に観覧車があるみたいに、台所には大きな背中があった。まるで雲のように大きく、もくもく動きつづける背中。幼い隼人にはそれがエンジンに見えた。遊園地を回す動力みたいなもの。あるいは、みんなが笑顔になるこの店を動かす燃料。


 もくもくが動けば、みんなが笑う。

 もくもくと働けば、うまいうまいの大合唱。

 ここは定食屋。笑顔を作る工場。

 俺の親父はそのエンジンだ。


 小学生の頃にそんな作文を書いたことを隼人は今でも後悔していない。自分もいつか、あのもくもくになる。その夢は十七歳になった今だって色あせてはいなかった。


 そんな親父はもう五十になる。ずっと働きづめだったのだ。ずっともくもくと動き続けてきたエンジン。実のところ、もう限界だったのかもしれない。


「親父、ごめんよ」と、隼人は指先で目頭を押さえた。

「お前が謝ることじゃない。全部、俺のせいだ。俺のせいで正義は失われ、悪がはびこってしまった」


 隼人はうるんだ視界で、父親の拳が硬く握りしめられているのを見た。

 まだ幼かったころ、あの大きな手に頭を撫でられたことがあった。頭をすっぽりと覆って、ごつごつしていて、それなのにとっても優しかったあの感触。それが不意に思い出されて、隼人の胸にある決意が宿った。

 親父の老後は、俺が面倒を見る。


「しばらくさ。店を休みなよ」


 隼人は手をのばし、父親の拳に触れた。昔から変わらない岩のような感触だ。ずぅと働きつづけた、真面目な男の手だった。


「もう何年も休んだことなかったろう。ず〜と、さ。親父は働いていたんだから。たまには羽をのばしなよ」


 父親は顔をうつむけて無言のままだ。


「店のことは心配すんなよ。親父ほどじゃねぇけど、俺だって少しはできるようになったと思う。ここらでちょっと、ほら……」と少し言い淀んだが、意を決する。「店を、任せてみてくれないか。ちょうど、もうすぐで冬休みだ。学校もない」


 隼人は、ちらりと父親の様子をうかがう。その表情は相変わらず微動だにしない。


「……メニューも簡単なやつだけに絞るよ。藪隠やぶがくれのやつにもさ、バイトのシフトを増やしてもらえないか頼んでみる。だからさ。一度、俺にさ。店を……」

「俺は行かなければならない。正義を為すために」

「だから、休んだほうがいいって。店のことは、」

「店は閉める」


 遮るような断固とした物言いに、隼人は奥歯を噛みしめた。

 悔しかった。尊敬しているのに、まだ自分は父親に認められていないのだ。同時に、自分だけでやれるのか不安もある。色々んな思いでごちゃ混ぜだった。自分一人でやってみたいという意気込みは強い。努力だって続けてきたのに。

 でも、俺は親父がこんなになるまで気づいてやれなかった。親父に負担をかけ続けてきたことを、知らなかったのだ。


「俺さ……、この店を継ぐのが夢なんだ」


 ぽつり、と隼人がそうこぼすと、ぴくり、と父親の肩が震えた。


「お前は俺には勿体ないくらいの息子だ。きっと、母さんに似たんだろうな」とその岩のような表情がくしゃりと崩れる。「大丈夫だ。お前なら十分やっていける」

「だったら、店を」

「店は閉める。常連の連中にもそう伝えてある」

「なんでだよ!」


 隼人は思わず立ち上がった。

 どうして自分を認めてくれないのだろう。口では一人前になったと言いながら、実際には任せてくれようとはしない。それが歯がゆくて、怒りすらも沸いてきた。

 せめて、挑戦させてくれよ。

 やり遂げられるとは言わない。だけど分からないんだ。確かめたくて、しょうがないんだ。せめて、せめて……失敗くらいさせて欲しい。


「信じてくれよ。俺だって、親父みたいになれるから」

「ダメだ。絶対になるな。俺は正義を失った。こんな情けない男になんて絶対になるんじゃない」


 隼人は絶望的な気持ちになって、砕けた腰を椅子に降ろした。


「俺はもう一度だけ戦いにゆく。最後の戦いだ。もしかしたら、お前にも危険が及ぶかもしれん」

「……」


 危険なら他にもたくさんあるだろ。例えば、ほら、交通事故とかさ。


「どこに」

「熱海だ。そこで、かつての仲間たちが待っている」

「熱海って、あの温泉で有名な」

「俺の心残りはお前だけなんだ。……だから、ここに身を隠しておいてくれ」


 そういって、父親は大きな封筒に入れた書類を取り出した。視線を落とすとそこにはアマヤドリ荘の入居書類と書いてある。


「アマヤドリ荘って、ウチがいつも弁当を仕出しだししている?」

「あそこには神がいる」

「かみ?」

「そうだ、神だ。そこなら誰もお前に手を出せん」


 隼人はもう笑うしかなかった。

 もし、ここから徒歩十分のあのボロい寄宿舎に神様が住んでいるとしたら、定食屋の親父が正義のヒーローであってもおかしくはないだろう。昔の友人たちとの温泉旅行ついでに世界を救ってしまうことだってあるかもしれない。


「それと、万が一のためにこれを」


 そう言って、父親は書類の上にそれを置いた。

 幅広の布のベルトだ。中央のバックル部分にプラスチックの安っぽい装置があり、真ん中のへこみに風車みたいなものがくるくると回っている。時折、LEDのライトが光ってこちらの目を刺してくる。


「これは?」

「変身ベルトだ。これをお前に託す」


 隼人は大きなため息をついて、背中を椅子に預けた。

 テーブルの上に置かれたオモチャの変身ベルトがペカペカと光っている。それが、ひどく目障りでしょうがなかった。

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